5/11(MON)
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5/11(MON) 13:55
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月曜五限、世界史。
午後一番の授業はいつだって気怠いけれど、その日の教室は特別緩い空気に包まれていた。
「なあ、帰りにラーメン食ってかね?」
「佳奈ってば先輩ともう別れたらしいよ」
「おっしゃ、レアドロきた」
黒板を叩くチョークの音に隠れるように、あちこちで私語が囁かれる。
内容はどれもろくでもない。
遊びの相談や噂話はまだいい方で、スマホゲームに熱中してる奴や寝てる奴さえいる。堂々と騒いでないだけマシだけど、明らかに注意散漫だ。
今年で四年目になる若い女性教師は授業に一生懸命で、生徒の様子まで気が回っていない。
真面目で大人しい彼女の注意じゃ、どこまで通じるかもわからないけど。
「札木先生の授業ってつまんないよねー」
「教科書読んでるだけだしね」
「ノートだけ写せばテストも楽勝だし」
うるさい黙れ。
喉元まで出かけた台詞を俺はギリギリで飲み込んだ。
みんなの言い分もわかるのだ。授業が単調なのは確かだし、必死にならなくてもついていける程度の難易度でしかない。GWが明けてまだ一週間、五月病が抜けきらないのもあるだろう。
でも、先生が丁寧で真っすぐに教えてくれてるのがわからないのか。
なんて、言ってもきっと意味はない。
俺はため息をつくと顔を上げ、板書を写す作業を再開する。
板書を終えた札木先生と目が合ったが、お互い何も言わなかった。
札木萌花先生。
二十五歳。担当は世界史。
洒落っ気のない黒フレームの眼鏡に、後ろで縛っただけでロングヘア。肌の隠れる地味な服を三、四パターンくらいでローテーションしている大人しい女性。
校内では悪い意味で有名人。
歴史好きなのかと思えば授業は教科書の音読と板書がメインで、面白い小話なんて挟まない。場を和ませようとした生徒がプライベートな質問を飛ばせば恥ずかしそうに顔を伏せ、ぼそぼそと答えをはぐらかす。
二年生になった今となっては男子も女子も「駄目だこれ」という目で見ている。嫌われてはいないけど、居ても居なくてもいい「どうでもいい先生」として扱われている。
そんな札木先生は、他の先生方から押し付けられた結果、部員一名という廃部寸前の部活を去年から担当している。
わかりやすい貧乏くじ。
授業の準備だってあるのにそんな役割、さぞかし大変だろうと思いきや――。
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5/11(MON) 17:40
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「あ、7が出たっ。じゃあ、盗賊をこっちに動かして……うんっ。これで羽丘くんの街を止められるっ」
放課後、月・水・金の週三回。
文化部棟の隅にある小さな部室で『テーブルゲーム研究会』という地味でオタクっぽい部活を、これ以上ないほど楽しんでいたりする。
向かい合うようにくっつけた机の上にはプレイ中のボードゲーム。そして俺達の手には、プレイ用の小さなカードが数枚ずつ。
「じゃあ、一枚もらうね? どれがいいかな……これっ!」
「うあ、貴重な麦が……!?」
「ふふふ、これで勝負がわからなくなったんじゃない……?」
札木先生の顔は実に楽しそうだ。
決して大声を出したりはしてないけど、声はどこか弾んでいるし、授業中なら絶対出ないような軽口まで飛び出している。
まるで別人。
でも、俺は知っている。素の彼女がこういう人だってことを。授業の時は大人しい性格が悪い方向に働いているだけなんだって
この『テーブルゲーム研究会』に入部して一年、先生と一緒に細々と活動してきた俺だけはちゃんと知っている。
こんな状況を歯がゆく思うこともある。
せめて他に二人くらい部員がいればと思いつつ、今年の勧誘では一人も入部させることができなかった。
