第15話:何が起こったのか(篠原美琴サイド)
蝉の声。蒸し暑い空気。もうすぐ夏休み。
けれど篠原美琴はここ数日、その当たり前の季節の流れすら感じ取れずにいた。
《封霊機構》の任務が本格化する前に、しばらく学園を離れなければならない。
それは数日前、正式に伝えられた。
(……このまま、行くわけにはいかない)
制服の袖をぎゅっと握りしめる。
(せめて……一言だけでも、静馬に)
もう顔を合わせることもなく夏が終わって、次に戻って来た時には
すれ違うだけの他人になっていたら――それが怖かった。
だから、美琴は登校を決めた。
久しぶりに踏みしめる下駄箱の床。
すれ違う生徒たちの視線。ざわつく心音。
すべてが、少しだけ遠く感じた。
(静馬、来てるかな……)
期待と不安が混ざったまま、ゆっくりと階段を上る。
階段を上がりきった先の教室の前で
美琴はひとつ深呼吸をした。
――心臓がうるさい。
扉を引くと、視線が一斉に向く。
「久しぶりね、篠原さん」
最初に声をかけてきたのは、クラス委員の氷室だった。
やや遠慮がちに、けれど変わらぬ調子で。
「体調、大丈夫だった?」
「……うん、ごめんね。いろいろあって」
美琴は笑って答えながら、周囲の視線の中に探している姿を探した。
けれど――いない。
彼の席には、誰の荷物も置かれていない。
まるで最初から空席だったかのように、そこだけぽつりと空いていた。
(……来てない)
予感はあった。
けれど、こうして目の当たりにすると、胸の奥がぎゅっと痛む。
「あ、静馬のこと?」
隣の席の女子がふと口にする。
美琴がその言葉に顔を上げると、彼女は少し言いにくそうに言葉を継いだ。
「ずっと休んでるよ。先生も家庭の都合って言ってたけど、連絡はあんまり取れてないみたいで」
「そう……なんだ」
(本当に家庭の都合ならいい……)
何度もそう思い込もうとするたび、胸の奥から否定する声が聞こえてくる。
――じゃあ、なぜ“あの日”からなんだろう?
――なぜ、一言の連絡もないのか?
美琴は机に伏せるように、そっと額を手で押さえた。
誰にも見られないように、声も出さずに。
(私のせいだ)
そう思ってしまう自分を、どこかで責めながらも
でも、そうとしか思えなかった。
静馬は、あの日までは普通に登校していた。変わらない笑顔で、冗談を言って、少し不器用に、でも隣にいてくれた。
別れを切り出したのは、美琴だった。
その直後から、彼は学園から消えた。
(……こんなことになるなんて、思ってなかった)
守るための別れが、こんなふうに彼を追い詰めていたのだとしたら。
何を守ったつもりだったのか?
そんな問いが、自分の中から突き刺さるように浮かぶ。
(笑って話せる日が、また来るって……本気で思ってた)。
でも現実は、違った。彼は、戻ってこなかった。
(……もう一つ、気になってることがある)
――《契約》という言葉。
血縁でもない、素養もない静馬が
霊的契約を結んだという報告。
(……まさか、そんな)
自分の中で何度も否定しようとした。
けれど、その報告の中に記された情報。
静馬が封印された者と契約をした事は間違いないだろう。
あり得ない想像。
けれど《封霊機構》に身を置く者として
それを完全に否定することもできなかった。
契約――それは、強い想いと代償によって結ばれる。
自分を守るため? それとも、もっと別の理由で?
美琴の思考は止まらなかった。
(……そもそもどうして、封印地にいたの?)
本来、その存在すら一般には知らされないはずの封印地。
そこで何をしていたのか。報告には記されていなかった。
(もしかして……封霊機構が再封印に赴いた時にはもう何かに出会っていた?)
契約”は、偶然で結ばれるものではない。意志と代償との他にも干渉が必要だ。
その三つがそろう場所として、封印地ほど適した空間は存在しない。
(静馬は……私が知らないところで、何かと向き合っていた?)
胸が痛む。
(……いったい、何が起こったの? 静馬……)
彼のに何があったのか。
その問いが、美琴の胸を強く締めつける。
(……行かなきゃ)
確かめなければならない。
彼が本当に家庭の都合で休んでいるのか。
それとも――もう普通の世界には、いないのか。
夕暮れの街に、ひときわ目を引くガラス張りの高層マンション。
静馬の家は、その最上階近くにあった。
篠原美琴は、久しぶりにそのエントランスの前に立っていた。
チャイムを押す。
――ピンポーン。
……応答はない。
もう一度、少し長めに押してみる。
……やはり、静かだった。
(留守……?)
まさかと思い、ポストに目をやる。
何日も誰にも触れられていないようだった。
(おかしい……)
不在というより、「誰も帰ってこない」そんな気配。
(静馬……あなた、本当に、どこに行ったの?)
沈黙の家を前に、美琴は立ち尽くした。
茜色の空の下、風がひとつ、木の葉を揺らす。




