1 始まりのファンタジー
残業を終え、終電に飛び乗り、最寄り駅に着くのは深夜0時を過ぎている。
これがここ数年のルーティン。
重い体を引きずるようにいつもの帰り道を辿り、住み慣れた賃貸ワンルームの鍵を開け、中に入ると真っ暗な玄関で後ろ手に鍵を閉める。
カバンを落とすように置き、疲れに俯いた体で幾度か壁を探って、明かりを点けようとスイッチに手を伸ばした指先に触れたそれは、カチッと言う小気味よい音はするけれど辺りは暗いままだった。
電球切れた?
そう面倒ながらに視線を上げると、そこには森に切り取られた深い夜空があった。
部屋の中が森になった訳ではきっとない。
何かしらの要因で天井が抜け去って、木がモリモリ生えてきて、と言う訳でもやはりなく。頬を撫でる冷やりとした風、足元には乾いた土の感触。明かりを点けようと触って居た筈のスイッチどころか壁までない。
何が起こった。
とりあえず何か言葉にしてこの状態を受け止めなければと、呆けて半開きになった口から声を出した。
「…い……異世界…キター……?」
色んな感情が一周廻って抑揚のなくなった声が口からこぼれる。
見上げた夜空には、地球にはないであろう白と緑の月が2つ、並ぶように浮かんでいた。
綾取友里恵、独身女、満50歳。
しがない事務社員のデスクワーク人間。
白髪隠しに黒染しただけのパサパサした髪。化粧をしても隠しきれない疲れ切った肌と目。高くも低くもない背は長年の座り作業で猫背になり、髪の長さで辛うじて女と言うカテゴリに入っている枯女。
そんな私に必要なのは、老後の資金を着実に貯蓄し、毎日真面目に仕事して、趣味の料理や掃除、小物作りで満足感を得ながら、映画に漫画、小説やラノベなんかで非現実を楽しませて貰う平和な日常だ。
それだけなのだ。
ガチで望んだ訳ではない。
ただの50のおばさんに、異世界は厳しい物があるんです。
こう言うのは10代~20代、ギリギリ30代って年齢の中じゃないと厳しいと思うの。
もしくはもっと年老いて、寿命を迎えて転生でしょうよ。
中途半端な中老のおばさんが、勢い任せに異世界に行ったら駄目だと思うの。
もう体が動かんのよ。
スキルがあるとしたら、きっと【おばさんの絶望】があると思う。
地球の森に放り出されても死ぬ気がするのに、異世界の森の中って、死ぬ気しかしない。
「なので!地球に帰して下さい神様!」
と、声に出して居るか居ないか分からない神様に、心の中で陳情を並べて懇願してみたけれど、風に揺らぐ木々がうねる音で私の声を流し去り、返事は全く返って来なかった。
「夢って事には、ならないだろうか…」
そう呟きながらも、靴底に感じるジャリっとした確かな土の感触に森の濃い緑の匂い。現実だと実感する度にクラッときそうな眩暈を感じて思わず顔が歪む。
肌に感じる夜の森に冷やされた慣れない空気に、棒立ちのまま深い溜息が落ち、とりあえず頬を抓ってみたら、弾力のない肌が痛かった。
間違いなく現実。
立っている場所は少し森の開けた広場のような所。2つの月明りで自分の周りは意外とよく見える。
だがその先は真っ暗で深い森。静か過ぎるのが逆に怖い。
ただ立って眺めているだけだが、悟ったような笑みが浮かぶ。
仏スマイル。
悟り。
死しても、致し方あるまい。
もしここで死んでも、前の世界に思い残すような事は特にない。
私は遅くに生まれた子供だったので、高齢だった両親をお見送りして、子としてのお役目は果たした筈だと思う。
友達も皆結婚して伴侶に恵まれていたし、仕事の立ち位置も代わりが居ない訳でもない。私が居なくなっても、物凄い迷惑を掛ける人は居ないだろう。
ああ、でも気になるのは両親が入っているお墓…。遠縁ではあるものの親世代は鬼籍、残る子供は全員女系で、結婚して籍が変わっているから墓を継ぐのは私。
どの道私の代で永代供養になるんだから、何となく寂しいなんて理由で渋ってないで、早々に墓じまいをするべきだった…。
そこだけは悔やまれる…。
そしてそれを言うなら地味に気になるのは冷蔵庫の中身。
作り置きとか詰め込みたい派だから、電気が止まったらえらい事になってしまうんだろうなぁ…。
いや、公共料金も家賃も貯金から引き落としなんだから、当分はいけるだろうけど3ヶ月が期限…。
3ヶ月後は賃貸の更新、更新手続きしないと解約になるだろうしその前に会社は解雇だろう。
きっとこれ、時間が経過してから帰っても地獄だなぁ…。
あー…解雇、解約、消費期限…冷凍焼け……いや、そこを異世界に放り出されてるこの状況で気にしてどうする落ち着け私。
「……現実逃避は止めにしよう」
そう一つ溜息を吐いて顔を上げる。
うん、しっかり詰んでいる。失う物は何もない。
これはもう、野となれ山となれ、だ。
「はぁ…大事に残してないで、ハー○ンダッツ食べとけば良かった…」
