002 転生と魔境
ロリババアは次話から
死の間際の鮮烈な記憶が無限に反芻し、薄暗い岩の監獄で味わった恐怖が何度も何度も波の様に押し寄せる。
時間の感覚が曖昧になるほどに擦りきれた精神は逃避する様に意識を逸らしふと違和感に気づいた。
感じていた筈の苦痛が掻き消え、聴覚が感じ取るのは水中のくぐもったノイズではなく真夏の山中に聞こえる虫の合唱であった。
全身を包み込む酷い倦怠感を無視し瞼を引き剥がすように目を開いた。
ぼやけていた視界が段々とその役割を思い出す様にクリアになっていく。
そして眼球が完全にその役割を果たす時少年の内心は驚愕で染まる。
そこは初めて目にする夜の湿地帯である。だが誰もが思い浮かべる湿地帯の様相とはあまりにもかけ離れていた。
それは生まれた頃から自然と共に育ち地球上の様々な神秘をメディアを通じて見てきた少年でさえも目を見張る程の美しい……否、少年の『美しい』という語彙すら歪めてしまう程の絶景である。
水面にはまるで夜空をそのまま映した様な色とりどりの光点が無数に散りばめられ、その1つ1つが群れを成すように流動的に蠢いている。その光点が落ちる木の葉やゆっくりと泳ぐ水生生物を避け動く姿は現代屈指の光学芸術プロジェクトマッピングでさえ顔負けの迫力だ。
そして水面から点々と立つ幹のうねる樹木たちはその根から垂れ下がる葉の先までもが脈にかけて紫色に薄く発光している。それは樹木の血流とそう表すのが適切に思える異質ながらも幻想的なものだ。
「あぅ」
その光景に無意識に感嘆の声を上げようとしたが喉から漏れ出したのは愛らしい赤子の声。
少年はその声に混乱しながらも自分自身に意識を向けた時、見慣れぬ景色以上の驚愕が巻き起こる。
自身の手足は縮み頭は重く頑張って動いても寝返りをうつのがやっとだ。
それはつまり自身の体が生まれて間もない赤子の姿であるということを意味した。
試行錯誤の末現在の状況をある程度理解する。
まず、どいう言う訳か体が赤子の姿に戻っている。そして所在は見慣れぬ湿地帯、その水面に自分の体よりも一回り大きな半透明の果実を舟の様にして浮かんでいた。
体重が軽いからか果実の舟が沈む気配は感じられない。しかし到底泳げるとは思えないこの身故に少しの波でもひっくり返ってしまいそうなこの状況は溺死の恐怖をフラッシュバックさせる。
「jjj……jjj……」
ふとその時、脈絡もなく微かに響く耳障りな音が耳に入る。
慌てて身を捻りその音源の方向へと身を捻る。
「……っ」
それを目視した少年は思わず息を呑む。
数メートル先、水面を滑る様に移動していたそれは地球上に生息する水黽に酷似していた。
だが眼前のそれは全てが異質だ。
その体長は信じがたいことに自身の体より大きい。いくら赤子となり縮んでいるとはいえ、その体長は埒外であり非常識だ。
さらに特筆すべき点として通常の水黽とは異なり”尾”が存在する。尾骶の辺りから生える細長い尾は蠍の様に反りあがっており先端は光を反射するほどに鋭利だ。その用途は毒を注入するための物ではなく対象を貫く事に特化しているように思える。
「っ!」
少年は水黽の眼球が何処についているのか把握していない。だが、今確実に目が合った。
水黽はゆっくりと此方を警戒するようにジグザグと水面を移動しながら接近している。
水黽から伸びる六本の細長い足と水面とが設置する付近がゆらゆらと張った油が流れ動いた時の様に光を蠱惑的に揺らす。
少年は奴が捕食者であり、自身が奴の餌食になる対象であることを正しく認識している。
しかし、少年にはいくら思慮を巡らせた所でどうすることもできない。自身の体は生まれた直後の赤子も同然であり、逃げることも抗うこともままならない。
「ぅあ゛ー」
湿地帯に赤子の発する耳障りな泣き声が響く。それは傍から見れば最もらしい行為であった。
少年の意識は転生前の壮絶な記憶から現在までにまだ数分と経っていない。元の世界でさえまだ幼かった少年の精神は負荷に耐え兼ね決壊してしまう。
それは本能的かつ本来であれば無意味な行為だった。しかし、こと今回に限ってはその行為によって少年は救われることとなる。
――突然の泣き声に今にも飛びつきそうだった水黽は警戒の色を帯びる。
水黽が一瞬の怯みを見せたその時、涙に濡れぼやける少年の視界を黒い物体が高速で横切った。その風圧は水面を静かに揺らす。
バキバキガリゴリギュルギュル ゴキッ ジュルジュr……
それは丸太をミキサーにかける様な鋼をねじ切る様な租借し啜る様な……そんな音だ。
いつの間にか泣き止んでいた少年、その赤く充血した相貌が捉えていたのは遥かな巨体だ。
それは巨大で鈍重で威圧的だ。これに比べれば水黽など極小に等しい。
どれぐらいの時間そうしていたのか少年はわからない。その視界を埋め尽くす黒い巨体をただ呆然と眺める。
もはや恐怖すら湧かない。
突如、その巨体は皮膚から大量の水を落としながらその頭を上げゆっくりと少年の真上まで近づく。
大量の液体を滴らせながら水面から現れたその首筋は大量の数えるのも億劫になるほどの白い毛で……
――否、それはおびただしい数の歯だ。
そのあまりの大きさから少年は勘違いをしていた、巨体は顔を上げたのではなく口を開いたのである。
少年は既の所で気づいた、だが全てが遅い。
何かを思考するよりも早く視界は暗転する。