豆ごはんは誰の為?
スーパーの店先に、和歌山県産ウスイエンドウが並ぶ今日この頃。
陽射しにも春の気配を感ぜられるようになりました。
皆様方、こんにちは、こんばんは。
私かわかみれいは今日、晩ごはんに豆ごはんを作ろうと思いました。
エンドウ豆をさやから出しつつ、いつも思うのは。
私が小中学生時代のいつかに読んだ、短編のとある新聞小説です。
私は小学生の頃から、活字に関してはマセガキでした。
読書は基本、児童文学カテゴリーのものでしたが、親が購読している新聞も、小学生時代から結構、読んでいました。
残念ながら『社説』等はほぼスルー、1面も、見出しと紙面下部にちょこっとあるコラムを拾い読みする程度。
熱心に読むのは読者からの投書コーナー・料理レシピや身の上相談などのある文化欄……など。
気に入れば、連載されている新聞小説も読みました。
半村良先生のSF小説、渡辺淳一先生の(官能に近い)恋愛小説など、ガキのくせに熱心に読んだものです(笑)。
当時、その新聞は日曜日の特別版に古谷三敏先生の『ぐうたらママ』を連載していました。
子供の私、活字マセガキとはいえ当然のごとく、漫画の方を喜んで読みます。
『ぐうたらママ』のある紙面には、楽しい話・クスッと出来る話・ほっこり話を中心にした投書やエッセイなどが載っていました。
私は漫画の次に、その紙面の記事を喜んで読むようになりました。
日曜日の特別版を読み始めて数年。
読み切りの短編小説が載るようになりました。
男性の作家さんによる(作者名は覚えていません)夫婦の機微や夫視点の本音などを描写した、子供心にも色々な意味で勉強になる(イヤミなガキだぜ)夫婦の風景を描いた、ちょっと粋なお話たちでした。
毎回私はその短編小説を、(ガキなりに)楽しく読ませていただいてましたが。
その作家先生、当時でもそこそこ年配の方だったと思うのですが、昭和を生きる子供でも『はあ?』と引っかかる『夫の本音』を時々、書いてらっしゃいました(笑)。
例えば。
妻に家のナニガシかの雑用――庭の芝刈りだったり部屋に棚を吊ったりなど――を頼まれ、イヤイヤこなしつつ
(お前は、あなたは休みの日にぼうっとしているだけだと言うけど。このぼうっとしている時間が、週明けからの仕事の活力になるんだ。ただ単にぼうってしているんじゃない、ぼうっとしていることが明日の仕事につながるんだ)
などとブツブツ思っている、という描写があったりしました。
まあ……、そうかもしれません。
人間、緊張だけでは身がもちませんからね。
でも、お話を読んでいる限りではそのお家の奥さん、フルタイムの仕事持ちでお休みの日はせっせと家事をこなしていたりするんですよね。
じゃあ奥さんはいつどこで、週明けからの仕事の活力を得るためにぼうっとすればいいんでしょう?
そういう人は往々にして
(男の仕事は女が家事の片手間にやる仕事とは訳が違う! 一緒にするな!)
的にキレるんでしょうが(笑)。
でも、それはまだいいのです。← いいのかよ……
私が一番『はあ?』と思い、長く長く心に引っかかっているのが『豆ごはん』という感じのタイトル(正しいタイトルは失念しました)のお話です。
内容は以下のようなもの。
とある新婚家庭。
ただ、旦那さんも奥さんもかなり忙しい仕事持ちであり、平日の夕食は完全にすれ違い。
旦那さんの方が先に帰宅する日も珍しくない、そんなご夫婦。
(昨今風に言うなら、ご夫婦で年収1000万円以上の「パワーカップル」とでもいう感じの二人)
ある春の宵。
仕事から帰った旦那さんは冷蔵庫や冷凍庫から、奥さんが用意してくれているおかずやご飯を「レンジでチン」することに。
忙しい中でもマメな奥さんは、一食分のおかずや一膳分のご飯を冷凍したりして、平日の夕飯をやりくりしている様子。
旦那さんである青年(多分、二十代後半)は、一人寂しく晩ごはん。
そして彼は思い出す。こんな春先には母親が、目にも鮮やかな緑色のエンドウ豆を炊き込んだ、豆ごはんを作ってくれたっけ。
(こんな暮らしなら。一人暮らしと何も変わらない。一人暮らしに、性の相手がいるだけだ)
青年は鬱々とそんなこと思う。
鼻の奥に、温かい豆ごはんのにおいがよみがえる――。
というようなお話でした。
(……はあ?)
