第17話:久秀の選択、爆死の真意
筒井順慶の裏切りによって、信長包囲網は崩壊した。信長からの追撃を避け、多聞山城に籠城することを決意した久秀は、天守閣の広間に一人、絶望に打ちひしがれていた。
久秀の心臓は、ドクン……ドクン……と、不気味な音を立てていた。それは、彼の「裏切りへの恐怖」が、絶望という名の闇に飲み込まれていく音だった。その音は、まるで、芹沢鴨が裏切られて死んだ夜、己の肺が粘液で満たされていくような、あの重苦しい音に重なっていた。胃がキリキリと痙攣し、口内には、鉄錆の味が広がっていた。それは、裏切り者の血を、自分が飲み込んでいるかのようだった。
その時、久秀の脳裏に、遠い過去の記憶が蘇った。京都の町を、血で染めた、あの夜だ。酒に酔い、女の艶めかしい声と、仲間たちの賑やかな笑い声に囲まれ、鴨はほんの一瞬、張りつめていた己の心を緩めた。それが、すべてを終わらせる合図だった。背後から襲い掛かる、冷たい刃の感触。熱いはずの血は、どろりと温い泥に変わっていく。肺が、まるで粘液で満たされるかのように重く、息ができない。頭に響くのは、近藤勇の裏切りに満ちた作り笑い。胸に広がるのは、どうしようもない怒りと、仲間という幻想に裏切られた、深い孤独感。
「……油断した」
自嘲するように呟いたその声は、やがて来る死の闇に飲み込まれていった。
(ああ、そうだ。俺は、油断した。油断したから、裏切られた。油断したから、死んだ。だが、もう違う。俺は、油断しない。俺は、信長に、裏切られない)
久秀は、ゆっくりと立ち上がった。彼の目は、絶望の淵に沈んでいたが、その瞳の奥に、再び、狂気と、そして、新たな決意の光が宿った。
(信長は、俺という裏切り者殺しを、自分の掌の上で踊らせるつもりだった。だが、俺は、踊らない。俺は、この乱世の狂気の中心として、俺自身の狂気で、この世界を終わらせる)
久秀は、自らの「裏切りへの恐怖」を乗り越え、信長を討つことを決意した。彼の決意は、もはや恐怖に駆動されたものではなかった。それは、純粋な狂気と、そして、裏切りを恐れず、裏切りを楽しむ信長という、もう一人の狂気への、挑戦だった。
久秀は、家臣たちに、城から退去することを命じた。家臣たちは、久秀の狂気的な決意に、恐怖で震え上がった。彼らは、久秀の命令に従うことを選び、城を後にした。
久秀は、一人、城に残った。彼は、城内に、火薬を仕掛けさせた。城全体に、火薬の匂いが充満していく。その匂いは、久秀には、裏切り者たちが、勝利を目前にして、嘲笑い、踊り狂っているかのような、不気味な匂いに感じられた。
久秀は、天守閣の広間で、一人、座っていた。彼の心臓は、ドクン……ドクン……と、不気味な音を立てていた。それは、彼の「裏切りへの恐怖」が、自害という名の、最終的な決着へと向かう音だった。久秀は、ゆっくりと懐から火打石を取り出した。
「……信長。貴様は、裏切りを恐れない。だが、俺は、裏切りを、この手で、終わらせる」
久秀は、そう呟くと、火打石を打ち合わせた。その瞬間、時間が引き伸ばされたかのように、すべてがスローモーションになった。
カチィ……と、火打石が乾いた音を立てる。その音は、裏切りを画策した家臣たちの、乾いた舌打ちのように聞こえた。パチン、と、火花が散る。その火花が、久秀の脳裏に、芹沢鴨を裏切った近藤、土方、山南の顔を、鮮明に焼き付ける。火花は、まるで生き物のように、畳の目を這っていく。その火花が、廊下に仕掛けられた火薬に触れると、じゅっ、という小さな音がした。その音は、久秀には、裏切り者の舌が、油断した自分を嘲笑う音に聞こえた。
火薬に火が走る。その火の線は、まるで裏切りの系譜のように、城全体へと広がっていく。火薬が爆ぜる、パチ、パチ、という小さな音。その音が、久秀の耳には、裏切り者の嘲笑に聞こえる。そして、一瞬の静寂の後、轟音が天守閣全体を揺るがした。
ドォォォォンッ!
その轟音は、久秀の心臓が、最後の鼓動を打ち鳴らす音だった。爆風が、久秀の身体を襲う。熱風が、彼の皮膚を剥ぎ、硝煙と畳が焦げる匂いが、久秀の鼻腔を突き刺した。それは、裏切り者の血臭と混ざり合い、久秀の脳裏に、裏切られた夜の宴の光景を、鮮明に蘇らせた。
久秀は、炎に包まれながら、静かに目を閉じた。彼の脳裏に、筒井順慶の裏切りの微笑が、炎の赤色と重なる。そして、信長が差し出した茶器が、爆炎の煙の中に、白い幻影として浮かび上がった。
(信長……。貴様は、裏切りを恐れない。だが、俺は、裏切りを恐れ、裏切りのために生きてきた。だが今、俺は、裏切りそのものを、焼き尽くす……)
久秀は、そう独り言ちると、狂気に満ちた笑みを浮かべた。その顔は、獰猛な鬼の形相だった。だが、その瞳の奥には、わずかに、孤独な子供の涙が、光っていた。
久秀の死は、信長にとって、ただの裏切り者の死ではなかった。それは、信長という、もう一人の狂気への、挑戦だった。




