第10話:久秀の策略、裏切りの宴
明智光秀が去った後も、天守閣には久秀が一人、立ち尽くしていた。光秀がもたらした、感情のない冷たい空気は、まだ天守閣全体を覆っているかのようだった。久秀は、窓の外に広がる夕闇をじっと見つめながら、思考の無限ループに囚われていた。
(光秀……。あの男は、俺を裏切ることを、すでに決めている。いや、違う。まだ決めてはいない。だが、あの男の目には、裏切りの可能性しか見えなかった。あの男は、俺という存在を、信長という魔王の敵として、ただ淡々と分析していたのだ。まるで、俺の存在自体が、裏切りの証拠だとでも言いたげに……)
久秀の思考は、狂ったように暴走する。あの男の「裏切り」は、近藤勇や土方歳三のような感情的なものではない。それは、まるで氷でできた刃のように、論理と計算によって、最も効果的な形で俺を切り裂くだろう。
久秀は、ゆっくりと天守閣を降りた。廊下を歩く足音は静かだったが、家臣たちの耳には、死神が近づいてくるような不気味な響きに聞こえた。廊下の隅から、すすり泣くような声が聞こえる。彼らは、久秀の狂乱を目の当たりにし、もはや恐怖で身動きもできないでいた。
城の廊下は、長く、薄暗い。壁に備えられた松明の炎が揺らめく。その揺らめきが、裏切りを祝う炎のように見えた。一歩進むごとに、久秀の足音に合わせて、松明の光が生み出す影が歪んでいく。廊下の壁に飾られた古い武具や、屏風に描かれた虎の模様が、久秀の目には裏切りの証として映る。そして、その影が、近藤や土方、山南の顔に、時々、重なって見えた。
家臣たちは、久秀が近づいてくる気配を察すると、一斉に顔を青ざめさせ、道を開けた。その姿を見て、久秀はにやりと笑った。
(見ろ。この怯えた目。この怯えた顔。全員、裏切りを画策している。いや、違う。全員、俺を裏切ることを、夢見ているのだ。近藤も、土方も、山南も……。そして、こいつらも、同じだ)
その時、久秀は、一人の家臣に声をかけた。その家臣は、顔に汗をかき、その汗が、彼の頬を伝い、床に小さな水たまりを作っていた。その水たまりが、久秀の目に、裏切りの波紋を広げる湖面のように映る。
「……宴を、開け」
久秀の声は、静かだった。家臣は、その言葉に、一瞬、呆然と立ち尽くした。そして、彼の顔に、安堵の色が広がった。
(見ろ。この安堵の顔。こいつは、俺が狂気を収めたとでも思ったのか。俺が、油断したとでも思ったのか)
久秀の思考は、さらに暴走する。
宴は、多聞山城の広間で開かれた。豪勢な料理が並び、酒が樽から注がれる。広間には、甘く重たい香の匂いが立ち込め、それが、酒の匂いと混ざり合う。久秀の嗅覚は、その香りを腐敗した果物のような不快な匂いとして捉え、それが、彼の身体の内側からじわりと滲み出してくる、血と泥が混じり合った死の匂いと混ざり合った。障子越しの風が、冷たく湿った空気を運んでくる。その風が、家臣たちの着物の裾を揺らし、その度に、不気味な音がした。
家臣たちは、久秀の様子を窺いながら、恐る恐る酒を口に運んだ。
その中には、恐怖で盃を持つ手が震え、中身をこぼしてしまう者もいた。別の家臣は、久秀から目を逸らし、無理に笑みを作って隣の家臣と話そうとする。しかし、彼の口元は震え、言葉は出ない。また別の者は、ただひたすら無言で、喉をゴクリと鳴らして酒を飲み込み、その不気味な音が静かな広間に反響した。
久秀は、その酒を一口も飲まなかった。その代わりに、久秀は、家臣たちの顔を一人ずつ、じっと見つめていた。そのまなざしは、獲物を品定めする鷹のようであり、毒を盛られたかのように身動きもできない家臣たちの顔に、冷たい汗が流れ落ちる。
(この酒の匂いだ。甘く、どこか腐敗したような匂い。ああ、そうだ。あの夜、俺が芹沢鴨として油断した夜と同じ匂いがする。近藤勇は、俺にこの酒を飲ませた。そして、俺が酔い潰れるのを、土方歳三と山南敬助と、笑いながら待っていたのだ。いや、違う。これは、山南が用意した酒だ。あの男は、いつもニコニコと笑いながら、俺がこの酒を飲むのを、至福の表情で見つめていた。ああ、この酒は、裏切り者の味だ)
久秀は、そう確信すると、静かに立ち上がった。家臣たちは、一斉に顔を青ざめさせ、久秀の次の行動を固唾をのんで見守った。
「……この酒は、美味いか」
久秀の声は、冷たい氷のようだった。家臣たちは、言葉を発することができない。久秀は、にやりと笑い、ゆっくりと懐から小刀を取り出した。
「裏切り者は、死すべし」
久秀は、そう呟くと、家臣たちの喉元に、ゆっくりと小刀を突きつけた。その瞬間、宴席にいた全員が、恐怖に震え上がった。久秀の狂気は、もはや誰も止めることができない。
この宴は、久秀が仕掛けた、裏切り者を炙り出すための罠だった。彼が酒を飲まないこと、そして家臣たちをじっと見つめることで、彼らの恐怖と不信を増幅させる。
久秀の狂気は、静かに、しかし確実に、家臣たちに伝染し始めていた。彼らは、久秀の狂気という病に侵され、もはや、久秀が示す「裏切り者」という幻影から逃れることはできなかった。




