オーレリウス・ベルベッドという敗残兵⑩last
イノシシは、空を仰いでいた。
蒼白の月光を、仰いでいた。
あの寒い洞窟の中で、蝙蝠と共に過ごしたあの日々を取り戻したかった。
イノシシは、空を仰いでいた。
そこに飛ぶ、竜を憎々しげに仰いでいた。
そして、イノシシはゆっくりと闇の奥へと引きずり込まれていった。
後悔と、憤怒を抱えながら
息絶えていった。
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「終わったの?」
ミュレは今もまだ、領域魔法を解除していない。
そこから算出される結果を信じるのなら、眼前のイノシシは既に息絶えてしまっており
魔法を保持し続ける必要はない。
しかしながら、魔法の解除ができない。
本能が、未だ震えている。
がくがくと、震撼している。
圧倒的な怪物。本来人間の手には負えないモノたち。
それが、死んでいる。
本当か?
疑念が、晴れなかった。
そんなミュレを意に介することもなく、竜が眼前に舞い降りる。そのままイノシシへと爪牙を突き立て肉を引きちぎる。
溢れるばかりの赤い血は、自分と同じ生き物であることをミュレに意識させるには十分なほどの色を帯びている。
黒い外殻を纏った肌ではわからないが、ストルムと呼ばれた竜の口は血で染まっている事だろう。
その背から降りるオーレリウスはイノシシの牙を一本掴むと、乱暴に折ってしまった。まっすぐ伸ばせばミュレの身長ほどもありそうなその牙を左肩に担ぎ、ゆっくりと歩み始める。マスクを脱ぎ、その異形と変貌を遂げかけている顔が月に照らされる。
紫の瞳のうち、左目が赤く染まっている。黒い肌から脈動する血管が右頬の火傷痕へと侵入しており、もはや人としての皮膚などそこにはなかった。
そんな、契約者。
そのようになっていた、契約者。
その右手が、ミュレの肩を叩く。
「終わったぞ」
淡々とした、一言だった。
だが、その言葉がミュレの恐怖をかき消した。
力なくその場にへたり込むミュレを無視して、オーレリウスはポケットの中に忍ばせていた煙草に火を点ける。
揺らめく紫煙と、僅かな紅が夜を照らす。
そのまま、オーレリウスは闇の奥へと姿を消してしまった。
まるで、そう
その闇の奥こそが、自分の今の居場所であるとでも言わんがばかりに。
ふっと、ミュレの前から消えるようにいなくなってしまったのだ。
フヒル村はそのまま、朝日が登るまで警戒を解くこともなく過ごしていた。
早くあの夜が明けるようにと、祈るように過ごしていた。
亡霊が過ぎ去るのを待っていた。
そんな中、村長は山の間より陽光を照らすそれを眼でとらえ、まぶしそうに顔をしかめる。
村の安全を確認しながら、薪を溜めておく小屋へと歩みを進めていた。今日もあの男が来るはずだ。
忌々しい帝国の子孫。あの渡り人が…
だが、小屋の中へと足を踏み入れることもなく、村長は声を上げた。
まるでそこにおぞましいものがあるかのように。
部屋の中、薪を置いておく棚一杯に敷き詰められた薪
そして部屋の中央に吊るされていたのは、見上げるほど巨大な牙。その牙には乾いた血がまだこびりついている。
一体こんな牙、どこから持ってきたというのだ。
そもそも、昨日の段階で既に3分の1が済んでいたはずの薪が、どうして満杯になるまで敷き詰められているのだ。
長いこと生きていた中で、これほどの異常事態は初めてである。
その折、村長は牙に何かが彫り込まれているのを見つけた。
『火を焚いて、薪を乾かしておくこと。支払いは、ギルド経由で』
それを見た村長は、恐怖で再び震えた。
まるで、亡霊を見たかのように。
震えることしか、できなかった。
老婆の家にて、ミュレは膨れていた。
何もかも思い通りにならないばかりに、いよいよ癇癪でも起こしかねない様子である。
そんな様子を見かねた老婆が声をかけた。
「いつまでそうやっているつもりだい?そろそろこっちも腹が立ってきそうになるよ」
そうはいったものの、多少は同情しているつもりである。