おまけのような溜息を吐いてから、帰り方は分からない、来てしまった物は仕方ないと腹を括るとそれなりに図太くなるもので、諦める前にもう少し足掻いてみようと思い至る。
ここは異世界。
どうせ死ぬなら、もっと異世界っぽい何かに触れてから死にたい。
いや、できれば死にたくはないけれど……。
現在の装備はパンツスーツに低いヒールのパンプス。カバンは玄関入ってすぐに置いてしまったのでここにはない。
正に着の身着のまま。服と靴以外は何もない。そんな状態を確認すると、また仏スマイルが出そうになるのはグッと堪える。
いや、動きやすいパンツスーツで良かった。靴脱ぐ前で良かった。靴は本当に良かった。
裸足だったらちょっと泣いてた。
とりあえず、止まっていても始まらないのだから移動しよう。この場所って、獲物はここです襲って下さいって感じがするので落ち着かない。
夜の森を移動するのはどうかと思うが、せめて木かなんかでも背後を守られたい。
そう思い、良い場所はないかと辺りを見回すと、暗い木々の隙間に光が見えた。
何となく、その光に足を向ける。
やはり光を目指すのは人の習性だろうか。
チラチラと木々の隙間で光るそれを目指し、茂った草葉を掻き分けながらひた歩く。
残業明けのフラフラの体。日頃から運動もろくにしてないし、歳も歳なので最近は浅かった呼吸。こんな森の中を歩くだけでも息が上がりそうなものなのに、しっかりと呼吸が深いのは、やはり森林浴とかマイナスイオン的なもののおかげだろうか。
はたまた諦めの境地に達したアドレナリンの問題か……。
そんな事を考えながら、足場の悪い森の中を光を目指してただ進む。
掻き分ける草の種類は分からないけれど、ちゃんと緑色をしているし、木の幹もちゃんと木って感じだ。
急に動いたり、木の幹に顔が出て来たりはしない。
うん。出て来たら走ろう。
しかし異世界かぁ…ここはどんな世界なんだろう。
異世界ものの定番だと、朝日が昇ってから近所の人に遭遇するとか、獣とか魔物とかが出て来て何か凄いパワーに気付くとか、そんなのを誰かが仕留めてくれるとか、バージョン的には色々あるだろうけど、口の中から口が出てくるクリーチャーとか、等身大のGが出て来るのだけは勘弁して欲しい。
もうそこは、出て来たら全力で自害だな。
なんて考えてはいるけれど、ここは現実。そんな物語のように都合よくはいかないし、こちらの世界の人に遭遇なんて出来るものなんだろうか…。
そしてその人が良い人だとも限らない訳で…と言う前に、むしろ、ちゃんと人は居るんだろうか……。
さっきから生き物の気配が全くない。
獣どころか虫も居ない。もしかして、人も居ない…とか?
え、一人で生きて行ける?サバイバル?50女にハードル高すぎない?
ああ、もう。死ぬ率が高すぎて辛い…。
どうせならさっさと…。いや、違う違う。どうせなら死ぬ前に異世界堪能しようって決めたじゃないか。
何だか思考が落ち着かない。
やはりそれなりに混乱してるんだろうな……異世界だもんな。 笑っちゃうなー。
真顔だし、笑ってはいないけれど。
冷静に、とは思っているけれど、その考えが冷静かどうかはまた別の話。
光はどんどん強くなるのに、進むにつれて不安が増すし、ここまで気持ちがグラグラするのはいつ振りだろう…。
更年期症状で自律神経が乱れても鬱は回避したのに、図太い私の精神でもさすがに異世界はキャパオーバーか……。
いっそ死ぬ前の贅沢ではないけれど、楽しむくらいの気概じゃないと気持ちが保たない気がする程には何だか精神がグラグラする。
そんなネガティブを振り払うように首を振って、腹を括り直して歩いていると、程なくして光源にたどり着く。
掻き分けた草葉の奥に現れた光源は大きな泉。
囲む木々の縮尺から、泉はとても大きいのだと分かるが問題はそこではない。
泉が光っているのだ。
月明りを反射しているだではなく、夜の中で泉の水自体が仄かに発光している。
青白く、たまに金色に見える輝きを放ちながら、光る泉は周りの木々を青白く照らして静かに水面を湛えている。
そしてそんな泉の中央では、水面から盛り上がるように高く湧き立つ水が白く輝きながら流れているのだけれど、その水は水量に反して音もなく水面に光を広げ、そこからフワフワと半透明な丸い光が昇っては消えていく。
「うわぁ…ファンタジー……」
地面に座り、抱えた膝に凭れながら光る泉を眺める。
目の前の光景はファンタジーだが現実。ぼんやりしていて余り実感はないけれど、五感が現実だと教えて来る。
夜の中で仄かに光を揺らしている泉はとても幻想的で、イルミネーションなんか目じゃないな。とか、あのフワフワした丸いのは何だろうとか考えるけれど、思考の根底にあるのは今後の事。
「これから…どうしよう……」
日の出を待って人の居そうな場所を目指すとか?
