この世に潜む亡霊たち㉒
迫りくる湖面。
悲鳴を上げる男たちは一様にこう思っただろう。
あぁ、死んだ。
と。
当然、そんなことを許すわけがない。知りもしないだろうが、この二人の命には金がかかっている。
首に値札が付いているのであれば、それを買ったものが見捨てない限り往々にして助かるものなのだ。
この世界では、そういうものなのである。
水面へ接触するかどうか、というところでまるでふかふかのベッド上に飛び込んだ時のような、寄り添うような柔らかな感触を覚える。
次いで、それに触れるからだが冷たさを覚えた。
それは水泡であった。彼らが水へ叩きつけられる少し前にその水泡が包み込むようにして落下の衝撃から彼らを守った。
何が何だかわからない。男たちは今起こっていることを必死に整理しようとしているが次から次へと素っ頓狂な事態に襲われる。
眼前からせりあがるようにやってきたなぞの物体。その中にあったのは
「…ああぁぁああ!」
男が叫び声をあげる。上に、上にと飛んでいくその中にいたのはすやすやと眠っていた桃色の体毛を持つ兎によく似た生物。
カーバンクルの兎である。
手につかもうと手を伸ばすが、まるでそれを嘲るかのように水泡は水面へ沈んでいく。
それは川を流れる石のように湖底を進んでいくと、男はそこでとんでもないものを見た。
自分と契約をしていたサバクオオカミたちが同じように水泡の中でぎゅうぎゅう詰めにされている。
あちらもこっちを確認したのか、嬉しそうに吼えているが声ばかりは聞こえない。
再び水泡が動き出す。
吸い込まれそうな仄暗い湖の底、湖底洞窟を進み続ける。
道中、それを見る者たちがいた。それは水竜であった。
ちょっとしたホラー映画でもお目にかかれない眼前の恐怖体験に振るえるのは、寒いだけではないだろう。
そうして進んでいると、彼らはついにそれを目撃する。
見上げるほどの体躯はその巨大さを表すだけでなく、まるで神殿にそびえる巨大彫刻のような荘厳さを兼ね備えていた。
揺れる髭の奥で、その瞳がこちらを睨む。
⦅来たか⦆非常に老練な声がどこから都のなく男たちへと聞こえてくる。
オオカミたちにもそれが聞こえたのだろうか、水泡の中で皆が慌てふためきもんどりうっている。
⦅お前ら風情が我が名を知る必要はない。教えるほど我が名は安くもないが、お前らの主人に伝えるには…そうさな⦆
微睡む翁。でよいかと眼前の水竜、デュランデイールが答える。
⦅お前らはこれより我らが元を去る。なぁに、取って食うわけではないさ。お前がなぞ食っても何の腹の足しにもならぬ⦆
代わりに、お前らの主人へ言伝をしてくれ。と微睡む翁が男たちへ何かを伝える。
それを首振り人形のように頷いて答えると、それに納得したかのようにふいとそっぽを向く。
その途端である。
まるで濁流にのみこまれるがごとく水泡が洞窟の奥へ、奥へと流されていく。
暴れ狂うように何度も水泡内を転がりまわる男たちは、洞窟の色がわずかに変化していくのを感じていた。
黒色だった景色が色を帯び
白色であった岩石が黄色を帯び始める。
そうこうしているうちに、その眩しさに目を細めた。
よく見慣れた、ドロツゴの海岸へとまるで鼻息で鼻くそを飛ばすかのように男たちは洞窟より発射されたのであった。
水泡が弾けるように消滅したころドロツゴの海岸線より男たちとオオカミたちが波をかき分け陸地へと這い上がってきていた。
照りつける太陽の灼熱が、どこか懐かしさすら覚えていた。
だんだんと、その実感がわく。
そうして、男は…ゴルボンダ・ハミュルは自らと契約をしたオオカミたちと抱き合った。
生きている!生き残ったのだと。歓喜の声を上げたのであった。
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「…で」
数時間もしないうちに、二人の男はペストマスクをつけた男の前に正座をさせられていた。
