007 無音の咆哮
起伏の激しい乱雑な地形に、無数の木々や植生が生い茂る森林。
木々の脈、巻き付く蔦、飛び回る虫、奇妙な形状の植生、そのどれもが淡く様々に発光し、常闇の筈の地底世界をイルミネーションの様に飾り付け、地平を塞ぐ絶壁や何層にも及ぶ天井は満点の星空のような様相だ。
その森林の木々の枝や幹を高速で駆ける一匹の生き物がいた。
それは一見すると灰毛の兎。しかし、その生き物は地を蹴るのではなく、長い耳と尾を匠に動かし、まるで猿のように木々を伝う。その速度は赤い眼球から反射する光が残像の線を引くほどだ。
山赤兎は普段そんな速度を出して疾走することはない。耳や尾は消耗度外視の疾走により傷つき、血が滲んでいる。
その山赤兎は全力で逃走していた。追ってくる者が何者か等、山赤兎は考えない。自身を追ってくる者は捕食者であり、追ってくる理由は捕食であると山赤兎は……否、遍く生きる物は知っている。
迫りくる捕食者の音はすぐそこまで近づいている。
――山赤兎が次の枝へと尾を巻き付けたその時、後方から飛来した何かが枝を切断し、幹から切り離した。
支えを失った山赤兎は空中を錐揉みする。
そして、最後に後方から迫りくる金色の輝きを目にして、その生を終えた。
シトは四本の手足と二本の触手を器用に、そして俊敏に動かし、木々を伝って獲物に接近していた。元が猿の種族であるだけに木々を進むポテンシャルは高く、山赤兎に追いつく程の速度を出すことが可能だった。
十分に接近した後に、触手が生成した円盤状のブレードを圧力で発射し、山赤兎の進路上の枝を切断した。遠距離攻撃の無かったシトが考え出した、触手が歯を圧縮生成する機能を応用する芸当だ。
触手の膨らんでいる部分では、山赤兎が咀嚼されていて、骨の連続して折れる音が体を伝って聞こえてくる。
「不味い……」
一般的な人の味覚の基準から言えば、山赤兎は生であってさえ十分美味しい部類なのだが、シトの味覚には合わなかった。
シノの体液には数種類の猛毒が含まれている。幼い頃から微量ずつ体に慣らされていたシトには既に耐性が付いている。寧ろ、普通食べれた物ではない、毒のある生き物の方がシノの体液の味に近く、シトは好物としていた。
木の上から辺りを見回す。
光を反射する丸石が他の場所より少し多い、近くに河川か泉があることがわかる。
「初めて来る場所だ」
初めて目にした山赤兎との逃走劇により、徐々に広げていた活動圏より大幅に外側へと来ていた。
折角遠出したので辺りを物色することにする。
周囲を警戒しつつ、辺りの木々の根本を確認していく。――特徴的な爪痕等は見受けられない。
地面に着地し、水場や巣穴にしそうな場所を確認してくが足跡や匂いは無い。
どうやら大型肉食獣の縄張りではないようだ。
ここにしかなさそうな岩石、土、植物、死骸を短パンにいくつもあるポケットへと閉まっていく。悪くない収穫であった。
生息している小動物の様子を知りたかったが、先ほどの派手な狩りの性で、ほとんどの生き物は巣穴に籠ってしまった。
することも無くなったシトが帰ろうかと思ったその時、常に地面に触れさせていた片方の触手、吸盤上に無数に存在する感覚細胞が地面を伝播する微かな人の声を捉えた。
シトは直ぐに地面に倒れこみ、耳と触手の吸盤を全て地につける。――数秒で音の進路方向を特定すると、周囲にある匂いの強い花をいくつか毟り取り木々を伝って移動を始める。移動の途中で手にある花を握り潰し、滴る液体を体に塗りたくることで自身の匂いを誤魔化す。
待ち伏せの地点に着いたシトは幹によって姿が遮られる枝の上に隠れて音源が近づくのを待つ。
――数分後、足音が数十メートルの距離まで近く。
向かってくるのは三人組だ。
「もうすぐ縄張りに入るぞ。用意しておけ」
「やっとかよ。おい、これ持っとけ……」
男性二人の話し声が聞こえる。
