第25話:動き出す災厄
封霊機構・本部最奥の間。
御門錬司の手元に置かれた報告書が、静かに音を立てて閉じられた。
「……狩野悠雅を殺したのは、おそらくセト。
だが、我々が本当に注視すべきはそこではない。問題は八つの災厄が動き出した可能性があるということだ」
一瞬、空気が凍った。
秋津晶が眉をひそめる。
「セトだけじゃない、と?」
御門が頷いた。
「我々が封じた八つの災厄。その全てが九尾の復活を補助する存在だ。セトが活動を開始したということは、他の七体も既に目覚めている可能性が高い」
朝霧蘭が目を細める。
「だけど、目覚めているにしては妙ね。暴れた痕跡がまるでない。
災厄が動けば、どこかの結界が壊されるか、都市の霊脈がもっと乱れるはず。
それが、今のところ一切報告に上がっていない」
御門は深く頷き、口を開いた。
「……おそらく、奴ら自身もまだ完全ではない。
封印からの復帰直後だ。今は傷の癒しと主たる九尾の復活に向けた霊氣の収集に集中しているのだろう」
「つまり、隠密行動か」
秋津晶が口を挟む。
「霊氣の多い地、霊脈の交点、あるいは人の集まる土地……それらのどこかに紛れ込んで、氣を集めている」
「それなら……なぜ悠雅は殺されたのでしょう?」
篠原美琴が低く問う。
「彼はそれに気づいた? あるいは邪魔だったから?」
御門は短くうなずく。
「どちらもあり得る。だが、狩野悠雅は目立ちすぎた。
霊氣をまとったまま無断行動をすれば、使徒にとっては狩る価値のある獲物に映った可能性がある」
「……獲物、ね」
蘭が吐き捨てるように呟いた。
「もう奴らは主の目覚めに向けて動いてるってわけか」
「厄介ですね」
晶が呟く。
「霊氣を集める過程では人を襲うこともある。
でも、痕跡を極力残さず、氣だけを奪う手段もやつらは持っている」
「すでに被害は出ている可能性が高いわね」
美琴の顔が険しくなる。
御門が、手を組んで結論を出す。
「今の段階では、無闇な接触も掃討も不可能だ。必要なのは引きずり出すことだ」
「必要なら、こちらから氣の濃い地を撒き餌として用意する。
当主候補の三人には、そこで迎撃準備を行ってもらう」
蘭がうなずいた。「やっと、面白くなってきたわね」
美琴は、机の下で拳を握りしめる。
(この手で使徒を倒す。そしてもう一度、静馬に会って……すべてを話す)
その想いを胸に、彼女は席を立った。
その日の夜。
都市から離れた山間部、かつて神域として封じられていた結界地に異変が起きた。
静寂の中、ゆっくりとそれは姿を現す。
黒い衣に包まれた瘦せた影。
顔は布で覆われており、眼だけが淡い橙色に輝いている。
「……氣の香りがする」
影の正体は八つの災厄のひとり、ヴァルス。
火の使い手であり、セトと同格の存在。
周囲にいた獣たちが、次々と黒煙に包まれて焼け落ちていく。
ヴァルスの細い指が、空気を裂くように前方をなぞる。
周囲の氣流がざわめき、空間のひずみが広がる。
「……急激に濃くなった氣。まるで撒き餌のようだな」
覆面越しでもわかる、不敵な笑み。
ヴァルスは小さく首を傾げ、肩をすくめてつぶやく。
「罠か。人間どもが我々を誘おうとしているのだろう。愚かだ」
その足が、ゆっくりと前へと踏み出される。
「かつて我らを封じたのは、神器と巫女の術式だ。
だが今の人間に、それほどの力を扱える者がどれほど残っている?
契約者? 霊術師? どれもただの紙屑にすぎぬ」
地面が焼け焦げ、ヴァルスの周囲から燻るように黒炎が立ちのぼる。
大気中の靄が燃え、風が死の予兆をはらんで震え始める。
「いいだろう……罠なら罠で飲み込んでやる。
この身が災厄たる所以、見せてやるとしよう」
――――――
静馬が頭の奥に鋭い警鐘のような感覚が走った。
ラウラの声が、低く緊迫感を帯びて響く。
「……静馬、感じる? この氣の揺らぎ」
「……ああ。なんか、胸の奥がざわつく」
ラウラの霊体が、空間にゆらりと現れた。
いつもの軽口を抜きにして、真剣な顔をしている。
「これが使徒なのか?」
「おそらくね。使徒の一人が動き出した。あきらかに不自然なほど氣が濃い場所にむけてね。おそらく機構が仕掛けた餌ね。」
静馬の喉がかすかに鳴る。
だが、足は一歩も引かず、拳を握った。
「どこだ?」
ラウラは瞬時に霊視を巡らせ、指を空中に向けて示す。
「この街から直線距離で10キロほど。距離は少しあるけど、全力で走れば間に合うかもしれないわ」
「なら、行くしかねぇな」
静馬は踵を返し、全力で駆け出した。
ラウラも彼の肩にすうっと乗り薄く笑う。
「最初は慎重に動きなさい。あそこには機構の連中が大勢いるはずよ。まずは目的の相手がそこにいるかどうか、確かめること。もし奴らだけで災厄を封じられるなら、わざわざ出しゃばる必要もないでしょ」
「おっけー。まずは美琴がいるかだけ確認する。俺もあまり機構には関わりたくないしな」
風が巻き、靴音がアスファルトを叩く。
運命の地へと静馬が駆ける。
 