それはここからどれくらいの距離があるんだろうか……。
どこを目指して進めばいいんだろうか。
食料は?水は?どうやって持って行く?
居るのは本当に人なのか?
そう考え出したらどんどん憂鬱になってくる。
「厳しいなぁ…………」
きっとこの体は保たないだろう。当てもなく彷徨うには余りにも体力がない。
食料調達も異世界で食べられる野草が分からない。獣を狩るには私は弱すぎる。
座り仕事しかしてこなかったし、動くと言っても通勤の行き帰りだとか、満員電車で隣の人に寄りかからずに頑張って立つとかだ。
役立ちそうな物は、せいぜい料理。後は趣味の掃除や小物作りに手先を遊ばせていただけで、サバイバルには程遠い。
「罠なら、作れるだろうか……」
草結ぶ?
何に向けた罠で何が引っかかるんだ……。
そう自分につっこんで、ああ無理だなぁ…と溢れる溜息を吐きながら、水際に生えている草を視線でなぞると、泉の縁から水底に向かって生えようとしている草は、水が当たる辺りで不自然に途切れている。
そんな様子を不思議に思い、這うように泉に近寄ってみると泉の底は思ったより深いらしい。
底を覗いてみると透明度の高い水は底まで届いた光を緩やかに揺らしているけれど、底にある岩のは想像よりも遠くにある。
けれど、水自体が光っている割には底まで見えるんだな…。
「しかしこれ、せっかく水源を発見したけど、飲めるんだろうか…」
難しい顔で水底を覗き、飲めないとマジでやばいな、と呟きながら近くに生えている草を千切って水に浸してみる。
「特に、変わらない?」
水に流されてゆるゆると沈んで行った草は、水底の光に埋もれて見えなくなる。
見えなくはなったけれど、酸で出来た泉、と言う訳ではなさそうなので胸の底から安堵の息が漏れた。
さすがにそこまでのハードモードではなかったようだ。
水辺の草が不自然に途切れているのはそういう仕様の草なのだろうか。
水が苦手な葉っぱとか?
何せここは異世界なのだし。
しかし水は怖い。中るとヤバイ。
でもこれが飲めないと死亡率は格段に上がるだろう。
できたら飲みたい、どうにかして飲みたい。
飲み水でありますように!有害なものではありませんように!綺麗な水でありますように!体に良い水でありますように!
と、ともかく良さげであれと心の底から願いながら、恐る恐る両手で水を掬ってみると、手の中でゆるりと光った水の匂いは、嗅いでみると微かに蜜のような甘い匂いがした。
お…美味しそう…。
そう抱いた感想のまま少し口をつけると、何とも言えない味わいと共に一瞬で体中に美味しさが染み渡り、まるで体が創り変えられていくような清涼感に包まれ、少しのつもりが勢いよくそのまま全てを飲み干してしまった。
「……ッはぁ…ヤバイ。 すんごい美味しい…。さすがファンタジー界の水と言うべきか」
その美味しさ故か、水が飲めた安堵の為か、長年酷使した体が嘘のように軽い。
目を見開いて、まじまじと水があった手を凝視しているが、何だかとてもクリアに見える。
なんだろう、やけによく見えるな……。
疲れ目がデフォルトになって、曇っていたいた筈の視界がやけにクリアで、眉を寄せなくても全然見えてしまうので逆に眉が寄ってしまう。
しかしながら、そんな水を掬っていた手さえも若々しく見える……。
いや、若々しく、白く透き通ったお肌に見える?
「…ん………んん!?」
そう慌てて泉の水面を覗くと、そこには18・9歳の、知らない女が映っていた。