でも、先生はこの部で遊ぶのを楽しみにしているらしい。
こっちまで幸せになれそうな笑顔をぼんやり見つめていると、本人に気づかれた。
「羽丘くん?」
「あ、その。先生って可愛いですよね」
「……えっ?」
照れ隠しの台詞は意外に効いた。
先生の手からカードが落ち、机の上に散らばる。麦が二枚に粘土が……って、カウントしている場合じゃない。
変な意味に取られたらしい。
先生に嫌われるのは非常に困る。二人きりの部活にはクリティカルだ。だからぱたぱた手を振って、エロい意味じゃないことをアピールする。
「いや、変な意味じゃなくて。授業でももっと明るくすればいいのに、って」
すると、上目づかいで見つめられた。
「本当?」
「もちろん、本当です」
可愛い仕草に気恥ずかしさを感じつつも、目を見て答える。
目を逸らしたりしたら余計に疑われる。
見つめ合ったまま沈黙が下り、やがて先生はため息をついた。
「……明るくなんて無理だよ」
容疑は晴れた。
代わりに先生の表情は曇ってしまった。俯き、机に視線を落としたまま黙ってしまう。まるで迷子の子供のようだ。
「教壇に立つと緊張しちゃって、何を言えばいいのかわからなくなるの。教科書通りに進めてれば絶対間違いないし……」
「俺とは普通に話せるじゃないですか」
「ここだと二人だけだもん」
先生は大人しくて引っ込み思案で、責任感が強い。
授業が上手くいっていないこと、部員が一人しかいないことをいつも気に病んでいる。
外野はわかってない。
「それに、羽丘くんは優しいから」
優しくなんてない。
優しいならもっと気の利いた言葉をかけられる。これじゃ単に親しい人を放っておけず空回ってるだけだ。
でも、何もしないのも嫌だ。
似たような会話は今までにもあった。その度に上手くいかなかった。
真面目に話しても先生は気に病んでしまう。
なら、
「……俺が優しい? 何の話です?」
「え?」
俺は唇を歪めて低い声を出した。
先生が顔を上げる。潤んだ目は真っすぐに俺を見ていた。恐怖なんて微塵もない子犬のような眼差し。
罪悪感が刺激されるけど、止めない。
マンガに出てくる下種な悪党のような悪い笑みを浮かべて、手をこれ見よがしにわしわし動かす。
「あんたを甘やかしてるのが優しさだって? 馬鹿じゃねーの。信用させてエロいことをするために決まってるじゃん」
ほらほら、手の動きがなんなのかわかってきたでしょう?
「は、羽丘くん?」
「ぐへへ。先生って意外とエロい身体してるよな。ほーら、今こそ払ってもらおうじゃないか。今まで優しくしてきた分、その身体でさあ」
「きゅ、急にどうしたの? 冗談だよね?」
「冗談? はははっ。良い子ぶるなよ。わかってんだろ? 俺が何を言いたいのかくらいさあ」
がたんっ、と、わざと音を立てて席を立つ。
先生の身体がびくっと震えた。大きな音が怖かったのだろう。そうそう、少しくらい怖がってくれないとやりがいがない。
厳しい現実ってやつを先生に教えてやろう。
人間っていうのは誰もが悪意を持って生きていて、優しかった人にも裏があったりするものなのだ。
だから。
ゆっくり、ゆっくり、ゾンビみたいな動きで先生に詰め寄る。
事態を理解していないのか、先生は椅子に座ったまま動かない。あまりにも無防備な姿で俺をじーっと見つめて、
「あ。そういう設定なんだっ?」
「設定とか言わない」
一瞬で空気が吹き飛んだ。
拍子抜けして転びそうになる。いや、そりゃもちろん設定だけど! あと十秒黙られてたら先生のところまで到達できてしまって逆に困ったけど!
くそ、純真な目できょとんとしやがって。
こうなったら本当に押し倒してやろうか。いや止めよう。本気で泣かれたりしたら後で絶対後悔する。
空しくなった俺は手を下ろして席に戻り、咳ばらいをひとつ。
「簡単に人を信じるのも危ないって話です。俺だって男なんですから、エロいことの一つや二つ考えるんですよ? だから――」
他の奴らと大して変わらない。
そんなことが言いたかったんだけど、
「……うん。羽丘くんになら、いいよ」
「は?」
今何て言いました?
