緑逢瀬
初夏の候。若い緑の葉が揺れる。
風に吹かれてそよそよと。
それを見て白狐の精である息吹は恋人を想った。
兄が桜の樹精と共に消えた浄瑠璃の夜から、実に数年が過ぎた。
息吹もまた、桜の樹精と恋に落ち、けれど家からは離れずにそのまま住んでいる。
異類婚はそう珍しくもない。
双方に、同じ想いがあれば周囲は祝福するのが常だ。そろそろ祝言を、という頃合いだ。
桜の樹精である恋人の姉は、息吹の兄と消えた。
消える必要などなかったであろうに、しがらみが煩わしいと思ったのか。
息吹は浄瑠璃の夜と兄が名付けた夜に、月を見ながら盃を傾けていた。
若い緑の葉が、月光を透かして見える。
朝となく夜となく、桜の樹精と恋仲になってから、息吹の目は桜の葉に向いた。
春の花も好きだが、夏の緑が息吹には特に慕わしかった。明るい日に透ける葉脈が、恋人の命の道筋のような気がした。朝、薪割りの最中、はらりと散る葉があると、それを拾い上げ、そっと唇を寄せた。
するとくすくすと笑う声がある。
恋人の羽衣が、包みを手に立っていた。
決まりの悪い思いで、息吹は葉を手放す。緑の葉はひらひら舞って地に落ちた。
「どうしたんだ?」
「お野菜の煮た物を持ってきたの。お酒の肴になりそうな佃煮と一緒に」
息吹は礼を言って包みを受け取ると、家の中にお返しになりそうな物を探した。日頃より潤沢な食糧のない男の一人暮らし、気の利いた土産は見つからない。仕方なく息吹は行李の中から一枚の着物を取り出すと、それを持って家を出た。羽衣は桜の樹を見上げている。
それが一枚の絵のような有様だったので、息吹は束の間、見惚れた。
澄んだ浅葱の空に揺れる若緑は、そのまま羽衣のようだった。
「羽衣。これを」
「これは?」
「母の形見だ。紫紺の色が、羽衣に合うと思って」
羽衣は喜ぶより先に困惑した顔をした。
「お母様の形見なんて、大切な物、頂けないわ」
「いずれは羽衣の物になるんだ」
それは婚姻をほのめかす言葉だ。羽衣は滲むように微笑すると、紫紺の着物を自らにあててみた。
「どうかしら」
「よく似合うよ」
ざあ、と強い風が吹き、羽衣の髪を乱した。
息吹はそれを整えてやりながら、羽衣の甘い匂いに酔った。
甘く痺れる自分の他愛なさに半ば呆れながら、兄もまたこのようだったのかもしれないと思った。桜の樹精は男女を問わず他を魅了する力が強い。それが桜という樹木の特性なのかどうかは解らないが、息吹は自分を置いて桜の樹精と消えた兄を、とうに許す気になっていた。惹かれたのだろう。どうしようもなく。恋ゆえというのであれば、それがどうして責められる?
羽衣が見守る中、息吹は薪割りを続け、終わると二人、縁側で羽衣の淹れた茶を飲んだ。
羽衣は菓子も持参していた。
竹の葉が、白餡をくるりと包む意匠の菓子は、適度に甘く、緑茶とよく合った。息吹は羽衣の抜かりのなさに感心した。羽衣は良い嫁になるだろう。男の勝手な理屈かもしれないが、息吹はそんな羽衣を選び、また、選ばれたことが誇らしかった。
「あんまり見ないで頂戴」
小首を傾げて、羽衣が困ったように言うのも可愛い。
「だって君は毎日来る訳ではないから」
「毎日来て欲しいの?」
「うん」
「困った人」
そう言いながら、少しも困っていない顔で、羽衣はまたくすくすと笑った。息吹も釣られたように笑う。将来を約束した同士の、無邪気な言葉の戯れだ。菓子より甘いそれに、息吹は心地よく身を委ねる。
風に吹かれて葉が躍る。
若緑の舞踊は日に照らされて透かされて。
見る者とてない二人の逢瀬を、優しく後押しするように風は吹き続けた。