姥桜
春は桜の樹精たちが最も心待ちにし、華やぐ季節だ。
薄い紗の、桜色の衣を纏った男女が、桜の綻び始めてより散り終えるまで、賑やかな宴を催す。桜の蕾を見つけると、桜の精たちは気もそぞろに落ち着かなくなる。そして、大切に仕舞ってある衣を陽に当てて、宴に備えるのだ。
桜酒、というものがあり、これは濁酒にほんのり桜色がついたものである。
清らなる桜の大樹から生成したものである為、子供が呑んでも無害である。子供らはこの時期にしか味わえない、大人の飲み物を背伸びした気持ちで舐め、或いはごくごくと呑み、調子に乗り過ぎだと大人に叱られる。
麗らかな日和に、集う人々。
櫻御前は悠然と赤い敷布に座しながら、頬に笑みを宿しそんな様子を見守るのだ。無論、彼女も桜酒を嗜む。
と、言うより、桜酒の生成に欠かせない儀式に、彼女は巫女として参じるのだ。自らの携わった美酒を、味わわない筈がない。もう老いて、幾筋も皺の浮いた手に朱塗りの盃を持ち、櫻御前は唇を湿す。
今年は特に、良い塩梅に酒が出来た。
聴けば鏡なる湖の当代が側室を迎えたそうで、めでたい限りである。
桜酒は当代にも上納されている。
新しい奥方と、美酒を堪能してくれれば何よりだ。
桜を象った手毬が、櫻御前のもとに転がって来る。
おかっぱ頭の桜色の紗を着た少女が、おどおどと櫻御前の前に進み出る。
「お前の手毬なの?」
「はい。母様が、作ってくれました」
「そう。大切におし」
櫻御前は櫻の樹精たちの中でも最高齢で、尊崇されている。時に湖の当代にとて意見出来るほど、その威厳は一族で絶対なのだ。
ゆえに孤独でもあった。
櫻御前が少女に手毬を渡してやると、少女はぱ、と笑んで、勢いよくお辞儀して駆け去って行った。そのあとを追うように桜の花びらがひとひら、ふたひら。
もういくばくもなく散り始めるのだろうか。桜は散り際もまた美しい。人もかくありたいものだと櫻御前は思う。
彼女は老いた。
この世界の、あらゆる事象を見ながら、生き永らえてきた。もうそろそろ、自分も散り際だろうと、そう考えている。けれどその日が来るまでは、一族たちと世界の行く末を見守っていたい。
櫻の盛りはとうに過ぎた。
あとは静かに散るを待つのみ。
青空に誇り高く枝を張り、さんざめく桜の花々に、同胞にするように笑いかける。
桜の樹精は確かに桜の樹の同胞ではあるのだ。共に生き、共に死ぬ。
彼らは自らの分身たる桜の樹を一本、持っている。
生まれ落ちると同時に、桜の若木にその徴が現れるのだ。
そして今、最も樹勢の盛んな櫻御前の木には、実はゆるりとした老いが迫っている。
あと何年、花を咲かせることか。
それまでに一族たちの喜怒哀楽を、しっかりこの目に焼き付けていよう。
去る時には一気呵成に散って見せよう。
壮大なる花吹雪となって。
薄い桜色の紗があちらこちらで翻る。
櫻御前は目を閉じた。
ゆったりと。
櫻御前という威厳ある名前ではなく、一人の名もなき老婦人のように。