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キャンプ『ヤマネコ』の広大な車庫に、車のような鉄屑があった。
特徴的なロングノーズと空気抵抗を抑える優美なフォルムから『淑女』と親しまれたこのスポーツカーは、しかし30年の歳月と電信柱への正面衝突を経て、いまはボンネットの強烈なヘコミを中心に多数の損傷を負っている。
口に小型ライトを咥えて、ボンネットに触れながら柳眉をしかめる黒髪ショートヘアの女――ヨシノの横顔には、見ようによっては故障を吟味する敏腕エンジニアの趣きがあるかもしれない。擦り傷をなぞり、オイル汚れの臭いを確かめ、ときにノックして冷えた金属音に耳を澄ます。やがて彼女は状況を見極めたように頷くと、鼻先の煤を擦ってからライトを相棒に向ける。
「よし。現状を整理するとこうね。私達には淑女を直す金がない。部品もない。技術もない。知識もない。それっぽい点検の真似事したけど意味もない。ついでに言うと、それらを何とかするための移動手段もない。補足あるハヤミ?」
ライトを向けられ、色素の薄い瞳を細める赤毛の女――ハヤミは、手で明かりを遮りながら「そうね」と同意する。
「そのくせアタシ達は何とかする気でいるし、何とかなると思っている。つまり計画性とか状況認識力もなくて、楽観的。要領も悪いし諦めも悪い」
「完璧。はぁ」
ヨシノは嘆息してライトを下げ、途方に暮れたように運転席扉に背中を預ける。事故現場にそのまま残されていた手付かずの『淑女』。幸運なことに、ダメもとでキーを捻るとエンジンが唸り、キャンプまでの悪路をクリープ現象並の速度で走破して見せるなど、大破車のわりに見せ場はそこそこあった。しかしハイライトはその辺りまで。ナカノに嘆願して車庫に停めて以降、『淑女』はうんともすんとも言わなくなったのだ。
ヨシノは闇煙草をパーカーのポケットから取り出そうとして、やめる。いまになって考えてみると、『淑女』がそのままだったのは幸運ではなく当然だと彼女は悟った。車種が特殊だからこそ部品取りには適さないし、修理の見込みも低い。かと言って、動かぬ嗜好品として楽しむには車はでかすぎる。現代では希少性ではなく汎用性にこそ価値のあるものが多い。車はその典型だ。野盗の手垢が付かないわけだと再認識する。
「分かってる。分かってるよハヤミ。違うから」
ヨシノがポケットから手を抜いたのを認めると、ハヤミは目線を外す。
「で、何をするにしてもアシが要るよね。……あーあ、キャンプ内通貨でバイクの取引目指したら、あと3回ぐらいは死ぬ気がする。フチュウの作った治験リストを上から順番にキめていく、ナカノが地図にスカルマーク付けてる野盗アジトにパイナップル持ってカミカゼする」
「もしくは、ここからバイクを持ち逃げしてアキからの追っ手を振り切る、も追加して。全部却下よハヤミ。私達にはどれも向いてない」
言うまでもなくバイクは現代の希少品だ。しかしそれ以上に賞金稼ぎのステータスと言っても良い。色のない霧から逃れ、眠い雨を避け、汚染に怯えてキャンプに保護され、束の間の晴れを狙って地図更新で日銭を稼ぐ。それが現代の一般的な生活スタイルなのだ。そんなご時世に乗り物を欲しがるのは命知らずのアホか腕利きかの二種類であり、二人は間違いなく前者の方だった。
「簡単で早い、多少ヤバくても。がテーマよね。じゃホイールマンにオネダリするのはどうヨシノ」
「すごいイケてるね。高層ビルの屋上から地上を目指すレースで飛び降りを選ぶヤツの発想よ。キャッチフレーズは『不滅のレコード、そして最速のアホ』。笑える。ふふ」
ヨシノがくだらないユーモアを笑っているのを他所に、ハヤミは最後の依頼で現地調達したマシンピストル『レッド9』のコッキングピースを引く。年式の割に丁寧に手入れされているのだろう。黒い光沢にぞくぞくとした。ハヤミのあがった口角を見たヨシノは、天を仰いでからズリっと崩れるように地に座り込んだ。
「ちょっと待ってハヤミ。今の笑いは意味が違う。なしよ。猫だって命は9つしか持ってないんだよ。あんたに幾つあるか数えたことないけど、次が最後でない保証なんてないんだから。バカな考えはよして。却下よ。これも却下」
「聞いてヨシノ。実はそこのボス――ユズリとアタシはね、まったく知らない間柄じゃないの。アキに頼まれてね、ホイールマンのアジトへ挨拶行ったわけ」
「わぁ、それいいね。あのイカレジャンキーにリボンの付いた可愛い菓子折りでも持っていったの? 歓待で玉露の二番茶でも出してくれた? それとも英国産のダージリン?」
「向こうは挨拶代わりに7.62mmを3発。足、胸、頭の順にパンパンパン。アタシは返礼に国産パイナップル打ち込んでドカン」
話にならなかった。しれっと殺されている。そしてこっちもテロっている。
「訂正よ。これ高層ビルからの飛び降りなんかじゃない。見えてる地雷への早押しクイズ」
「それでも賞品がバイクなら、アタシは参加してみるよ。善は急げ。思い立ったが何とか」
ヨシノは立ち上がって、勝手に明後日の方向に邁進するハヤミの前に回り込む。
「ねぇ、……マジで言ってるの?」
険しい表情で見つめてくるヨシノに、ハヤミは決然と頷いてみせる。
「ええ、そうね、今のところは本気でその方針よ。ユズリに交渉してバイクをもらう。でも誓って言うけど交渉よ。あくまで交渉。今度は落とし前つけに行くわけじゃないわ」
ヨシノは否定するように頭を振る。
「また私を置いていくつもりなの? ハヤミ」
ハヤミは答えに窮して目を反らした。そんな彼女を、ヨシノは追い詰めるように腕を組み、『どうぞ』と返答を促すように眉をあげてみせる。ハヤミは沈黙したまま、気まずそうに肩をすくめるばかりだ。彼女は皮肉屋で口数も多いが、本気で困ると気の利いた言い回しができなくなる。
ヨシノは知った上で試したことに良心が咎め、眉根を寄せている相棒をハグした。
「うそよ。面倒くさいこと言ってゴメン。この足だと邪魔になるの分かってる」
何か言おうとしたそれを封じるよう、その背中を叩き、突き放すと一足先に車庫出口へと歩き始める。痛む足で二歩、三歩と進んでから振り返り、ヨシノは後押しの言葉をかける。
「私はキャンプで待ってる。暖かくて、家庭的で、うまい飯でも作ってね」
いつもの表情にハヤミは安堵し、レザージャケットを羽織り直す。
「ありがとうヨシノ。楽しみにしてる。ああ、でもプードル系はなしよ? もう懲り懲り。ね?」
ヨシノは答えない。代わりに何かを逡巡するよう、その小さな顎に手を当てる。
「……そうね。まぁ、今度はきっと大丈夫よ。うん。うん」
どこか不安げに見送るハヤミを、ヨシノは何度も振り返り、軽く手を上げて答えた。さりげなく聞こえた『リベンジ』という言葉の意味を、ハヤミは聞き返せなかった。