第15話:久秀の苦悩、裏切りの意味
筒井順慶の裏切りは、久秀の心を粉々に打ち砕いた。信長包囲網の形成という、勝利の頂点から、一瞬にして裏切りの奈落へと突き落とされた久秀は、多聞山城の天守閣で、一人、絶望に打ちひしがれていた。
天守閣の窓から差し込む朝日は、久秀の目には、裏切り者の嘲笑のように見えた。その光は、彼の絶望を、白日の下に晒しているかのようだった。その光が、畳の目に沿って、まるで裏切り者の血痕のように、天守閣の床を汚していく。久秀の五感は、信じられないほど鋭敏になっていた。畳の冷たさが、足の裏からじわりと這い上がり、彼の狂気を研ぎ澄ませていく。障子に映る影は、風も無いのにユラユラと揺れ、まるで裏切り者たちが、勝利を目前にして、久秀の背後で、嘲笑い、踊り狂っているかのようだった。遠くで、庭園の松が、ザワザワと不気味な音を立てる。それは、裏切りを画策する者たちの密やかな囁き声に聞こえた。
久秀の心臓は、ドクン……ドクン……と、不気味な音を立てていた。それは、彼の「裏切りへの恐怖」が、絶望という名の闇に飲み込まれていく音だった。その音は、まるで、芹沢鴨が裏切られて死んだ夜、己の肺が粘液で満たされていくような、あの重苦しい音に重なっていた。胃がキリキリと痙攣し、口内には、鉄錆の味が広がっていた。それは、裏切り者の血を、自分が飲み込んでいるかのようだった。
その時、久秀の脳裏に、筒井順慶の言葉が蘇る。「貴殿の狂気が、儂には、美しく見える」。久秀は、自分が、信長と順慶という、二人の「裏切り者」によって、弄ばれていたことを、はっきりと悟った。
(信長……。貴様は、俺という裏切り者殺しを、自分の掌の上で踊らせるつもりだった。そして、順慶は、その踊りを、嘲笑っていたのだ。俺は、裏切られるために、生きていたのだ……)
久秀の顔から、すべての表情が消えた。その顔は、ただの能面のように、虚ろだった。その場にいた家臣たちは、報せを聞いて、一斉に顔を青ざめさせていた。一人の家臣は、腰に差していた刀を、恐怖で取り落とし、カラン、と乾いた音が響いた。別の家臣は、恐怖で膝が震え、その場に崩れ落ちた。さらに、一人の家臣は、久秀の狂気から逃れようと、ゆっくりと後ろに後ずさりし、今にも走り出しそうだった。しかし、彼の足は、恐怖で硬直し、一歩も動かすことができなかった。また、一人の家臣は、両手を組み、静かに念仏を唱え始めた。その声は、久秀には、裏切り者の魂を慰めるための、不気味な呪文に聞こえた。松永内記は、歯を食いしばり、必死に恐怖に耐えていたが、彼の額には、冷たい汗が滲んでいた。彼の目は、久秀の狂気と、それに飲み込まれていく家臣たちの姿を、ただ見つめていた。
その時、久秀の五感は、信じられないほど鋭敏になった。天守閣の畳の目が、久秀には、まるで筒井順慶の顔に見えた。その顔が、嘲笑を浮かべて、久秀を見つめている。柱に彫られた模様は、信長の嘲笑を浮かべた顔に見えた。そして、障子に映る影は、久秀を裏切った近藤、土方、山南の顔に見えた。彼らは、久秀の絶望を、静かに見つめ、嘲笑っていた。
(ああ、そうだ。俺は、裏切り者殺しだ。だが、俺は、裏切られることを恐れて、裏切っていた。だが、もう違う。俺は、裏切りを、恐れない。俺は、信長を、討つ。裏切りを、遊び道具としか思っていない、あの男を……)
久秀は、そう独り言ちると、自身の絶望を嘲笑うかのように、にやりと笑った。
その時、久秀の耳に、遠くから、寺の鐘の音が、ゴオオ……ンと響き渡った。その鐘の音は、久秀には、信長が勝利に酔いしれ、嘲笑を浴びせる音に聞こえた。そして、窓の外の狼煙の煙が、久秀の目には、信長の嘲笑を浮かべた顔に見えた。久秀は、自分が、信長の掌の上で、踊らされていたことを、はっきりと実感した。
久秀は、ゆっくりと立ち上がった。彼の目は、絶望の淵に沈んでいたが、その瞳の奥に、再び、狂気と、そして、新たな決意の光が宿った。
(俺は、裏切り者殺しだ。だが、裏切られることを恐れていた。だから、裏切られる前に、裏切っていた。だが、もう違う。俺は、裏切りを、恐れない。俺は、裏切りを、この手で、終わらせる)
久秀は、自らの「裏切りへの恐怖」を乗り越え、信長を討つことを決意した。彼の決意は、もはや恐怖に駆動されたものではなかった。それは、純粋な狂気と、そして、裏切りを恐れず、裏切りを楽しむ信長という、もう一人の狂気への、挑戦だった。
久秀は、天守閣の階段をゆっくりと降りた。彼の足音は、静かだったが、その足音は、家臣たちの耳には、死神が近づいてくるような、不気味な響きに聞こえた。廊下の隅から、すすり泣くような声が聞こえる。彼らは、久秀の絶望と、そして、新たな狂気を、ただ呆然と見つめていた。
久秀は、彼らを無視し、ただ、まっすぐに、信長が待つ、その場所へと向かっていた。彼の顔は、絶望の淵から這い上がってきた、新たな鬼の形相に変わっていた。




