〜雛菊〜
長いので、お時間のある時にお読みください。
もどかしさが日に日に増してゆくのは、きっと、あの花芽の所為。
何度巡っても、季節は飽きることのない日々を教えてくれる。
それは。
そう、きっと。
あの娘が。
「靖さん‥‥‥?」
ドアを開けたのは歌奈だった。
「おはよう、早いね。」
「早いねって……、靖さんこそ、まだ4時半だよ?なんでこんなに早いの?」
「ちょっとね……。」
「何時まで起きてたの?」
「今の今まで。」
「〜〜…………。」
ああ、そんな顔しないで。綺麗な顔台無しの見事な膨れっ面。
そりゃ、徹夜した僕が悪いんだけどさ。
歌奈がそんな顔すると、また馨さんに色々言われちゃうな。
「……靖さん、一昨日も徹夜してなかった?」
「してました。」
「してましたって……。なんでそう飄々《ひょうひょう》としていられるかなあ。」
体壊すよ?と言う歌奈はいささか不機嫌なご様子。
「歌奈……?怒ってる?」
「……怒ってないもん。」
いやいや、ますます表情が険しくなってるんですが。
「……ごめん。」
「……なんで靖さんが謝るの。」
そう言われましても……。
「いや、徹夜したのは流石に悪いかな、と。」
「……そういうんじゃないもん。」
……なんか、余計機嫌悪くしちゃったみたいだ。
どうしたものかと思っていたら、歌奈はぽそっと呟いた。
「……どうせ、またお父さんが押し付けたんでしょ?」
「は?」
「だから、お父さんが靖さんに自分のお仕事全部押し付けちゃったんでしょ?」
歌奈は不満そうに唇を尖らせた。
どうやら、歌奈は少し勘違いしているみたいだ。
「や、そういう訳じゃなくて、」
もごもごと話す俺に、歌奈は訝しげな顔をする。参ったな、と僕は頭を掻く。
ちゃんと言わないと歌奈の機嫌は直りそうもない。
「今回の仕事はね、俺からやらせてほしいって頼んだんだ。」
びっくり顔の歌奈に、本当だよ、と念を押して言う。
「なんで?」
歌奈が不思議がるのも仕方ない。
馨さんの仕事は、作曲家。そうひと口に言っても、彼の仕事は多方面に拡がっていて、それこそクラシックからJ−POPからと音楽界で知らない人はいないくらい。そんな彼には当然、色々な所から作曲依頼が来る。
当然忙しい訳だけれど、馨さんはほとんど全部を1人でこなす。
『仕事相手には僕の時間なんて関係ないからね。』
そう言った馨さんのようになりたくて、僕は彼のアルバイトになった。
もっぱら、僕の仕事はパソコンでの譜面作成。馨さんの手書き譜面(音楽マニアの間じゃ相当なレア物らしい。)を一音一音間違えないように打ち込む。
他人から見れば相当な物好きと思われるけど、僕自身は結構気に入っているのだ。 確かに仕事はキツいし、馨さんは忙しい人だから、自分から動かないと作曲の勉強も出来ない。
それでも、こんな有名な人と仕事が出来るのは奇跡に近い話で、そんな人から曲を任せて貰えるなんて、正に夢のよう。
幾ら歌奈に怒られても、やらない訳にはいかない。
「靖さん?」
名前を呼ばれて、はっと我に返った。僕と頭ひとつ以上も下から、歌奈の目が僕を覗き込む。
「大丈夫?やっぱり、少し寝た方が良いよ。」
「平気平気。そんなにヤワじゃないさ。」
「へえ……、」
なおも眠ることを拒むと、歌奈が不気味な程にっこりと微笑んだ。……うわ、やな予感。
「そこまで言うのなら、もう前みたいに突然倒れて心配かけるようなことは“絶対”無いよね?」
「あ……、えっとお……その、」
以前にこの家の前で倒れていた前科のある僕。あの時の様になるつもりは無いが、“絶対”と言い切れる自信は持てない。
