ささら音色
ざわざわ、さらさら、と竹の葉擦れが鳴る。それは清く爽やかでありながら、重みをも伴う。竹の精であるささらは己の分身とも呼べる竹を見上げ、小さく子守歌を口ずさみながらお腹を緩くさすっていた。命宿るそこは、溢れる慈愛ゆえか温もりを感じる。ささらの髪は若竹色で、風に靡くと竹の葉が風にそよいでいるように見える。瞳も同じ色で、夫からはその色が美しいと愛でられている。
「ここにいたのか」
夫の声に、笑みを刷いた唇で振り向く。広大なささらの家の庭は竹林が広がっている。居所を掴むのにも骨だったであろう、とささらは僅かに申し訳なく思った。
夫・篁は鬼の一族だ。
ゆえにささらとは異類婚となる。
額からは真珠色の突起が一本、飛び出ている。
ささらと篁の婚儀に、往々にして寛容なこの土地の人々も、驚き、最初は難色を示した。
結局、鏡なる湖の当代の鶴の一声で、婚儀は相成った。
篁の名前に竹があるのも、何かの縁だろうと言ったのは誰だったか。
篁は妻の髪の毛をひと房掬うと、その香りを嗅いだ。
「甘いな」
「丁字(熱帯産の常緑樹)の実の汁に花を混ぜて梳いているから」
「道理だ」
篁は髪の毛をささらに返すと、ささらの白くて細い首に柔らかな口づけを落とした。
それから、ささらのそれにも重ねて。
「ささらの髪と目は宝玉のようだ。どこまでも澄んだ緑だな」
「篁の藍色の目と髪も好きよ」
「生まれる子はどんな色を宿すやら」
「爛熟した花色かもしれないわ」
くすくすと笑いながらささらが戯れると、篁も顔を綻ばせる。
「それもまた良し。……当代には子が生まれぬな」
「奥方様とのお仲はよろしいと聞くけれど」
「ああ、こればかりは解らん」
実はささらはこれが初婚ではなかった。
最初の夫はささらの同族、竹の精だった。
竹の精は総じて温厚な気質の者が多いが、ささらの初めの夫は例外だった。
ささらを物のように扱い、殴る蹴るは茶飯事だった。悪いことに暴力の歯止めとなるささらの両親はとうに亡かった。そこに割って入ったのが、当代に命じられて検非違使(警察)の役を負った篁だった。夫は遠隔地に飛ばされた。ささらが身も心もぼろぼろで限界だった頃の話だ。当初は男という男が全て恐ろしく、篁に対しても、少しでも寄ろうものなら物を投げつけたり罵声を浴びせたりした。涙混じりの彼女の所業に、篁は怒るでもなく辛抱強く接した。
本当は検非違使の役目に事後の慰撫などない。
篁は、痩せ細り傷を負いながらも、気高くあろうとするささらにもう惹かれていたのだ。
篁の他に誰が知り得ただろう。手負いの獣、或いは若くして老婆のような有様を晒しているささらが、誇りと美しさの珠玉である、と。その珠玉は無残にもひび割れていたが、そのひび割れもまた、篁の心を奪う一因となった。
ささらは独りで戦っていた。未だ拭えぬ恐怖と。
陰惨な傷と。
時は傷を癒す最良の薬だ。
ささらは少しずつ、少しずつ、人の温もりを受け容れていった。
篁の誠意と優しさを受け容れていった。
篁はその時も言った。
〝宝玉のような髪と目が美しい。貴方は思うように生きると良い〟
ささらがようやく正気を取り戻した頃だ。
ろくに髪や肌の手入れもしていなかった。
美しい、と言われて、若い娘のように華やぐ心をささらは感じた。
ああ、自分はこの人に惹かれているのだなと悟った。篁も同じく、とまで自惚れることは出来ず、同情からここまで親身になってくれているのかもしれないと猜疑心は止まなかった。
それが誤解と解ったのは、ある雨の日。
竹林が歌っていた。
いつものように。いや、雨粒を受けていつも以上に。
濡れそぼってささらを訪ねた篁は、身体を拭こうとするささらの手首を掴み、告げた。
〝貴方が好きだ〟
竹が歌う中。
恋心が歌われた。何のひねりもない直截な。
ささらは泣いた。
何の涙かは解らなかった。
抱き締められ、雨水の沁みた衣服がそれなのに温かった。
ささらの身体には元夫につけられた傷がたくさんある。
消えることのないそれを恥じるささらに、篁は傷の一つ一つを撫で、唇で触れることで杞憂だと示した。
恋心はもう止まらなかった。
そして今、ささらのお腹には篁の子が宿っている。
包丁を持った元夫にも顔色一つ変えず対峙した篁が、ささらのお腹に触れる時は恐る恐るなのが可笑しくて、嬉しい。大切にされているのだと実感する。
竹の葉擦れは止まない。歌い続ける。
いずれ生まれてくる命を言祝ぐように。
ささらと篁の縁を言祝ぐように。