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タカツカサは数日前に霧が遠のいたばかりの危険区域だった。
まだ市の大半が未探索であり、腕利きの賞金稼ぎか人目を忍ぶ無法者か。人の出入りはその程度しかない。紅い月の出ない夜が続く最近であっても、深く進めば成り損ないと化す可能性さえある。
湿り気の残るかつての国道を、4WDが砂利を巻き上げて走る。
後部座席の天井をブチ抜いて作った手製銃座、大きくリフトアップされた車高、窓を覆う鉄格子、有刺鉄線など、フォルムと引き換えに手にした悪路を走り抜くための工夫が随所に見られる。それは『淑女』とは正反対のコンセプトだった。乗員は運転席にフジマ、助手席にハヤミの二人である。
「一応つっ込んでおくけどさ。ここはアタシに運転させて、アル中のあんたはハンドルじゃなく銃を持ってアタシに突きつけておく場面だと思うんだよ。もしもアタシがあんたの頭をこのレッド9でふっ飛ばして、運転席から蹴落とし、この車が何処かへ消えたら、憤慨したユズリはそのとき三頭目のマスチフを肩に彫り始めるわけ?」
黒い銃口を向けられながらも、フジマは笑った。
「そうなったら、汚染者になってでもボスの肩を見に行きたいね。猛犬の3Pなんて聞いたことがない。……まぁ、そのリスクは考えなくもなかった。でも、お前は有名人だ。受けた依頼は守らなくちゃ生きていけない。そうだろ、賞金稼ぎ」
自信ありげにフジマは言うが、ハヤミには理屈が全く分からなかった。その寝惚けた考えは手に穴でも空けてやれば少しは覚めるのだろうが、しかし撃つにはあまりに毒気が足りない。かといって、ハヤミは皮肉を言う気さえ削がれて、「は? 意味不明だよ」とぼやいて銃を下げた。
窓を流れる景色は無味乾燥の灰色ばかり。
空も地面も建物も。差し色は暗緑色の短い草程度だ。雨こそ止んでいるが、重苦しい天上の雲はいつ泣いてもおかしくない。
いつもより濃い霧には少し寒気がして、ハヤミは肩を撫でた。
昔は突っ込んでやれと思うことがあった。噂の真偽を確かめるにはそれしかないからだ。しかし、その結果報告に戻ってきた者はいないし、そういう人間に会ったという話も聞いたことがない。その点において、霧向こうの世界を確かめることと、死後の世界を確かめることに違いはないのだ。
ボンネットに黄ばんだ写真が貼られているのに気付く。
一人の少女とそれを挟む男女だ。
男の方は若かりし頃のフジマらしい。構図的に家族だろう。嬉し気に破顔する少女をフジマが腕に抱き上げ、女がそれに身を寄せてスマホで自撮り、そんな光景だ。かつて何処にでもあった、退屈で陳腐な幸せがそこに切り取られている。
「ねぇ、なんでホイールマンなんてやってるの? 家族受け最悪でしょ。写真の人、いまごろ泣いてない? もしくは……もう?」
「あーっと、その家族に会うためだよ。マイタニ市外の小さなキャンプにいるって聞いた。ホイールマンやってる目的はつまり、金稼ぎだな。このご時世、単に会いに行くだけじゃ迷惑だろ。食料も薬も、生活用品も山ほどコイツに積んで『助けに来てやったぜ』って言えるようにならないとな。手ぶらで市外になんて行けない。現地に辿り着くだけでクタクタになって、最悪は向こうに世話かけるハメになる。はは、何しに来たんだって話になるだろ」
「他人同士ならそれは正しいよ。でも家族なんだろ? 自惚れんなって。アンタは端から何も期待されてないし、ただ顔さえ拝めたらそれで良いって、写真の二人はそう思ってるんじゃないの。難しいことゴチャゴチャ考えず、アルコール引っかけて行ってみなよ」
フジマは何かを言いかけて、口を閉じた。しかしその行いを自ら咎めるように頭を振る。
「離婚したんだ。バイクに入れ込みすぎて娘の入学費もつまんだ。最悪だよな。難関私立中学に合格したって、泣いて抱き合ったっていうのに、その時の俺は……まるで意味が分かってなかったんだ。それで口座の残金がバレたとき、嫁は泣いてんだか怒ってんだか分からない顔してわめきまくってたし、娘は…………そうだな、よく思い出せない。だからとにかく、今の俺が手ぶらで帰っても、向けられるのは刃物。悪ければ銃。そうだろ?」
ハヤミは退屈な授業を受ける不良生徒のように、顎肘をついて「ああ、そう」と不機嫌そうな返事をする。
「ま、その辺りの感覚はよくわからないね。アタシはお受験未経験者だから。でもとりあえず、アンタに金を貸すべきでないってのはハッキリしたよ」
フジマはミラーで追跡者がいないのを確認してから、自嘲するよう笑った。
「まぁ、とにかくけじめには金がいるんだよ。稼いだらホイールマンを抜けて、その金で物資を詰んで持って帰って、嫁と娘に届ける。その足でバイクも売りに行く。謝るのはそこからだ。そしたら、その写真に少しは近づける気がしてるんだよ」
「は、それは随分悠長だね。嫁さんと子供が元気に待ってくれてたらいいね。希薄になってたり、路地裏で人肉食らってたりしたらどうするよ? アンタも混じって団らんするのかい? その黄ばんだ写真がそのまま遺影にならないうちに、しょうもない意地は捨てることだよ」
「ほんとそうだよな。でも、そんな意地にすがりついてないと……頭を撃ち抜いてしまいそうになるんだよ」
ハヤミは「は?」と横目にフジマを見る。
「夜、急に目が覚めて。ぼおっとして。気付いたらコメカミに冷たい銃口を突き付けてることがある。この悪夢を発生させてる装置の電源が、引金なんじゃないかって妄想しながらさ。でもこの写真が目についたら、我に返って、何もせず銃を置いて、また眠れるんだ。今の俺がまともに生きてられるのは、この写真を見ながら金稼ぎやってるときぐらいなんじゃないかって、そう思うことがある。もし十分に金が溜まっても、本当に俺は家族を迎えに行けるのか。それさえ不安になることがあるんだよ。……で、この依頼で金は溜まっちまう」
カラン、と空き瓶の転がる音が後部座席で鳴った。
ミラー越しに覗くと、曇ったガラス瓶がいくつも転がっている。これがフジマの私車なら、誰が空けたのかも察しが付く。度数の強いラベルばかりが目についた。
改めてフジマを見ると、ハンドルを握る手が微かに震えている。
「酒の件は訂正するよ。もうエタノールもジンもやめときな。自覚してるか知らないけどアンタ相当いかれてる。あと、今から目的地までもうしゃべるな。フラグ立ちすぎて縁起悪いったらない」
「そうだな。少し喋りすぎた。……悪い」
「だから、黙れってフジマ」
ハヤミは初めて名前を呼んだ。