竜がひとしきりイノシシの肉を貪った後、肉の塊を一つ咥えてその場を飛び立ったため、そのままそこに放置されていたというのだからあの一人と一体は女の扱いというものをまるで解っていない。
恐怖が薄れてきたミュレは、今度は完全に無視されたという事実に憤慨し、怒り心頭のまま山を下りてきた。というのが顛末である。
「そもそも、スクールの飛竜兵相手にわざわざエスコートするような契約者がいるもんかい。殺されないだけ案外慈悲深い連中じゃないか」
老婆の発言に、ミュレはつい棘のある発言をする。
「そもそも、あなたは変なのよ。あの男に私の正体をあっさり明かしたこともそうだし、今も肩を持つようなこと言って」
その言葉に、思うところがあったのか老婆は何処か愁いを帯びた表情をする。
「まぁ、そうさね」
朝日を見やる老婆の瞳の奥は、まるでここにはない景色を見ているようであった。
「そうさね…って。帝国信奉者だったの?」
そういうミュレの手には杖が握られている。
老婆は眉根を寄せて答える。「そんなわけないだろう?」と。
「言葉の上げ足をとるんじゃないよ。そもそも、危険を承知で接触したのはそっちだろうに。疑われた結果森の中で殺されなかっただけ運が良かったと思うべきじゃないのかい?」
老婆の言い分も分からなくはない。
あのまま身分を明かさず「ただの村娘」として立ち振る舞うには色々無理があった。
どのみち何処かの段階でバレてはいただろう。その時、果たして自分は無事でいられたのだろうか?
ミュレ、ことミュレ・アンダーソンはこの村で初めて「スクール」への入学を許された才女である。そんな彼女の幼少期に教育係を買ってくれたのがこの老婆である。
ミュレが「この村の娘」という事実はその通りなので、この村の周辺に出現した「ヒュンドラの蝙蝠」に関する調査の際に案内役として帰省することとなったのだ。
そんなミュレだからこそ、老婆とのやり取りには何処か身内のような馴れ馴れしさもあった。
「んで、アイツは結局何しに村に戻ってきたのよ。わざわざ隠れるようにしながら」
そういうミュレの眼前のドアが開く。
奥から現れたその少女を見たミュレは、自身が先ほどまで発していた言葉などかき消されるように、その少女へと駆けよっていく。
そんな姿を見ながら、老婆が昨夜の出来事を思い出すのであった。
アナの安静を確認した後、老婆が山の方を見ていた。
時々聞こえる爆発音や炸裂音。何かの光が迸るその光景を眺めていた。
それすらも終わり、静寂の中で薪が燃える音だけが部屋の中を響いている中、老婆はそれを見た。
薪を保管する小屋の方で、何かが動いている。それは、加工前の丸太だった。
それは小屋の中へと消えていった。
しばらくしたのち
老婆の寝室のドアが開く。
あの日と同じように、オーレリウスがそこに立っていた。
今度はその手に拳銃は握られていない。かわりに仰々しい黒い四つ眼の髑髏面をつけていた。
「終わったのかい?」
そう問いかけると、オーレリウスは「あぁ」とだけ答える。
「じゃぁ、何をしにここに来たんだい?」そう問いかける老婆にオーレリウスは行動で示す。
アナがいる寝室へと入ると、その様子を伺う。
呼吸、心拍、怪我の具合。
「とりあえず、明日の朝日は迎えられそうだな」
そういって、部屋を後にする。
静かに、眠れる少女を起こさぬようそっとドアを閉じた。
「ここに来た理由は2つ。今やったことと。依頼を果すため」
だが、それも終わった。
「もう会うこともないさ。夜は静かに過ごすもんだ」
そういって、オーレリウスは去っていった。
亡霊が夜の闇に消えるように、それ以上は何も語ることもなく。
掻き消えるように、その場を後にした。
朝日が昇る中、オーレリウスは川を見ていた。
厳密にいえば、水に映る自分を見ていた。その顔に広がっていた黒い皮膚は後退を続けており、脈動する血管も成りを潜めている。
体中を襲う激痛も少しづつだが治まっていくのを感じていた。
ひとしきりの荷物をストルムに担ぎ込み、金具で固定する。
レイジ・オブ・ハートを専用のラックへマウントすると、竜は首を上に伸ばし身体を少し揺さぶる。