小学校高学年から中学生だった、当時の私。
うまく表現できなかったのですが、もやもやしました。
……何ていうのか。
この旦那さん、妻と心が通じないでいる寂しい被害者、みたいな気分で鬱々とごはん(でもそのごはん、奥さんが用意してくれていたものですよね?)をもそもそと食べつつ
『こんな暮らしなら、一人暮らしに性の相手がいるだけ』
などと、失礼なことを思っている、訳ですよね?
強いて言うなら、このおじさんアマッタレてるナア、という気分が強く強く残りました。
こういう人、一定数いるよなあ。
大人になって、なんとなく察することが出来るようになりましたが。
子供の頃以上に『アマッタレてるナア』と思います(笑)。
仕事で忙しく、一緒にご飯を食べることも出来ない夫婦。
確かに味気ないですよね。
でも、それでもキッチン担当者(このお話の場合は奥さん)は、平日の夕飯の手配を最低限、頑張っているのです。
それを当たり前のように享受しているのに
(こんな暮らしなら。一人暮らしと何も変わらない)
などと不満を溜める。
大体、豆ごはんが食べたいのなら自分で作れ!
炊き込みご飯の中では、豆ごはんは簡単です。
細かい話をするのなら、豆ごはんのレシピは色々あるかもしれません。
が、一番シンプルな豆ごはんは、米とエンドウ豆、酒と塩少々、で出来ます。
料理に疎い青年(当時の私にとっては「おじさん」)でも、ちょっと頑張れば明日にでも出来るでしょう。
仮に作り方がわからなくても、(いくら昭和だとしても)その気になればいくらでも調べられますし、ぶっちゃけ、自分の母親に電話でもして聞けばいいのです。
自分の方が早く帰れるのならば、仕事帰りにスーパーでエンドウ豆を買い、豆ごはんを炊け!
炊いた豆ごはんを、遅くまで仕事を頑張っている奥さんに食べさせてあげろ!
『作ってもらう』ことばっかり考え、拗ねたガキみたいにうじうじするな!
ぜいぜいぜい。
怒りで息が切れました(笑)。
……うん。わかるよ。
あなたは豆ごはんが食べたい訳じゃない。
誰かに、手厚く気にかけてもらいたいんですよね?
そしてその一例として。
旬の炊き込みご飯やら旬のおかず、それも出来たてで提供してくれる家庭に憧れている……というか、結婚したらオートマチックにそういうのがついてくるって、無意識に思い込んでたんですよね?
でも冷静になって。
それ、物理的に無理でしょう?
あなたの奥さん、仕事熱心なキャリアウーマンなんだから。
あなたが帰ってくる前に仕事から帰ってきて、あなたの(専業主婦だった)お母さんみたいに出来立ての夕飯、提供するなんて物理的に無理でしょう?
それとも。
結婚するまでそんなこと、考えたこともなかったのかしらん。
……考えたこと、なかったんでしょうねえ。
ちまちまと豆をさやから出しながら、私は取り留めもなくそんなことを考えます。
私が豆ごはん等の旬のものを使った食事を作るのは、六割がた自分が食べたいからですけど。
家族にも『季節を感じる食事』を楽しんでもらいたい、という気分もあります。
だから割と私は、こういうものを作るのですが。
それは私が、比較的時間に融通が利くから……、でもあります。
しかしウチの息子は、『オカンというものは家にいて、ちまちま家事をする者である。メシも作ってくれ、時々は季節のものなんかを作ってくれる』と、無意識に思っている可能性があります。
無意識ですから、本人もわかっていないでしょうが……そのため、さっきあらすじを紹介したお話の主人公みたいな、クソッタレ夫になるかもしれないと思うとちょっと嫌な気分になりますね。
少なくとも自分で自分のことは出来るよう、自分の大事な人を思いやれるよう、教えたいとは思いますが。
彼がどんな夫になるのかまでは、私の手に余るなあと思います。
ちなみに。
この豆ごはんのお話、読者から新聞社の方へ、それなりにクレームが来たようですね。
豆ごはんのお話が載った何週か後。
日曜特別版の片隅に、こんなコメントが載っていた記憶があります。
「○○先生の豆ごはんの小説は、忙しない暮らしをしていると季節を感じる暇もなくなる、ということを表現しています」
こんなことをわざわざ書いていたくらいでしょうから、私がもやもやした以上にもやもや、あるいは本気で腹を立てた人がいらっしゃったのでしょうね。
新聞社の方も大変だなあ、と、子供の私は漠然と思いましたとさ。
どっとはらい。