しどろもどろになって言葉を探す僕に、歌奈はゆっくりと歩み寄ってきた。
そして。
「…………歌奈?」
「…………、」
突然、彼女は僕の手を握った。
くい、と促されるままに歌奈が引っ張る方へと歩き出す。何も言わず、ただ黙々と廊下を進む。そして、辿り着いたのは。
「なんで俺の部屋?」
そこは仕事部屋とは別に与えられた、僕が仮眠する為の個室。
とはいえ、僕は仕事中だと頭が冴えて眠れないので、滅多に使うことは無い。そこに来て漸く歌奈は僕の手を離した。
久しぶりに入った、本当にベッドしかないがらんとした部屋。どうして歌奈が僕を連れてきたのか解らず、入口で突っ立ていると、
「わ、歌奈危ないっ……。」
歌奈は僕の両腕を掴み、シングルサイズのベッドへ押し倒した。
女の子に押し倒されるって……。
「うわっぷ、」
唖然とベッドに転がる僕に、頭から毛布と掛け布団が被せられる。
状況を確認するため身を起こそうとすると、腹の辺りが押さえ付けられてベッドに逆戻り。
「……?」
頭のてっぺんまで掛かった布団を右腕で引っぺがす。すると、そこには僕の腹部をがっちりと押さえた歌奈の姿。
「……何してるの?」
「靖さんが寝るまでこうしてるの。」
はい?
「なんで?」
「なぁんでも。」
そう言って、歌奈は布団に頭をぺたり、とつけてしまった。
なあんでもって……。
絶対離さないって顔されては、僕も諦めるしかないようだ。布団から出るのは一先ず《ひとまず》諦め、枕に頭を投げ出す。
「ねえ、」
「んー?」
「俺って、そんなに脆弱に見える?」
んー、と口元に指を添えて考える仕草。そして歌奈は俺を見て、
「うん。そう見えるかもしれない。」
……泣いて良いですか。
よりによって歌奈に言われるとは。
馨さんに言われたのならまだしも、歌奈では相手が違う。
小さい頃から父子家庭で、仕事で忙しい父親に代わって家事をこなしてきた。その細くか弱い体で、孤独や寂しさを何度も何度も耐えてきた。
俺じゃなくても敵わないだろう。
「ねえ、靖さん、」
「うん?」
柄にもなく呆けていると、腹の辺りから話し掛けられる。
「でもね、」
仰向けの頭を起こして、歌奈が見える位置に移動する。歌奈は僕に被せた布団の上に小さな頭を載せていた。
「靖さんは弱くは無いよ。」
それは本当に不意打ちだった。
「弱くないから、そのまんまでいてほしい。」
強くたっていいことがある訳じゃないし。
小さな、でもはっきりとした物言いに、僕は言葉が出なかった。
彼女のこういう優しさは決して嫌なものじゃない。
無意識に紡ぐ言葉の中に隠れている優しさ。
時たま、それにものすごく救われる。(きっと、母親に似たんだろうな。)
歌奈は自分の母親を知らない。
この子が生まれて半月後の朝、あの人は逝ってしまった。
「……ねえ、歌奈、」
「ん?なあに?」
「歌奈はさ……、」
そこまで言って、思わず口をつぐんだ。
「靖さん?」
「ごめん、何でもない。」
僕は何を言おうとしていたんだろう。
「そう?」
「うん、眠くて頭がぼーっとしてるのかも。」
「そっかぁ、」
それはなにより、と笑った歌奈に微笑みながら、僕は心底後悔していた。
聞いてはいけない。
聞けば、君が困ることを知っている。
それはまだ、蓋をしておかなきゃいけない箱。
“晴歌さんを覚えているかい?”
なんて。
長く執筆が遅れ申し訳ありません。私事の問題に迷い続け、やっと答えが見つかりました。お話はまだ続きますが、お読み頂けたら嬉しいです。まずはここまでお読み頂きありがとうございます。