荷物が落ちないことなどを確認すると、オーレリウスは自分のリュックの中に手を伸ばし、地図を広げた。
コンパスを片手に、方位磁針と合わせて航路を決めていた。
「次はどこに行くつもりだ?」
そうオーレリウスに問いかけるストルム。その眼前に白い粒が舞い降り始める。
言われたオーレリウスはとりあえず、といい幾つかの箇所を指さす。
どこもメルカッタ南方の地域だ。
「ウィンター・バカンスするなら、導霊国周辺がいい。そろそろ寒さを逃れるために移動を開始するノズビグの肉が喰いたい」
ノズビグはメルカッタ中央の平原部にて主に生息する大型草食動物であり寒くなるこの時期は南方へと移動している。
大きな鼻が特徴であり、良質な肉は竜たちにとっても格別のごちそうなのである。
「森人共に見つかると阿保ほど厄介だがな。であるなら俺はユニダデド共和国南端の無人島群で魚でも釣りたいね」
その言葉に、ニズヘグはふむ、と鼻を鳴らしてオーレリウスへと顔を近づける。
「あそこはそろそろ錦海蛇がやってくる時期か。人の流れも止まるだろうしいい隠れ家になるな。あれの肉は癖になる味だが嫌いじゃねぇ」
「んじゃ、決まりだな」
オーレリウスは空を仰ぐ。振り始めた雪はじきにメルカッタを白く染め始めるだろう。
メルカッタの大地に、冬期が訪れた。
赫四眼の髑髏面を装着し、帝国竜騎兵正式採用対環境制服の襟を正す。備え付けのフードを髑髏面を隠すように被るとオーレリウスはストルムの背に跨る。
ブーツに施された魔法刻印が仄かに光り、ストルムの鞍に反応し自身を固定する。
帝国の竜騎兵は竜に手綱など使わない。
念話で相互にやり取りをする。
この固定だけで竜の背に乗り、両手は常に自由にしておく。
騎乗狙撃や魔法行使など、手が空いているに越したことはないことが多いためだ。
-招風:付呪-
-招炎:付呪-
-招土-
自身やストルムの体を覆うように風と炎の膜を練る。双方が混ざり合えば自爆しかねないその繊細な作業をまるで慣れた手作業でもするかのようにこなしていく。
眼前の土が盛り上がり、まるでスロープのように空に向かって伸びる足場を形成する。
その足場へストルムが乗ったところで、それぞれの息を整える。
-同調-
2つ分たれたものが、一つへと戻っていく。そのマナを糧に周囲に燐光文字が浮かび上がっていく。
-招風-
-疾風-
-滅撃-
周囲の空気が、ストルムの背後へ圧縮されていく。足場の表面が仄かに緑色に光ると竜の体がわずかに浮遊する。そして、その眼前に風が渦を巻き始める。
まるで、砲身のように。
ストルムは翼を畳み、身体をまっすぐ伸ばす。
オーレリウスはその背に体を預けるように、姿勢を低くする。
燐光文字が雷光を帯び、障壁を生み出す。
-招炎-
同調し強化された爆炎が、ストルム達の背後より炸裂する。
滅撃により守られた自身はまるで弾丸のようにスロープを滑りあがっていく。
大空へと射出された漆黒の弾丸は、瞬く間に厚い雪雲へと迫る。
迫る
迫る
そして完全に白と灰色の世界が訪れる。
雷鳴のような音が轟く中、その弾丸は飛翔し続ける。
勢いが削がれ始めた折、まるで殻を破るように燐光文字をストルムの翼が引き裂く。
大空を飛ぶ漆黒の竜がそのさらに上へと飛んでいく。
そして、太陽を見た。
足元を流れる雲。
保護してもなお、僅かに震えるその体は、決して寒いだけのものではなかった。
「さぁ、行こうぜ」
そういうストルムは進路を進み始める。
「あぁ、行こう」
次に目指す場所は、メルカッタ南部。
そこにあるものは、決して何かめぼしいものではない。
そこに至ったところで、彼らの旅は終わらない。
ただ彼らは飛び続ける。
ただ彼らは昼と夜を飛び続ける。
ただ、生きるために。
お久しぶりです。インフルエンザからのモンハンで完全にモチベが宇宙の果てにおりました。集中力がシングルタスク人間ですので今後ともよろしくお願いいたします。次回ですがまた何か思いついから書きます。
狼君の方のモチベは…そこになければないですね(諦