第11話:裏切りの連鎖、本願寺へ
宴の後も、多聞山城の異様な空気は変わらなかった。久秀が宴席で放った「裏切り者は死すべし」という言葉は、家臣たちの心に深く刺さり、彼らの恐怖を決定的なものにした。彼らはもはや、久秀が示す「裏切り者」という幻影から逃れることはできず、久秀の狂気は、静かに、しかし確実に、城全体を侵食し始めていた。
久秀は、天守閣の広間で、一人、庭園を見つめていた。庭に植えられた松の木が、風に揺れて、サワサワと不気味な音を立てる。それは、久秀の耳には、裏切りを画策する者たちの密やかな囁き声に聞こえた。その声は、久秀の脳内で、近藤、土方、山南の声と重なり、彼の狂気をさらに研ぎ澄ませていく。池の水面は、風も無いのに、ユラリ、ユラリと揺らぎ、その波紋が、まるで血の波紋のように広がっていく。その水面に映る石灯籠の影は、久秀には、裏切りを潜めて待ち構える、無数の影のように見えた。
その時、一人の家臣が、久秀の前にひざまずいた。彼の顔は、恐怖で青ざめており、その手は、震えていた。
「久秀様、ご報告がございます。織田信長様より、お命令が……」
久秀は、その家臣の言葉を無視し、彼の顔をじっと見つめた。その顔は、新選組の屯所で、芹沢鴨を裏切ろうと画策していた、あの男たちと瓜二つだった。障子の外からは、複数の気配が、息をひそめてこちらをうかがっているのがわかる。彼らは、久秀の狂気と、この場で信長の命令を伝えようとしている家臣の運命を、固唾をのんで見守っているのだ。
(見ろ。この怯えた目。この怯えた顔。全員、裏切りを画策している。いや、違う。全員、俺を裏切ることを、夢見ているのだ。近藤も、土方も、山南も……。そして、こいつらも、同じだ)
久秀の思考は、狂ったように暴走する。
「……何用だ」
久秀の声は、冷たい氷のようだった。家臣は、その声にわずかに肩を震わせ、言葉を続ける。
「織田信長様より、石山本願寺への出陣を命じられました。織田家と、本願寺の一向宗の、徹底抗戦の火蓋が切られました」
石山本願寺。その名を聞いた途端、久秀の身体に、雷が落ちたような衝撃が走った。久秀の脳裏に、信長の言葉が蘇る。「どうした、久秀。その顔は、裏切りの顔だぞ」。信長は、俺が裏切ることを、すでに知っていた。だから、こんな命令を下したのだ。
(信長……。貴様は、俺を裏切るために、こんな命令を下したのか。本願寺という、強大な敵と戦わせて、俺の力を使い潰すつもりか。ああ、そうだ。信長は、裏切りを恐れない。裏切りを、ただの遊び道具としか思っていない。だから、俺という「裏切り者殺し」の狂気を、試しているのだ)
久秀の思考は、さらに暴走する。
本願寺への出陣。それは、久秀にとって、信長からの「裏切りの招待状」だった。久秀は、信長が、久秀の「裏切りへの恐怖」を、利用しようとしていると確信した。久秀が、本願寺との戦いで油断し、討ち死にすれば、信長は手を汚すことなく、俺という障害を取り除くことができる。あるいは、久秀が本願寺を打ち破れば、信長は、久秀の狂気を利用して、天下統一の道を切り開くことができる。久秀は、どちらに転んでも、信長の掌の上で踊らされることになる。
久秀は、静かに立ち上がった。家臣の顔をまっすぐに見つめ、にやりと口角を上げた。その顔は、間違いなく芹沢鴨の、豪放で、獰猛な笑みだった。家臣は、その笑みに、これまで見たこともないほどの狂気を感じ、思わず息をのんだ。その隣で、別の家臣が、信長の威を借りるように、声を震わせながらも、言葉を発する。
「ですが、久秀様。信長様のご命令に背けば、いかがなされますか?」
その言葉は、久秀には、まるで裏切りへの挑戦状のように聞こえた。久秀は、その家臣の言葉を無視し、静かに呟く。
「……馬鹿な真似を。俺を、そんなに簡単に殺せると思っているのか」
久秀は、そう呟いた。その言葉は、家臣の耳には届かない。久秀の目には、もはや家臣の顔は映っていなかった。その代わりに、信長の幻影が、久秀の目の前に現れた。その幻影は、にやりと嘲笑を浮かべ、手にしている茶器を久秀に見せつける。その茶器は、久秀が叩き割った「九十九髪茄子」そのものだった。
その時、信長の幻影が、明智光秀の顔と一瞬、重なって見えた。久秀の耳に、信長の言葉が響く。「どうした、久秀。その顔は、裏切りの顔だぞ」。そして、その声に、光秀の感情のない声が重なる。「信長様を裏切るとは、お前、信長をどう思っているのだ?」。
久秀は、信長の命令を無視することを決意した。そして、信長を裏切ることで、信長の「裏切り」を、打ち破ることを決意した。久秀は、自身の「裏切りへの恐怖」を克服するために、より大きな「裏切り」という手段を選ぶという、彼の狂気の新たな段階へと踏み出した。久秀の思考は、すでに本願寺に向かっていた。だが、それは信長の命令に従うためではない。それは、信長を裏切るために、本願寺という新たな「裏切り者」と手を組むための、旅の始まりだった。




