第3話:斬れる梟雄、狂乱の戦場
久秀は、馬には乗らなかった。
家臣たちが止めるのも聞かず、彼はわずかな手勢を率いて、筒井順慶が陣取る小城の前に立った。
その城は、筒井順慶が誇る堅牢な要塞だった。
通常であれば、兵糧攻めか、あるいは謀略を用いて内部から崩すのが定石。
だが、久秀は、それらすべてを無意味だと断じた。
「裏切り者とは、こうして牙を剥くものだ」
彼は、家臣たちに背を向け、小城の門を見据えながら呟いた。その声は、冷たい鉄のような響きを帯びていた。
「俺を裏切った近藤、土方、山南……。そして、俺を裏切ろうとする筒井順慶。すべては、同じ顔をしている。同じ目つきをしている」
久秀の腰には、松永久秀が愛用した名刀「不動国行」が差されていた。
しかし、彼の右手は、その刀の柄を握ってはいなかった。
その代わりに、久秀は、一人の家臣から借りた粗末な長刀を握っていた。それは、芹沢鴨が、その怪力と豪胆さで数々の敵を薙ぎ倒した、あの長刀と瓜二つだった。
「……久秀様、いかがなされました?」
馬上で控えていた松永内記が、不安げに久秀に声をかけた。
久秀は、内記を振り返り、にやりと笑った。
その顔は、まるで能面のようだった。しかし、その瞳の奥には、血のように紅い光が宿っていた。
「和睦は、無意味だ。奴らは、油断した俺の背中を狙う。ならば……」
久秀は、そこで言葉を切り、長刀を頭上に掲げた。
「……油断する暇を与えず、叩き潰す!」
その言葉が、戦場の静寂を切り裂いた。
久秀は、長刀を振り下ろしながら、小城の門へと駆け出した。
家臣たちは、呆然とその後ろ姿を見つめる。
久秀が、前線で剣を振るうなど、誰も想像していなかったからだ。
「待て、久秀様!」
内記が叫んだ。だが、久秀の声は届かない。
久秀の身体は、まるで水を得た魚のように、戦場を駆け抜けていく。
(ああ、この感覚だ。この血が沸騰する感覚。身体の奥から湧き上がる、この獰猛な暴力衝動。これが俺だ。近藤や土方に、さんざん抑え込まれてきた、俺の魂だ!)
久秀は、長刀を振るった。
その一閃が、城門を守る兵士の槍をへし折り、その身体を吹き飛ばした。
周囲にいた兵士たちは、何が起きたのか理解できなかった。
「ば、化け物だ!」
一人の兵士が叫ぶ。
その声が、久秀の耳には、かつて屯所で土方が俺を罵った言葉と重なって聞こえた。
「ああ、そうだ。俺は、化け物だ。お前たちのような、偽善的な裏切り者どもを、皆殺しにするための化け物だ!」
久秀は、長刀をまるで紙吹雪のように、軽々と振るい続けた。
ガキィンッ! 槍が砕ける甲高い音。ミシリ、ミシリと、骨が軋む不気味な音。そして、ドサッと、肉の塊が地面に落ちる鈍い音。それらの音が、重なり合い、彼の耳にはまるで心地よい音楽のように聞こえた。
その長刀が、敵兵の兜を叩き割り、甲冑をねじ曲げ、まるで藁人形のように宙を舞わせる。
久秀の周りに、血の華が咲き乱れる。
ピチャ、ピチャと、鮮血が地面に滴る音が、やけに鮮明に聞こえた。
城壁から、その光景を見ていた筒井順慶は、呆然と立ち尽くしていた。
「あれが……松永久秀だと? 儂が知る久秀ではない。あれは、鬼だ……」
彼の脳裏には、久秀の言葉が響いていた。「裏切り者とは、こうして牙を剥くものだ」。
順慶の身体は、恐怖に凍りつき、まるで久秀の言葉が予言であったかのように、彼に降りかかる災厄を予感させた。
久秀の後ろに控えていた松永内記は、信じられないものを見るかのように、その場に立ち尽くしていた。
彼の主君は、策謀家であり、戦場にはほとんど出ることのない男だった。
しかし、今、目の前で繰り広げられているのは、戦国武将の中でも最も豪胆な男ですら尻込みするような、狂乱の虐殺だった。
内記の口から、無意識に言葉が漏れた。
「……これが、我らが主君なのか」
その声は、震えていた。内記の隣にいた家臣たちも、顔を青ざめさせ、ただ主の背中を見つめていた。その瞳には、恐怖と、わずかな畏敬の念が混ざり合っていた。彼らの心に、「久秀様は、我らが理解できるようなお方ではない」という、新たな認識が生まれた。
やがて、久秀の周囲には、誰も立っていなかった。
長刀の刃先から、どす黒い血が滴り落ちる。
彼は、その刀身をじっと見つめ、静かに呟いた。
その声は、戦場の喧騒にかき消され、誰にも届かなかった。
「……裏切りは、まだ終わらない。近藤、土方……そして、この世界のすべての裏切り者たちよ。俺は、お前たちを皆殺しにするまで、この刀を振るい続ける」
久秀は、勝利に酔いしれることもなく、ただ静かに、次の裏切り者を探し求めていた。