「う、ううん。なんでも」
にっこり笑って首を振られる。
いや、難聴じゃないのでばっちり聞こえちゃったんですが……。
なんだ今の。
じっと見つめて動揺を探る。顔がちょっと赤いけど先生はいつも通り。なるほど嘘か。俺が変なこと言ったお返しだろう。
他の生徒と世間話もできない人が急に告白とかしてくるわけがない。
先生もそういう冗談、言うんだな。
出会ったのは去年の四月。最初の方は二人きりで部活するのにいっぱいいっぱいだったし、最近になってようやく余裕がでてきたのかも。
「じゃ、ゲームの続き、しましょうか?」
「うんっ。……あれ、どっちの番だったっけ?」
「えーっと……。忘れたので最初からやりましょう」
「そうだね。あっ、私の盗賊……」
「いや、先生のじゃないですから」
だとしたら、この部活がもっと先生の憩いになればいい。
札木先生は大事な人だ。
一緒にいて楽しい人。
歳の離れた姉みたいな感じだろうか。
狭い部屋に男女でいるわけだから誤解されそうだし、さっき自分で変なこと言ったけど、こんないい人に邪な感情なんて持てるわけがない。
それに、俺には他に好きな人がいる。
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5/11(MON) 18:17
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帰宅すると、さっさと部屋着に着替えてスマホを手に取る。
ゲームのスタミナ消費は後に置いておいて、某有名なつぶやきアプリのアイコンをタップ。
「お、増えてる」
目当ての人のつぶやきが、タイムラインの一番上に表示されていた。
『May@レイヤー:
次のイベントどうしようか悩み中。ジャンヌコス、一回やってみたいんだけど今更になっちゃうかなあ』
自然と口もとがにやけていく。
ジャンヌかあ。好きだって言ってたもんな。Mayさんのジャンヌコスは確かに見たい。似合いそうなのはオルタの方か? いや、むしろあのゲームからチョイスするなら刑部姫とか紫式部とか絶対似合うよな。
そのまま彼女のページに飛んで、更にチェック。
女性らしく華やかな、でもどこか品のある背景と、メイドコスで微笑むMayさんの写真。もう何回見たかわからない。百回以上見てるのは確実。
……キモイ? うん、わかってはいるんだ。
Mayさんは見ての通りコスプレイヤーだ。
去年、大学か短大を卒業したらしいので、歳は二十一とか二十三とか。
清楚な雰囲気の漂うロングヘアがトレードマークで、大人だけど「美人」じゃなくて「美少女」って呼びたくなるような雰囲気がある。いわゆる守ってあげたい系で、胸が大きい。
あと胸が大きい。
オタクで、マンガやゲーム、アニメが大好き。コスの自作をしてイベントに参加したり、自撮りをネットに上げたりしている。
人気はそこそこ。企業に雇われたりテレビに出るような人よりは落ちる。女性レイヤーに詳しい人なら当然知ってるし話題にも出すけど、にわかなら「写真を見たことあるかも」くらい。
高校入学の直後くらいに俺は彼女を知って一目惚れした。
そう。
俺の好きな人っていうのは、このMayさんだ。
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5/11(MON) 18:21
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残念ながら、Mayさん単独のつぶやきは一つだけだった。
タイムラインには他の人のつぶやきへの返信も乗っていたので、一番古い未読から順に追っていく。
ちなみに、読み終わった後は既読を遡って余韻を楽しむことが多い。
「ジャンヌは割と好評か。お、戦艦擬人化娘のメイドコスか……それはまた王道」
他人のコメントを見るのも面白い。
でも、イラっとすることもある。たまに馴れ馴れしい奴がいるのだ。そういうのは悔い改めるべきだと思う。
レイヤーさんとは礼儀をもって、一定の距離感で接するべきだ。
Mayさんと面識がない。お気に入りに登録してるだけで友人でもなんでもない、単なるファンの一人。どうしても会いたくて一回だけイベントに行ったけど、写真撮影やら何やらで人がたくさんいて、話しかける余裕はなかった。
俺なんかが彼氏になれるとは思ってない。
一流ではなくても、Mayさんのファンは多い。当然、格好いい奴だっているから、付き合えるとしたらそういう奴だろう。
それでもいい。
ファンでいられたらそれでいい、そう思っていた。
でも。
