婚約破棄されたけど、真の聖女だった私は敵国の王妃になりました
白大理石の床に、リリア・エルフェリアは跪いていた。
王宮の大広間。冬を迎えた天窓から降る光は冷たく、差し出された彼女の指先を、まるで氷柱のように白く染めている。
前には、リリアの婚約者であり、この国の第一王子――アルヴィス・グランバート。
彼は、その透き通る金髪と整った顔に、かつては微笑みを浮かべていた。だが今は、冷ややかな瞳で彼女を見下ろしている。
「リリア・エルフェリア。……今日をもって、お前との婚約を破棄する」
宣言された言葉は、石壁に反響し、貴族たちのざわめきが小さく広がった。
「……どうして、ですか?」
リリアの声は静かだった。悲鳴も涙もない。ただ、冷たい石の上に跪きながら、彼女はまっすぐに問いかけた。
「お前は“聖女”などではなかった。それが理由だ」
アルヴィスはためらいなく言い放つ。その隣に立つ少女がいた。淡い桃色の髪、透き通るような白い肌。
彼女は新たな“聖女”として、最近宮廷に現れた令嬢――セシリア・ローヴェルである。
「セシリア嬢こそ、神の加護を受けし真の聖女。彼女の奇跡は、神官たちによって証明された。対して、お前の力は……ただの偶然に過ぎないと判断されたのだ」
事実と異なる。
リリアは心の底からそう思っていた。
彼女の治癒は奇跡ではない。確かに“神から授かったもの”だった。数年前、死にかけた子供を癒やしたその力は、まぎれもない“本物”だった。
それでも――王国は、リリアを切り捨てた。
「誓約の指輪は、返してもらう」
王子が手を差し出す。
リリアの薬指に嵌められた銀の指輪。それはかつて、アルヴィスが彼女の手を取り、真摯に願った「王妃として共に歩んでほしい」という証だった。
リリアは黙って指輪を外す。金属の冷たさが、ひどく皮膚に馴染んでいた。
床に置かれたその指輪を、王子が拾い上げた瞬間――すべての関係は断ち切られた。
「リリア様、どうかお引き取りを。王宮におけるあなたの役目は、ここで終わりです」
儀礼官の声に、周囲の視線が一斉に突き刺さる。
同情ではない。
冷笑、好奇の目、勝者の傲慢……それらが、リリアの背に突き刺さっていた。
「――わかりました」
リリアは立ち上がった。
彼女のドレスは質素でありながら丁寧に繕われたものだ。王宮の豪奢な空間にはそぐわないその姿は、もはや“聖女”の名に相応しくないと、誰もが思っただろう。
けれど、彼女の瞳は揺れていなかった。
涙も、怒りも、口にしない。
ただ静かに、ただ凛として――ゆっくりと踵を返す。
「――ま、待ってください!」
ただ一人、声を上げたのは侍女だった。リリアに仕えていた少女、マリエだ。
だがその声も、儀礼官の一瞥によって止まった。
「彼女はもう“聖女”ではない。護衛も、侍女も、不要です」
「……っ、そんな……!」
マリエが泣き出した。
リリアはゆっくりと彼女の前に膝をつき、微笑んでその頭を撫でる。
「ありがとう、マリエ。あなたのおかげで、私はずっと笑っていられたわ」
「……リリア様……っ」
「でも、もう大丈夫。私の旅は……ここから始まるの」
その一言に、誰もが疑念を浮かべた。
旅? 彼女はどこへ行く? もはや“聖女”でもない女が、一体どこで何を――
だがその疑問に、リリアは答えなかった。
沈黙のまま、大広間を後にするその背中は、どこか堂々としていた。
それは、何かを知っている者の背だった。
誰にも見えぬ未来を――
誰にも気づかれぬ“奇跡の継続”を、心の奥に秘めた者の――
そして、大広間の扉が重々しく閉まる音と共に、誰も知らぬ物語が静かに幕を開けたのだった。
――
あの日、城の広間で無情にも婚約破棄を言い渡されたリリアは、心の底から絶望しながらも、敵国に渡り新たな道を歩み始めていた。彼女が去った後、かつて輝きを放っていたエルモント王国の運命は、静かに、しかし確実に陰りを帯びていった。