ゴルボンダ・ハミュル。「スウェイルの砂漠狼」との契約を行った契約者。
ハギルストン・ゴーデック。「ジャミギレの陰影蜥蜴」と契約を行った契約者。
そしてここにはいない、もう一人の男をのことを双方に尋ねていた。
報告を受けたウェンリーは、ゆっくりと自らのマスクを外す。
そうして、小さくため息をついた。
「で?積み荷のほうはどうなってんだよ。先方からまだ納品されていないという連絡が届いてるんだが」
問い詰めるような言葉にゴルボンダとそのオオカミたちがより小さく縮こまっていくようにウェンリーは感じていた。
そうして、歯切れが悪そうにゴルボンダが手を挙げて陳情を述べる。
「あ、あの…その。ウェンリーさん……伝言を、預かってまして。微睡む翁っていうバカでかい水竜からなんですけど…」
微睡む翁。
その言葉をつぶやいたウェンリーは静かに顎へ手を当て、続きを促した。
ゴルボンダが、続ける。
「えーっと、ですね。『次からは、依頼料の話をするべきだ。准将』とのことでしたが…ウェンリーさん。これっていったいどういう…」
それと同時に、この部屋を笑いが包み込んだ。
ゲラゲラと、高笑いしているのはウェンリーだ。皆が困惑の色を浮かべる中、一人だけ笑い始めたのだ。
その異様な光景にゴルボンダをはじめ周囲の人間全員が何事かとウェンリーのほうを向く。
そうしてひとしきり笑い終える。
「そうだ。そうだよな…俺としたことが失念していたぜ。いやぁ、というより慢心かな?」
何か一人で納得している様子のウェンリーである。
「アイツならそれでもやってくれると思っていたが、こういうことをしてくるたぁ驚きだ。いやぁ…参った。これは俺が悪い」
そういって立ち上がると、ゴルボンダの肩をポンと叩く。
「とりあえず、両名とも生きててよかった。レタックの奴が死んじまったのが残念だったがまぁ、この仕事ではこういうのも付き物だしな」
そういって、何が何だかという様子の二人を部屋から出すついでに全員を下がらせる。
作業机の上に手を組み、顎をのせ思案する。
悔しいが、確かにこれはウェンリーの慢心が招いた事態だ。
オーレリウスへ依頼の話をした後、報酬の話はなぁなぁのうちに送り出してしまったのだ。
心のどこかで、今もまだあいつのことを部下として思ってしまっていた自分がいたのかもしれない。それだとしても過去のアイツを思えばそれこそ満身の極みである。
砂鼠商会の上長クラスになってどこか油断していたのかもしれない。
とにかく、やるべきことはやるべきだ。
ウェンリーはとある番号へ電話を繋ぐ。
「あー。この説はどうもぉ。砂鼠商会のものです…はい、この説は申し訳ありません……はい、こちらの手違いが原因でしてね?はい。もう数日お待ちいただければと…えぇ、えぇ。お怒りの程はよくわかります。その件につきましてはお支払いいただいた前金をお返しいたしまして、そのうえでお支払いいただきますところを…えぇ、えぇそうですか。
ではそのように。ご期待に沿えず申し訳ございません。今後はこのようなことがなきよう社員一同気を引き締めていく所存です…はい、では……これで」
そういって、静かに電話を切る。
僅かに天井を見やり、その景色を見る。
整えられたたたずまいだが、何一つ代わり映えもしないその景色を見やる。
「さぁ、ビジネスマンの時間はおしまいだ」
そういって傍に置いてあったペストマスクを被ると再び電話を鳴らす。
「…俺だ。『在庫』にはまだ予備があったよな?あぁ、それを「速達便」で届けてくれ。運搬費用はいつもの場所からとって行け。それと、ついでに暇してるやつに声をかけておいてくれ」
そう伝えると、電話の向こうで不満げな声とともにブツンと切れる。
続けて、再び電話を鳴らす。
コール音が耳に鳴り響く中、近くにあった地図を引っ張り出し、コンパスでオーレリウスたちの動向と、それにかかる時間を計算する。
