1章-6 新人挨拶は、必ず召喚獣に向けること
何もない芝生を指差し、見当はずれのことをいうチシュー。その様子を見てアゲハとスコルピはようやく、チシューは目が見えていないというヤンマの言葉を信じる気になった。
自然豊かな虫類課のオフィスに、デスクなどという事務用品は一つとして存在しない。
どう答えたものかと困惑した新人二人をよそに、クインビーがのんびりと口を開く。
「あらチシューちゃん。私たちの目には見えないわよ」
「見えない? ……ああ、なるほど新人か」
「でしょうねぇ〜。あのコのことだから、知らない人を警戒しちゃったんだと思うわ」
先輩二人の会話をいまいち飲み込めなかったアゲハとスコルピは、そろって首を傾げた。困惑顔の新人二人をよそに、チシューは芝生に向かって声を上げた。
「モス。お前の言うことなら、その子も聞くだろ。敵じゃないって伝えてくれ」
するとどこからともなく、囁くような小さな声が聞こえた。風の音に消えてしまいそうなささやかな音。アゲハとスコルピはその音が、どうやら女性の声らしいと気が付いた。
「…………クスクス」
徐々にはっきりと声が聞こえ始めるのと同時に、芝生に変化が起き始めた。
突如一帯の景色が、蜃気楼のように揺れ始めたのだ。ゆらゆらと像が歪み、別の形を結んでいく。
揺らめきが収まると、そこには整然と並べられたいくつものデスクと、そこに座る一人の女性が現れた。突如変わった光景に、アゲハとスコルピは自身の目を疑う。
「あっ、ぇ? 幻惑魔法ですか?」
「でも魔力の気配は感じなかったわよ」
「た、たしかに」
芝生の上にデスクと共に現れた女性は、新人二人を見つめると長い髪を揺らして会釈をした。
黒い髪には大きなオレンジのリボンが留められ、肌は白く唇は小さい。アゲハは実家にあった日本人形を思い出した。
「モスの頭。虫が留まってるの、わかるか?」
チシューは言いながら足をデスクへと進めた。クインビーに続き、新人二人もその後に続く。そしてチシューの言葉に首を縦に振ろうとして、ぎょっとして声を上げた。
「むむむムむ虫!?」
「リボンではないんですか!?」
「うん。虫」
新人たちの驚きの声に、チシューは若干うるさそうに眉をしかめながらうなずいた。クインビーはチシューの言いつけ通り黙ったまま、新人たちをほほ笑ましそうに見守っている。
「あの子はクウチュウロウガ。外敵に対して、姿を隠す習性がある。さっきまでモスの姿が見えなかったのは、あの子の仕業だ」
チシューはデスクに辿り着くと足を止め、再度モスを示した。
「こいつはモス。ムシカゴの事務職だ。書類や事務関係でわからないことがあったら、おれじゃなくてこいつに聞いてくれ」
「……クスクスクス」
チシューの紹介を受けると、モスはくすくすと小さく笑った。モスが笑うたび黒髪に留まった大きな虫と揺れ、嫌でも目に入る。
「大きなチョウチョですね……」
巨大なリボンのような虫を見て、思わずアゲハそうこぼした。
瞬間、その場にいた全員が驚いた顔でアゲハを見つめた。静かにほほ笑んでいたモスまでも、黒い瞳を大きく見開いている。
「え、アッ、私何か失礼なこといいましたか?」
周囲の注目を集めて慌てるアゲハに、チシューはちょっと不思議そうに首を傾げた。
「お前。さっきの話、聞いてたか?」
「え、と。どの話ですか?」
「……クウチュウロウガ」
「聞いてました。外敵から姿を隠すんですよね」
「正解。クウチュウロウガだ」
「はい? だから、その、聞いてました。クウチュウロウガの習性」
アゲハは戸惑っていたそのとき、モスのリボンが動いた。閉じていた四枚の羽を、のそりと艶やかな黒髪に広げる。そこに描かれた模様を見て、アゲハはヒュッと息をした。
開かれたオレンジの翅の上から、無数の目玉がこちらを睨んでいたのだ。
「クウチュウロウガ。その子はチョウじゃない。ガだ」
リボン改めガが翅を動かす。そのたび黒髪の上に火の粉のような鱗粉が落ちていく。
モスは頭を緩く振って鱗粉を払い落とすと、デスクの上にあった紙に何かを書きつけた。そしてくすくすと笑いながら、それをアゲハに見えるように掲げてみせた。
『事務職。ガ担当のモス。餌じゃない。よろしく』
ガに睨まれたアゲハは、首を縦に振ることでしか返事ができなかった。ちなみにその横で、スコルピはガの目玉模様に黄色い悲鳴を上げていた。
「本当はもう一人、職員がいるんだけど……うーん。後でいいか。あいつ、まだ寝てるだろうし」
チシューはそう言って一人でうなずくと、新人たちを振り返った。
「新人、初仕事だ」
「あっ、はい!」
「なんでしょう」
チシューからの指名に、アゲハとスコルピは背筋を伸ばした。虫類課としての初仕事。どんな仕事をするのだろうかと身構えた二人に、チシューが述べた内容は簡潔だった。
「新人挨拶」
そう言いながらチシューはオフィスの中央にある、大木の根元を指差す。
「ムシカゴの職員は、あそこに立ってみんなの前で挨拶をする決まりなんだ」
コミュ症なアゲハにとって、人前に立って自己紹介をするというのはハードルが高い。それでも新人挨拶は昨夜のうちに考えておいたものがある。
すぐさま首を縦に振ったスコルピのあとに、アゲハも一度深呼吸をするとうなずいた。
「挨拶は簡単でいい。名前と一言。重要なのは、餌じゃないことを伝えることだ」
チシューの言葉にうなずきかけた新人二人は、最後の言葉に首を傾げた。餌じゃないことを伝える、とは一体。
疑問をそのままに、アゲハとスコルピは大木の前に並べられる。それを先輩職員たちが遠巻き見守っている。
妙に開いた距離感に、新人二人は嫌な予感しかしない。
「クスクス!」
と笑いながら、なぜかファイティングポーズをしてみせるモス。
「聞いたわよ。新人ちゃんたち、魔法戦技能一級なんでしょう? なら大丈夫よ~。肩の力抜いて、普通に逃げれば死なないわぁ」
と物騒なことを言いながら、完璧な笑顔を浮かべるクインビー。
「餌じゃない、だけ言っていればいい」
と簡潔に言いながら、かかとで地面を叩いたチシュー。
かつかつと地面を数回叩くと同時に、新人二人の背筋に悪寒が走った。
芝の間から。
木のうろから。
枝の上から。
花の影から。
無数の視線が一斉に寄せられるの感じる。温度のない視線は人間のものではない。
その正体は虫たちの、召喚獣たちの視線だ。
新人二人は嫌な汗をかきながらも、初仕事をこなすべく果敢に口を開いた。
「はじめまし……」
アゲハとスコルピな口を開いたのは同時だった。しかし、二人の声が最後まで響くことなかった。
二人分の挨拶をかき消すほどの、音が響いたからだ。
それはオフィスにいた召喚獣たちが、一斉に二人に向かって飛びかかる音だった。