歓喜は歓喜の季節⑭
小さな、ランタンの灯りだけがそこにあった。
船体を構成する木材が軋み、波で船が揺れる感覚だけが音とともにここにあるすべてであった。
少なくとも、今この状況においては。という前置きをすれば。
事が起こったのは今から数十分前である。
倉庫奥に閉じ込められていた灰かぶりたちの前に船長を名乗る男が現れたのだ。
複数人の船員を引き連れた彼らは半ば強引に彼女たちへと事を迫った。
船員のうち一人がそれを拒否した少女の腕を乱暴につかみ、拳を振り上げた瞬間であった。
頬を撫でる感覚とともに、一瞬風が流れた。隙間風のように小さなものであったがその場に鮮血を滴らせながら落下していくその腕を見た時、皆が恐怖におののいた。
船長も
船員も
灰かぶりたちでさえも。
その場に凍り付いてしまった。
まるで皆が石像にでもなったかのように、その腕を見ていた。
赤い命が、床の木材を染め上げていく。
深い、深い赤へと染め上げていく。
恐怖と錯乱。
血を迸らせる腕を掴み、絶叫を上げる船員。
船長がその腰に携えたサーベルを抜き灰かぶりたちへと向ける。
誰がやった!
お前か!
お前か!
お前か!
その切っ先を灰かぶりたちへと向けていく。
…お前か!
先ほど船員を拒否した少女へとその切っ先が向く。
首を横に振る少女を意に返すもなくそのサーベルが振り上げられたとき、その腕が同じ末路をたどる。
再び恐怖がランタンの光の奥で、影と血を編み込むように交錯していく。
呪われている。
獣の呪いだ。
誰かがそう言い放つ。
その言葉が皆々を駆け巡っていく。
船員たちは吼え嘶く猿のごとき絶叫を上げながらその場を後にしていく。
そこで、見たのだ。
僅かに、一瞬だけ。その空に見たのだ。
この船は、今も水面を浮かんでいる。
月が、その眼前に浮かんでいた。
それを遮るように、それが浮かんでいた。
スカイブルーの双眸が、軽蔑の眼差しで彼らを見ていた。
彼らがそう感じた。という程度の僅かな時間の間だけであった。
それでも、彼らは確信した。
自らの行いを、あれは罰したのだと。
あれが、見ているのだと。
全員の息が静寂へと呑みこまれていく中で、そう感じていた。
そうして自らの腕を見た。
なくなっていたはずのそれが、すべて綺麗に元通りになっている。
切られたはずの腕が、そこにはあった。
もう、彼らには仕事をこなすことで夜を明かす以外頭にはなくなっていた。
こんな悪夢から、誰しも早いところ解放されたかった。
それを、裏側よりその瞳が見ていた。
オーレリウスが目を覚ました時、そこには闇があった。
夜闇だ。その奥で見慣れた光に包まれた、見慣れたくもない男が暖を取っている。
焚火を起こし、アルハンブラがスキットルを傾ける。
静かに体を起こしたオーレリウスを見やるアルハンブラ。
その視線が、オーレリウスにはよく見えた。紅蓮のルビーのごときその瞳が安堵の表情を浮かべている。
「全く、どうかしてるぜ。おまえはよ」
そういってアルハンブラが投げてよこしたスキットルを受け取るオーレリウス。間接キスとも取れる光景だが、今更この男とそういうことで乳繰り合うような齢でもない。
ためらいなくその中身を煽る。
胃の奥にずしんと沈み込むようにアルコールが体へ響く。
それが体中を巡るような感覚を覚える辺りで、ようやくオーレリウスの認識と感覚が今現在の状況をつかみ取る。
「この酒、蒸留したな?」
そういい、スキットルを投げ返すオーレリウス。
「ルゴウェストへ行った際に、知り合いが趣味でやっててな。キクだろ?」
そう笑いかけるアルハンブラ。
オーレリウスは静かに一息つく。
そののちに、タバコへと火を点ける。
アルコールとニコチンが脳髄で電気信号と混ざり、脳の奥から沁み出すような快楽物質がすべてを埋め尽くしていく感覚の余韻を味わう。
