雨想い
ざあざあと雨が降り注いでいた。壮年の男の着た着物も湿気を吸って些か重く感じられる。無論、傘は差していたが、雨の威勢は強い。たちまち足元が濡れてしまった。
それでなくても彼は眼前の地蔵に向けて跪いているのだ。これで袴が濡れない道理はなかった。
地蔵の横には美しい青紫の紫陽花が咲いていた。それは雨に濡れ、一層、艶やかだ。
「このような雨の日に、地蔵参りですか?」
男に話しかけたのは、通りすがりの青年だった。男はゆっくりと振り向き、深い笑みをたたえた。
「息子の祥月命日には、この地蔵に参ると決めているのです」
「息子さんを亡くされましたか。これは、失礼を」
「いえ。もう昔のことです。あの子はまだ五歳だった。湖で、溺れたのです」
「それは、当代様の?」
「はい。水の澄明に惹かれたのでしょう。気づくと、あの子の姿はなく、水に消えていた。ご存じの通り、湖には水の精しか生きられません。当代様は事情を知って、手を尽くして捜してくださいましたが、見つかったのは息子の亡骸でした。ご自身には何の落ち度もないのに、当代様は私なぞに頭を下げて詫びてくださったのです……」
青年はまだ若く、妻帯してもいない。
ましてや、子を亡くした悲哀など、解る筈もない。だが、淡々と語る男の口調には、確かに感じ入るものがあった。
男は地蔵の頭を、子供にするように撫でた。じとりと濡れた石の感触は、男に抱き上げた息子の亡骸を連想させた。
「妻はそれ以来気鬱の病にかかり、結局は離縁しました」
青年には掛ける言葉がない。
ざあざあと雨が降り止まない。
その時、男はすっくと立ち上がった。
手にしていた傘を放り、全身で雨を受ける。
「何をなさっておいでです、濡れますよ」
「いいえ、もう、良いのです」
「何が――――」
「私はずっとしがらみに囚われておりました。貴方が来てくださったお蔭で、やっと逝くことが出来ます」
男の身体が、淡い虹色に包まれる。
それは降りしきる雨の中、神秘的な眺めだった。次第に透き通り、見えなくなる男を、青年は呆然と凝視していた。
やがて、男はすっかり消えてしまった。
男もまた、亡くなった身の上だったとは、青年は全く気付かなかった。
あとには降りしきる透明な雨と、青紫の紫陽花が、ただ黙してそこに在った。