第14話:二つの狂気、信長包囲網
久秀が信長に反旗を翻したことは、瞬く間に畿内全域を駆け巡った。久秀の行動をきっかけに、浅井、朝倉、そして本願寺が、一斉に信長への攻撃を開始する。歴史に名高い「信長包囲網」が、久秀の狂気によって完成したのだ。
多聞山城の天守閣から、久秀は、遠くで燃え上がる狼煙の煙を眺めていた。一つ、また一つと、裏切りの炎が燃え上がり、信長を包囲していく。その煙は、久秀の目には、裏切り者の死骸が積み重なってできた、巨大な墓標のように見えた。
(見ろ。信長。貴様は、俺という裏切り者を、自分の掌の上で踊らせるつもりだった。だが、俺は、貴様の掌の上で踊ることを拒絶した。そして、俺自身の狂気で、この世界を動かしたのだ。近藤、土方、山南……。貴様らの裏切りは、無意味ではなかった。貴様らの裏切りが、俺を、この乱世の狂気の中心へと追いやったのだ。貴様らの裏切りは、俺にとっての、勝利だった……)
久秀は、そう独り言ちると、にやりと笑った。その顔は、間違いなく芹沢鴨の、豪放で、獰猛な笑みだった。彼の背後には、松永内記をはじめとする家臣たちが、静かに控えている。彼らの顔は、恐怖で青ざめていた。彼らは、久秀の狂気が、現実の世界を、動かしていく様を、ただ呆然と見つめていた。
その時、一人の家臣が、震える声で久秀に問いかけた。
「久秀様、いかがなされました? このまま、信長様を討ち取られるおつもりでございますか?」
久秀は、家臣の言葉を無視し、窓の外に広がる世界をじっと見つめていた。彼の目には、信長包囲網という、壮大な絵図が映っていた。その絵図の中心には、信長という、もう一人の狂気が、嘲笑を浮かべていた。
(信長……。貴様は、まだ笑っているのか。貴様は、裏切られることを恐れない。裏切りを、ただの遊び道具としか思っていない。だから、貴様は、裏切られることを、楽しんでいるのだ。だが、俺は違う。俺は、裏切られることを、心から恐れている。だから、俺は、裏切られる前に、裏切る。そして、裏切り者を、皆殺しにする)
久秀の思考は、さらに暴走する。その時、彼の脳裏に、信長の言葉が蘇る。「貴様は、裏切りを恐れている。だから、貴様は、儂を殺すことができない」。久秀は、信長の言葉を否定するために、信長を討つことを決意した。
だが、その時だった。城の門が、勢いよく開かれた。一人の兵士が、泥にまみれた足音を立てながら、久秀の前に駆け込んできた。彼の顔は、恐怖で歪んでいた。
「久秀様、ご報告が……。筒井順慶様が、信長様に寝返りました!」
その言葉が、久秀の耳に届いた瞬間、久秀の身体に、雷が落ちたような衝撃が走った。彼の思考の暴走が、一瞬、止まった。
(……順慶? 順慶は、俺と手を結んだはず……。なぜだ? なぜ、裏切った……)
久秀の脳裏に、筒井順慶の顔が、近藤勇の偽善的な笑顔と重なった。あの時、近藤は、俺に裏切りの酒を飲ませた。そして、俺が酔い潰れるのを、土方歳三と山南敬助と、笑いながら待っていた。ああ、そうだ。筒井順慶も、俺を裏切るために、美しく狂っているふりをしていたのだ。俺は、また、裏切られたのだ。信長に……。そして、順慶に……。
久秀の顔から、笑みが消えた。その顔は、絶望に歪んでいた。
(ああ、そうだ。俺は、裏切り者殺しだと思っていた。だが、俺は、裏切られるために、生きていたのだ……)
久秀の五感は、信じられないほど鋭敏になった。城全体が、彼の絶望に呼応するように、静寂に包まれる。風の音も、鳥の声も、家臣たちの息遣いも、すべてが止まったかのようだった。久秀の耳には、ただ、自身の心臓の鼓動が、ドクン……ドクン……と、不気味に響いていた。それは、彼の「裏切りへの恐怖」が、絶望へと変わっていく音だった。
その場にいた家臣たちは、報せを聞いて、一斉に顔を青ざめさせた。一人の家臣は、腰に差していた刀を、恐怖で取り落とし、カラン、と乾いた音が響いた。別の家臣は、恐怖で膝が震え、その場に崩れ落ちた。松永内記は、歯を食いしばり、必死に恐怖に耐えていたが、彼の額には、冷たい汗が滲んでいた。
その時、久秀の耳に、遠くから、寺の鐘の音が、ゴオオ……ンと響き渡った。その鐘の音が、久秀には、信長が勝利に酔いしれ、嘲笑を浴びせる音に聞こえた。そして、窓の外の狼煙の煙が、久秀の目には、信長の嘲笑を浮かべた顔に見えた。久秀は、自分が、信長の掌の上で、踊らされていたことを、はっきりと実感した。