「あぁ、俺だ。そっちのほうはどうだ?そうかそうか、いい稼ぎになったか。そいつぁよかった。出掛けついでで構わないが、ちょいと買ってきてほしいものがあるんだよ……あぁ、そうだ。それじゃぁよろしく」
そういって電話を切る。
「オーレリウス。お前とは確かに碌な報酬の話なぞしなかったが…だが、よぉ。一人死んでいるくせにその報酬はもらいすぎじゃねぇのか?」
そういって、立ち上がる。
煙草に火を点け紫煙を吐き出す。
宙を舞う煙を眺めながら、ウェンリーは思考を巡らせる。
「お前がどういう意図でウチの商品を手につけたのかは知らねぇが、それを報酬とするのなら持っていくのはまぁいい。俺に何も言わないのはお相子だ。それもいいだろう」
再び煙草を吹かすと、赤く光る炎が、ウェンリーの心を現している。
「だが、もらい過ぎはいかんだろう?その分はきっちりと取り返させてもらうぜ。元特務上等狙撃兵さんよ」
その声は、確かな決意となって紫煙を見つめていた。
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ゴルボンダは医務室で横になっている。
これまでの出来事を振り返りながら、自らの失敗を思い返すには十分すぎるほどの時間が与えられた。
色よい言い方をすれば、不慮の事故ではあろう。しかし、あの時一匹でもオオカミを近くにおいておけば、何か変わったのだろうか。
禁書保管庫に閉じ込められている間に、もし俺が死ねば少なくとも何人かは道連れに出来たのではないか。
結果としてそれが犬死であるとわかってはいても、そう考えずにはいられなかった。これらのミスは自分のせいなのだと、思わずにはいられなかった。
そんな様子を、オオカミがなだめる。
「ご主人、そう自分を責めるこたぁねぇよ。どうあれスクールの雌鶏どもには気が付かれていたんだ。俺たちだけでも逃がす選択をしたあんたの判断を、俺たちは間違いだとは思わねぇよ」
契約したオオカミにまで心配されているとは。
思わずゴルボンダは苦笑を浮かべた。
「そうだな。今更考えても仕方がないか」
どうせこのケガだ。暫くは事務仕事でもしてリハビリに励むことにしよう。
そう思っていた時だ。バンとその扉を開け、奥からペストマスクをかぶった男が姿を現す。
「ウェンリーさん。お疲れ様です」
ベッドの上とはいえ頭を下げるゴルボンダに手で制止する。
「今はいい。お前らには苦労を掛けたな」ウェンリーはそういうと、ハギルストンのほうへと歩みを寄せる。
今も無言で眠りにつくこの男の寝顔を一瞥すると、改めてゴルボンダへと向く。
「医者はなんだって?」
「数週間は絶対安静…とのことでした。肋骨と内臓がイカレてしまったみたいでして」
そうかそうかというウェンリーが指を振ると、彼の前に特別なデスクが出来上がる。
宙から降り注ぐ紙束の山を見た時、自分の仕事を理解したゴルボンダが早速そのうちの一枚を手に取る。
そうしてみると、見る見るうちに驚愕の顔を浮かべる。
「ドロツゴ陸軍より新型の兵器を頼まれてね。実地テストを行う」
ゴルボンダが一番驚愕したのは、その日数であった。
「四日後って…本気で言ってるんですか?」
ウェンリーは意に返すことなく医務室を離れていく。ドアに手をかけ、視線を合わせることなくゴルボンダへと話し始める。
「モノはそろえた、許可もある。時間はおおよそ導き出せた。あとは、お前がここで細々事後報告を書いているうちにすべてが片付くだろうさ」
「で、でも…あの人に挑むんですか!?」
ゴルボンダには、これが意図するところが何か解っている。
ウェンリーさんは、俺たちを助けたあの黒い竜。その契約者に何かをしかけようとしていた。
彼もまた契約者で、かつ相当の実力者だとは知っている。だがその力をその目で見たことはなかったゴルボンダに取って、あの竜に挑むという行為自体無茶に思えた。
だが、同時にゴルボンダは感じていた。
あのビス止めされたペストマスクの裏側で
ウェンリーが、笑っているのだと。そう感じていた。




