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晴れの空

 鏡なる湖の当代の邸と湖には、様々な生き物が住まう。

 邸に居所を貰っている者、湖そのものに住まう者、大別すればこの二種で、(あかり)は前者だった。

 金魚の琉金の精である灯は、酒宴などの際に舞いを舞って皆の目を慰める。

 それでも灯が最もその心を惹きたい相手は唯一人。

 

 いるだけで眩しい光輝放つ湖の当代その人であった。

 碧の双眸、長い銀髪は流れるようで。


 だから当代が奥方と並んで酒宴を眺める様には、一種複雑なものがあった。

 ひらひらと、灯が袖を翻して舞えば、見事見事と喝采が起き、当代の口の端にも滲むような笑みが上る。それを見たいが為に、日々精進して芸を磨いているのだ。

 けれど灯は知っている。

 当代の笑みは、本当の意味で笑みではない。

 奥深く、透視するように窺ってみればがらんどうと知れる。

 美しい妻。

 最高の地位。

 下々の尊崇。


 全て得ている当代なのに、満たされていない虚しさを、その玲瓏たるかんばせに感じるのだ。


 ある日、邸の中庭で、灯は舞いの稽古をしていた。仲間たちがよくやるわね、と言いながら切り上げたあとも、一人熱心に打ち込んでいた。

 湖の底からも蒼穹の見える、晴れた日のことだった。


「精が出るな」


 低くも高くもない、麗しい声に驚けば、湖の当代が感心したように灯を見ていた。

 碧玉の瞳に映る自分の姿を、灯は信じられない思いで見る。

 光弾く銀髪がさらさらと揺れていて、灯はそれらを目の当たりにするだけで、畏まって恐縮してしまうのだった。

 当代が笑う。


「左様に縮こまっては、只でさえ稚き身が、見えなくなってしまうぞ」


 けれど灯は返す言葉がない。当代が話しやすいようにわざと気軽な言葉をかけてくれたのだと解っていても、激しく脈打つ鼓動が静まってくれない。憧れの当代との話を円滑にさせてくれない。

 ふむ、と言って当代は銀髪をさらりと掻き上げ、水を透かして蒼穹を見た。


「湖底から望む空は、とりわけ清く見えるな。そうは思わぬか?」

「……はい」


 問いかけの口調で言われては、応じるしかない。灯は蚊の鳴くような声で返事をした。それにまた当代が苦笑を返す。寂しい笑みだと思った。なぜこの御方は、これほど孤独に苛まれたお顔をしておられるのだろうか、と。


「何かが悲しゅうございますのか」


 気づけば灯は尋ねていた。不敬ともとれる行為に、はっとしたのは一瞬のちのこと。

 当代の碧玉が見開かれる。

 灯をまじまじと見て、それからまた空を仰ぎ、そうして、そう、と呟いた。


「悲しいらしいな。これは他言無用の話だが――――」


 そう言って、当代が声を潜めて手招きしたので、灯はごくり、と唾を呑み、恐る恐る近づいた。


「地上の人界にて、花の生餌となった侍女がいた。その侍女の、死んだ子の生まれ変わりが私だというのだ」

「それは確かな……、確かなことでござりますか」


 当代は厳かに頷く。朱唇が動く。


玉虫(たまむし)に聴いた話ゆえ、間違いあるまい」


 玉虫とは邸でも古参の侍女の名であった。


「母を恋うる年でもあるまいが、時折、胸の内を寒々とした風が吹き抜けるように感じるのは、恐らくそれが原因であろう」


 それ、とは、自分の前世における母が花の生餌となったことか。

 自分を置いて逝ってしまったことか。

 現世での当代の実母は早くに亡くなり、当代は乳母に育てられた。


「……私の為に泣いてくれるか」


 当代に指摘されるまで、灯は自分の頬を伝う涙に気づかなかった。

 どうしてだろう。

 とりわけ、悲痛な話でもないのに、まるで灯までが当代となったように、虚しい心地がしてしまうのだ。寂しい心地がしてしまうのだ。

 悲しくて、遣る瀬無くなる。


「そなたは優しい子だな」


 気づくと灯は当代に抱き締められていた。

 男女の情ゆえと言うより、慈しむような抱擁だ。


「いつも思うていた。妻には悪いが、私の心を理解する者が傍にいれば、少しは生きる、という実感が湧くのではないかと。――――そなたの舞いは確かに、私の心の蒼穹を揺らめかしたのだ」

「当代様」


 当代の纏う衣からは、高雅な匂いがする。

 灯はそれに包まれている現実が信じられなかった。

 地上の季節は春を迎える。

 春を迎えるその時節に、当代は灯を側室として娶った。


 初めはあまりの畏れ多さに断り続けた灯だったが、とどめとばかりに当代が冗談交じりに、そなたも私を独りにするのか? と訊いたので、抵抗出来なかった。

 重臣たちは当代に一つ二つの苦言を呈したが、彼らも当代の悲しみに気づいていたのだろう、声高に反対はしなかった。

 当代の妻はおっとりした気性で、灯に困ったことがあれば何でも言うようにと鷹揚に告げた。

 その優しさが、申し訳なくもあった。

 急な灯の出世を妬む者もあったが、当代が否やは言わせなかった。

 鏡なる湖の当代の権限は、実に絶対なのだった。


 初夜の日。

 花鳥風月が荘厳に描かれた屏風。

 ちらちらと金粉の舞う白い部屋で、灯は念入りに身を清められたあと、待たされた。

 もうこうなれば恐ろしいも何も言っている場合ではない。

 さらりと開いた襖に目を遣れば、灯と同じ白い夜着の当代が立っている。

 きょとん、と目を丸くして、笑う。


「戦に向かう武者のようだぞ」

「申し訳ございませぬ」


 それと近い心情ではいたかもしれない。


「来なさい」


 (しとね)に座った当代の手を取る。温かい。

 この温かさに任せて良いのだと灯は思った。明日もきっと晴れるだろう。自分が当代の心に晴れを、春を呼べるかまでは解らないが、出来ることはやってみよう。

 明るい闇に、衣擦れの音が響く。

 その音は柔らかく心地好く、灯は目を閉じて青空を思った。




挿絵(By みてみん)





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