何か目的があってこの方向へと来ているようだ。
シトはどうすべきかと悩んでいると。
「どうしたスズ」
「あ、あそこに誰かいるかも」
三人の足音が止まる。
シトの心臓も止まりかけた。直接見ていないから何処を指して「あそこ」と言っているのかわからないが、場所が割れたと想定して対応を考える。
「ああん? おい、そこに誰か居んのか」
荒々しい声が響く。
シトは身を出さない方が面倒なことになりそうだと思い、姿を露わにした。
眼下では三人がこちらを警戒して見ている。
一番前にいるガタイの良い男が荒々しい声の主で、その後ろの藁で編まれた傘を被っている者がもう一人の男で、さらに後ろの、黒い帯を両目の眼帯にしている獣人がスズと呼ばれた女だろうか。
三人は動きやすい着物を纏っている。
「おい、縄張りはまだだってさっき言ってただろ」
「その筈だが……」
こちらから目を離さずに二人で何やら言い合っているがよくわからない。
何も言わないのも気まずいと思い、話しかけることにした。
「お兄さんたち何者?」
一泊置いて傘の男が答える。
「俺たちは狩人だ。この辺に居る珍しい獲物を狩りに来た。君はこの辺に住んでいるのか?」
「違うよ。俺も狩りをしていて偶々この辺に来てたんだ」
「そうか、もし良ければ獲物の交換をしないか? 道中で仕留めた獲物が何匹かある。君が俺たちの欲しがる獲物を持っていたら良い条件で交換したい」
お互いに利のある話だ。それ以上に彼らの話を聞いてみたい好奇心もある。
「わかった」
そう言うと触手を腰に収納したまま木を下り、地面に降り立った。
その瞬間、何かが飛来し、シトの肩へとチクリと突き刺さる。
「悪いな、即効性の麻酔毒だ。眠りな」
その声を聞きながら、シトは地面へと倒れた。
「ゲヘヘッ、早速珍しい獲物を生け捕りだなぁ、おい」
近づいてきたガタイの良い男がシトの腕を掴み持ち上げる。瞬間、シトの腰から高速で伸びた触手が男の腹を貫通した。
シトはそのまま男の腹を蹴って離脱しようとするが、男はシトの手を離さず、振りかぶって木の幹へと叩きつける。
背中から幹へと叩きつけられるシトは触手をバネにして勢いを殺す。
そして、動き出そうとした時、飛来した白い塊がシトの腕へと命中し、木の幹へ叩きつけられた。
その白い塊はガムの様な粘着質で腕を幹へと固定している。
拘束を脱する為に、触手でブレードを生成し、切断しようとする。しかし、叶わない。
ギュィィィィィィィン! ギャリギャリギャリッ……。
白い塊は切れないと即座に判断したシトは触手から鋭い牙を一直線に生成し、振動させることでチェンソーの様に木の幹を切断していく。
「なんだこいつは!?」
傘の男は驚きながらも粘着弾をいくつも投擲し、着弾したそれはまだ拘束を解こうとしていたシトの動きを完全に封じた。
シトはどうにかして拘束を脱しようとするが、木や地面に接着された体はどう足掻いても引き剥がすことはできない。
傘の男は藻掻いているシトを暫く警戒した後に、完全に拘束したと判断した。
そして、座り込んでいるガタイの良い男の方へと一歩踏み出し、二歩目を地に着けようとしたその時に、シトは片方の拘束されていない触手を地面へと突き刺した。
シトの奇妙な動きに一瞬遅れて反応した傘の男。だが、その一瞬でシトの行動は既に終わっていた。
直後、獣人の女が苦悶の表情で、ふさふさの大きな耳を塞ぐ。
シトは地面に突き刺した触手を振動させ、口晶蛸が同種との疎通に使用する超音波を、最大音量で放ったのだ。
人には聞こえないその音が、獣人の女には聞こえてしまうが故に、苦痛を味わうこととなった。
そして、シトの叫びに共鳴するように、今度は人でさえも聞こえる咆哮が響き渡る。
「ボオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォ…………」