アルヴィス第一王子は、婚約破棄の決断を下した直後から、表向きは冷静で落ち着いた態度を貫いていた。しかし、その心中は焦りと不安に満ちていた。リリアのいない王宮は、以前のような活気や希望が消え失せていたのだ。
リリアが王国を支えた「真の聖女」としての力は、ただの儀礼的な役割だけではなかった。民衆の信頼と、神聖なる力が、彼女の存在を通じて王国の秩序と平和を守っていたことを、アルヴィスは痛感せざるを得なかった。
代わって王妃となったセシリアは、華やかな外見とは裏腹に、王国の実情を理解せず、贅沢な暮らしに明け暮れていた。彼女の政治的手腕は乏しく、王宮内での陰謀や派閥争いに明け暮れ、国の実務は腐敗の一途を辿っていた。
そんな中、領民たちは日々の生活の困窮に喘ぎ、かつての繁栄は遠い昔の夢のように感じられた。収穫量は減り、税の重圧は増すばかり。疫病が蔓延し、兵士たちの士気は下がり、国境付近では盗賊や反乱の気配が強まっていた。
王国の重臣であった騎士団長のエドガーは、何度も国王に改善を訴えたが、アルヴィスは責任を押し付け合う家臣たちの間で動きが取れず、結局は口先だけの返答で押し切られてしまった。
「リリア様さえいれば……」呟く彼の目に、深い悲しみが宿る。
そして、何よりも大きな衝撃は、リリアが去ったことで、民衆の間に広がった“偽聖女”への不信感だった。セシリアが持つ華麗な姿は、嘘の光であった。神々の加護が感じられぬ王妃に、誰もが心を閉ざし、国の未来を託せなくなっていた。
そんな空気の中、王国の貴族たちは自らの利権争いに血眼となり、第二王子セスは影で密かに不満を募らせていた。兄アルヴィスの無策に苛立ちを覚え、己の手で国を変えようと暗躍し始める。
だが彼の手法は過激で、次第に闇の力に手を染め、国を混乱へと導くことになる。
王国は崩壊の淵に立ち、民は希望を失った。
その混沌の中で、かつて捨てられた聖女リリアは、敵国の地で新たな力を得て、密かに動き始めていた――。
王国はかつての栄光を失い、瓦解寸前だった。第一王子アルヴィスの無策と慢心が、民を苦しめ、貴族たちは己の利益にしか目を向けなかった。戦力は疲弊し、城の守備もままならない状態で、敵国の大軍が静かに、しかし確実に迫っていた。
リリアはそんな王国の現状を誰よりも憂いていた。かつては王国の未来を信じていたが、今や希望は薄れていた。だが、彼女にはまだ秘密があった。婚約破棄された身でありながらも、彼女は敵国の王妃として迎え入れられ、その座を利用し、必ず王国を再興するための計画を練っていたのだ。
敵国の軍勢は王都の門前に迫り、アルヴィスは虚勢を張るばかりで何もできなかった。民の嘆き声が城壁を揺らす。そんな中、リリアは冷静に敵国の王と対面し、静かに宣言した。
「私はかつてこの国で侮辱され、追放された者。しかし、今はあなたの王妃。私の知るこの国の秘密、弱点をすべてあなたに差し出しましょう。」
その言葉は、敵国の王にとっても意外な申し出だった。リリアは内通者として動きながら、王国の崩壊を加速させる一方で、心の奥底では、民のため、真の正義のために動いていた。
やがて、王国の軍勢は瓦解し、城は陥落した。アルヴィスは捕らえられ、かつての威光は完全に消え去った。民は新たな支配者の前で嘲笑を禁じ得なかった。
そのとき、リリアは淡々と宣言した。
「あなたたちの王子は、無能ゆえにこの国を滅ぼしたのです。ざまぁみろ、と言わせていただきます。」
その冷ややかな言葉は、かつての婚約者に向けられたものだったが、同時に長く苦しんだ民への慰めでもあった。王国の未来は今、確かに新しい光を見出そうとしていた。