「今なら天の楽園にでも行けそうだ」
紫煙を吐きながらオーレリウスが力なく答えると、アルハンブラは心底面白そうに笑う。
「そりゃいい。死後の世界があるとして、俺たちは確実に奈落の炎でケツを炙られながら逃げ惑うだろうからな。後学のために覚えておくわ」
オーレリウスは、鼻で笑う。
「行く気もないくせに」とぼやくとアルハンブラは小さく笑いながらスキットルを再び傾けた。
「混一化ギリギリのところまで行ったな。お前あの時、人を捨てる気だったろ」
混一化。
それは、契約者が迎える最後の一つの形である。
竜、ないし獣と契約した者たちは、その身を二つであれど本質は一つの存在として機能している異質な存在である。
故に、片方が死ぬときはもう片方も死ぬ。
その対価として、本来人間が持ち得ることのできない力を持つことが可能となる。
魔法をはじめ、その契約した対象が持つ能力や身体機能を獲得できるケースもある。
だが、能力を連続して行使し続けていくことでより混ざった存在となっていき力を増すが、その一方で意識の混在化が発生する。
つまり、契約者とその契約した対象その双方が「どっちがどっちかわからなくなる」。
という状態、つまり意識の統合化が進行してしまうのだ。オーレリウスとストルムの言動や行動が似たり寄ったりな性質を帯びているのはこれが要因の一つとなっている。ただこれは相当の訓練を積んでいくことである程度制御が可能な一方で、その先。つまり限界までそれらを行使し続けた結果意識とともに体も一つの存在となってしまう。
生物としての本来の形。本来の三位一体。
一つの体
一つの意識
一つの魂
自らと契約対象が完全に統合され、そのような存在となってしまう。
結果、双方のすべてが一度完全に崩壊してしまう。芋虫が蛹を経て蝶へなる際にその体が完全に溶けて喪失してしまうように。
一つの体へ融合し
一つの意識として再定義され
一つの魂として過去のすべてが崩壊する。
大抵の場合、狂暴化し錯乱するままに目につくすべてを破壊するようになる。これは過去帝国でも何度か発生しており、その都度処理が行われていたという歴史もある。
オーレリウスは、先ほどその直前まで突っ走ってしまっていた。というのだ。
その証拠に、今もオーレリウスの左半身はその夜闇のごとく黒に染まり、ところどころから竜の外殻が生成されている。
しかしながらそれは、少しづつではあるが左腕へと戻るように収束を始めている。
混一化の治療法は、精神の安定化。
それぞれがなるべくリラックスできる状況を維持し続けることにある。
つまりオーレリウスは、今心が落ち着いている。ということだ。
「ヨル…だったか。あの獣を殺せるのなら、それでよかった」
オーレリウスは静かに心の闇を吐露し始める。それでもなお、彼の内に潜む闇を出し切ることなぞ到底不可能なほど濃縮され、自らを圧迫している。
「というよりも…いつだってそうだ。死ぬならここがいい」
人間らしい死に方を選べる権利は、とうに捨てた。
人間らしく生きる選択肢を握りつぶした。
人としての幸せも、矜持も自身の左腕とともに竜に食わせてやった。
オーレリウスの言葉を、アルハンブラは静かに聞く。
嗜めるわけでもなく
教訓を語る訳でもなく
同調するわけでもなく。
かつての仲間として、ただその言葉を聞いていた。
そうして、夜は明けていった。
アルハンブラは背伸びをし、その光を全身で浴びる。
そうして、オーレリウスをみる。
その背後より伸びた光の先、その奥にある人の街。
歓喜に沸く乾期の街並み。
そう、アルハンブラはオーレリウスよりも先にいるのだ。
今二人の間に存在する一歩分の距離だけ、人の側にいる。
だからより、多くの光を浴びることができる。