コメントを目で追っていた俺は、一つの書き込みに目を奪われた。
『Mayちゃんは彼氏いないの?』
最大級にイラっとするコメント。
「それはマナー違反だろ」
返信する必要はない。それでも、丁寧に応じるのがMayさんの良いところ。
スクロールすると案の定、返信があった。
『May@レイヤー:
付き合ってる人はいません。でも、実は好きな人がいます……///』
初耳だった。
『どんな奴? 職場の同僚とか?』
『May@レイヤー:
詳しくは言えませんが、職場関係の人です』
これには幾つも反応があった。
内容は男女で大きく違う。男はショックを受けているか「そんな奴やめて俺と付き合おうよ」というのがほとんど。
女の方は興味深々、いわゆる恋バナをしてるようなテンションが多い。
『今度会った時に詳しく聞かせてもらおうかなー?』
『May@レイヤー:
お手柔らかにお願いしますっ』
むしろ、女子の方がグイグイ行ってる。
女同士だからこそ許されるんだろう。
男だと身の危険があるけど、同性ならお互いの恋の話で盛り上がったり、コスプレの話とかもできる。
イベント以外で会うような友達も何人かいるみたいだし。
「……でも、Mayさんに好きな人、か」
スマホをスリープ状態にしてベッドに横になる。
大の字になって天井を見上げると、無味乾燥な壁紙だけが視界に入った。
――好きな人くらい、居てもおかしくないよな。
職場関係の人か。
言い方を変えたってことは同僚じゃないんだろうか。なら上司? 可能性は低いけど部下かもしれないし、後は取引先の人とかの可能性もある。
Mayさんが何してる人なのかは情報がないから、想像の余地は少ない。
だけど、大人の女性だ。
結婚を考えたりするかもしれない。
告白すれば、あれだけ可愛いんだしOKされると思う。そうしたらキスして、お泊まりデートとかして、それから、
「あああああああ……っ!」
死にたい気分になってベッドを転がる。
我ながら、なんでコスプレイヤーなんか好きになったんだろう。好きになる前はそんなこと考えもしなかった。
でも、好きになってしまったものは仕方ない。
Mayさんのことを考えるだけで幸せになる。
他の男に取られる想像をしただけで死にそうになる。
「……わかってるけどさあ」
考えてしまう。
俺だって本当はMayさんと付き合いたい。あの笑顔をひとり占めしたい。
そこまで贅沢言わなくても、せめて友達になって仲良く話したい。
仲良く。
ごろごろしたまま考える。考えて、日が暮れても考え続けて、夜になっても考えていた。
宿題も手につかない。
世界史の宿題が出てる。他の教科なら適当でもいいけど、札木先生を悲しませるのはなんか嫌だ。付き合いたいとかそういうのじゃない。あの人のことは友達とか、家族とか、そういうのに近い意味で好きなんだ。
性別関係なく付き合えるというか、そういうのを意識しなくていいというか――。
性別。
友達。
コスプレ。
「……あ」
気乗りしないまま無理にシャーペンを走らせていると、ふと閃いた。
突拍子もない思いつき。
だからこそ突破口になるかもしれない。
スマホを持ち上げ、Mayさんが過去にした呟きを検索する。
『Mayちゃんはどんな人が好きなの?』
『May@レイヤー:
そうですね。やっぱり、趣味を共有できる人がいいです。一緒にアニメを見たり、マンガを読んだり』
趣味を共有。
Mayさんはオタクで、趣味は色々ある。アニメも、マンガも、スマホゲームも。
でも、一番の趣味は――決まってる、コスプレだ。
「は、ははは……! そうか、それなら!」
俺は立ち上がって神に感謝した。
机の中から、ロクに使ってないコンパクトミラーを取り出して、顔を映してみる。
自画自賛できるような顔じゃないが、そんなに悪くはない。
わかった。
するべきことが見えた。
「女装レイヤーになってMayさんと友達になればいいんだ」
この時の俺はちょっとおかしくなってたんだと思う。
でも、その事に思い至るのは少し、いやかなり後になってからのこと。そしてこの思いつきが、これからの俺の人生を大きく変えることになる。
良くも悪くも。
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X/XX(XXX) XX:XX
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うう。
好きな人、いるって言っちゃった。
でも、これ以上は言えない。
言えるわけない。
私が学校の先生で、好きなのは同僚じゃなくて生徒なんです、なんて。
……羽丘くん。
言えない。
言えないよ。