ババぁのマリア
僕は今、知る人ぞ知る往時の隠れキリシタン村にいる。そしてこの村を訪れて最初に出会った平人という老人に、心の内を問いかけていた。
<その人を初めて見かけたのはいつ頃だったんですか?> <今年ん夏ぁ、えれぇ暑がったけのぉ•••だどん、おらぁあん人この村ん中さ初めて見たんは、う~んと、そう、まんだ雪溶けん頃だったかのぉ•••> <一口に言ってどんな人でしたか?> <いやぁ、俺ん言うのもあれだが、もういい加減、歳食った婆さんでね> <で、隣りの阿曽平村で3日前あの事件が起こった、という訳ですね?> <ああ、•••だどん、みんなあの婆さん、可哀想だ、哀れだ、なんぞ言うているだが、おらぁ、あの婆さん、大往生したと思うているだよ> < どうして、ですか?>
<その婆さん、まりさ、ちゅうんだが、この村ん来た頃にゃまだ喋りもし、人好きん婆さんだったちゅうんがすぐ分かったけ、村ん入口とこあった大きな無人屋に、住まわせる事にしたんよ> <つまりそこで半年ばかり、1人暮らししてたって事ですね?> <ああ、•••人好き、ちゅうてもあえていゃあ子供好きでな。まあ婆さんでもあるし、字もうまかったけん、わしらがまりさの身の回りん世話する代わり、まりさ婆はわしらん孫達さぁ、習字教える事んなったって訳さあ>
<で、3日前まで?> <いや、そうはいかん。大体まりさ婆、この村ん来た時からまだらぼけててのぉ•••> <まだらぼけ?> <んだ。自分さ名あ分かっても、どごから来たのかはもう分からなくなっててな。んで2ヶ月前ぐらいだったかなあ。•••内ん初孫のしおんが言うとったんじゃ。<<あの先生、この頃少しおかしいよ>> <<どうしたね?>> <<だっておんなじ事、何度も言うんだもん>>ってな。そんでも初めんうちぁ、たしなめていたんだども婆さんどんどんおかしくなってもうてな>
<何とも、どうしようもない> 僕はその間も努めて穏やかさを装っていた。それが義務だと思ったからだ。平人はもみの木陰に気付くと僕をそこへ誘いながら話を続けた。
<でな、わしらがおそるおそる様子見んまりさ婆ん会いに行くだども、もう訳ん分からん事しか言わんようなったし、自炊や部屋ん片付けもできんようなってたんよ。•••たぶんあん時の痩せさらばえよう見りゃ、食うのさえ分からんようなってたんかものお>
<それで教え子達の方は、どうなったんですか?> <いやね、まりさ婆のとこやぁもう行くな、ちゅうたんですよ> <ま、仕方ないかもですね> <それが1ヶ月前の話。まあ、子らはわしらより敏感じゃけ、わしが行くな言う頃にゃ、3人まで減っていたけんの。•••じゃがそれから毎土曜に教えていたのんがだ~れも来んようなったもんで、まりさ婆、とうとう気が触れてしまいおってのお。いつも遠巻きん見守ってたわしら出し抜き•••>
<消息を絶ってしまったと。それが隣りの阿曽平村を放浪していて、ああなってしまったんですね?> <んだよ。わしが偶然見っけた3日前にゃあ、もう•••裸足で男もんのうすう汚れた襦袢1枚、身ぃまとっているだけでのお。•••弱みんつけ込んでさぁ、荒縄できつう腹ん回りん締め付けられておった。道道、腐ったもんでん喰ろうたんか、下腹辺りんからさ異様な臭いがしてのお> <そりゃ、悲惨だ>
僕は今更ながら飛んでいかぬよう、感情を強く抑え込んだ。<声ん掛けては見たんが、虚な目がただの1度、ワシを見ただけじゃった>
ここまで平人の話を聞き終えた僕は、深呼吸しテンションを高めてから言った。
<で、あなたは衝動的に、あ~した訳ですね?> <ワシは木こりじゃで、なぜかそん時足元さぁ、手頃ん丸太が大小2本転がっておってな。これも神のお導きだは思い、十字架さぁ作ったんじゃ>
<まりさ婆さんを、磔刑にするために?>
平人老はわずかに逡巡の様を表したが、すぐに続けた。<んださ。婆をイエスとして昇天させるためんな>
<ありがとう、平人さん。でもね、まりさ婆は女性だからマリアであってもイエスじゃないよ> <は?> <でもこれで僕のお袋も天国へ、行けたんだ!>