岩と木々に阻まれたその先。影という名の闇の中からオーレリウスはアルハンブラを見やる。
アルハンブラは、何も言わず手を伸ばす。
オーレリウスは、その手を取るか迷った。
その眩しい光が、自分の眼をつぶしてしまうのではないか。
その温かさが、自分を焦がしてしまうのではないか。
乾期の風が、自分の在り方を消し去ってしまうのではないか。
自分は、この歓喜の輪に入ってはいけないのではないか。
その時だ。
⦅いいんじゃねぇか?⦆
声が、聞こえた。
⦅腹を括ればいいんだ。…できると思うぜ?俺達には⦆
認めればいい。
理解しようとすればいい。
今の世界を
今の人を
今の、境界線の在り方を。
オーレリウスは、僅かに震えている手を見やる。
その左手は、いまだ黒く変質している。
人のものとは思えぬ。
人ならざる者。
自分を、人の世界と分かつ象徴。
その手を、ゆっくりと握る。
意を決したようにアルハンブラの手を握るオーレリウス。
引っ張られ、その横に並び立つように大柄の男に阻まれずに世界へ差し込む光を見る。
光を浴びた。
乾期の冷たい風を浴びた。
オーレリスは一歩だけ、歓喜を浴びた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
⦅それはそうと、よくも混一化ギリギリまで突っ走ってくれやがったなコノ野郎?おかげで俺の方もイカレてしまったぜ⦆
事情をうかがっていたオーレリウスは、ストルムの愚痴に付き合っていた。
ストルムはオーレリウスの愚行をわが身のように恥じ、対価として彼女たちの行く末を見守ることにした。
だが船長たちが彼女たちのいる場所へと迫ってきたとき、オーレリウスは交戦中。
さらには全力で第三階位相当の魔法を発揮し続けた結果、混一化が進行してしまいストルムの認識にも変化を与えてしまった。
強烈な興奮の感情が竜の心を縦横無尽に突き動かし、そもそも持っていた灰かぶち達を見守る。という奥に内在していた「守る」という認識を露出させてしまった。
ストルムもまた、心の奥では灰かぶりたちを「人」としてみていた。
船員と船長の腕を切り落としてしまったことに慌てて治療を行うため裏側より出ていたところをあわや発見されかけた。という顛末であった。
(つまり、灰かぶりを獣と見ようとしていたのは俺だけだったと)
オーレリウスは何とも言えない気持ちでストルムへ念話を発する。
⦅だが、良かったのかもな⦆そういうストルムに対し疑問を浮かべる。
⦅今、灰かぶりたちをそうは見れなくなったんじゃねぇのか?⦆
そういわれたオーレリウスの顔には、苦笑が浮かんでいた。
とある場所へアルハンブラとともにやってきたオーレリウス。
それは町はずれにある貧困街の路地裏。
今のご時世、貧富の差もなかなか広がっているためかある程度の規模を誇る街にはこういう場所が当たり前のように存在している。まだ「街の中」にあるだけこの町の貧民は恵まれているほうであろうか。
「で?ここまで俺を連れてきて何をする気だ」
ここまで静かについてきたオーレリウスに対する周囲の反応は実にさまざまであった。
ボロボロで、血を染み込ませた旅装を着た男が何食わぬ顔で街を闊歩しているのだ。
貧民であっても異様な光景である。
アルハンブラが門を開いた場所は、衣料店であった。
そこにいた者たちの存在に、オーレリウスはぎょっとする。
木造の衣料店。そこら辺の籠の中へ乱雑に投げ込まれた衣服たち。
店主と思わしき初老の男が冷や汗をかきながら「いらっしゃい」と声をかける。
その冷や汗の対象は、今店にやってきた血濡れの男に対してではない。
「遅かったな?アルハンブラ」
貧民街に似合わぬ服装を身に纏う漆黒の肌を持つ3人の女。
そしてヨルと名乗ったあの獣たちが、この店で衣服を選んでいるという光景であった。




