鯉々
あまたいる精の中でも、鯉の精の恋情はとりわけ激しいと言われている。時にそれは、流石は「鯉」よと揶揄される程。燃えるような恋慕に身を焦がす。男女を問わず、確かに鯉の精の恋愛は過激で、尚且つ放胆なものが多かった。
濃に対する深見の態度は、確かに強引だった。
出会って数日で恋文が届き、次の逢瀬で唇を奪われた。その次の逢瀬では唇を割り開かれ舌を入れられる。濃は、深見が恐ろしくもあった。けれど、同じくらいに恋しかった。
ひらりひらりと湖を泳ぐ。人型の濃は紅のぼかしの着物を着て、袖はひらひらと舞っている。
深見が濃を追う。
清澄な青の着物を着て、袖を同じく閃かせて。
貴方が怖い、と濃が吐露すると、俺もだと深見は意外にも答えた。
鯉の精の中でも、とりわけ力の強い深見が、自分などの何が怖いのかと濃は怪訝に思った。
白銀の小さな泡が粒々と湧く。
着物の袖を捕らえられ、身体を引き寄せられる。
気づけばもう、濃は深見の腕の中。
深見の紫紺の双眸が光り輝き濃を映している。力強さとは裏腹の、余りに優しいその輝きに、濃は陥落してしまう。深見に身を任せてくたりとする。深見は濃を抱擁しただけで、他には何もしようとしない。
「お前が好きだ」
そう熱っぽく囁くだけで、口づけの他、迫ることはない。確かに深見は濃を大切にしているのだと、濃にもそれが知れた。何しろ深見は、口づけも抱擁も人目を憚らずにやってのける。それ以上であってさえ、同じことだと思えるのだ。ゆらゆらと水草が揺れる。陽光が湖底にまで射して、湖の世界を祝福するかのようだ。濃は咽喉を震わせて、深見に告げる。
「私も貴方が好き」
改めて口にすると、深見が破顔した。濃を抱く腕に力が籠る。
「濃、濃、濃」
名さえ宝であるかのように、深見は繰り返した。
深見の前に、濃は恋人を亡くしていた。
相手は人間の男だった。
何の因果か鏡なる湖に溺れ、濃に助けられた。男は濃に一目惚れし、濃もまた男を好いた。だが蜜月は長くはなかった。男は病に侵されていた。鏡なる湖の当代の力を以てしても治せぬ病だった。濃は男に、人里に帰って治療を受けるよう何度も懇願したが、男は微笑むばかりで首を縦に振ろうとはしなかった。やがて男は死に、濃はしばらく抜け殻のようになった。深見と出会ったのは、欠かさず続けていた墓参りの途中だった。濃の恋語りは近辺に知れ渡っていたので、深見も濃と、手にある花を見て、すぐに察したようだった。悔みを述べ、そのあと、言ったのだ。いつまでも囚われていては相手も浮かばれまいぞ、と。
深見からの恋文には香が焚き染められ、芳しく濃の心を慰撫した。
なぜ自分が良かったのか。見目か、哀れみか。
ふと口を突いて出た濃の問いかけに、深見は答えた。
惜しいと思った、と。
ただそれだけ。
欲しいと思った、と。
ただそれだけ。
だから今、濃は深見の腕の中にいる。
死んだ人間の男とは、全く異なる気質の深見だが、濃は心底、深見を好いていた。
燃えるような想いが、その胸にはあった。
想いは幾度も蘇るのだ。
生きていさえすれば。
恋に燃える一対が、湖の中、赤く染まっていた。
これで九藤の年内最後の投稿となります。
旧年中はお世話になりました。
明くる年が皆さまにとって良い一年でありますように。
来年もよろしくお願いいたします。