愛しのソフィー、僕の可愛い栗鼠
ソフィア・グレース・アーデルハイドは、取り立てて美人ではない。
決して不器量ではないが、柔らかそうなふわふわした焦げ茶の髪も、同じように焦げ茶のまあるい瞳も、穏やかな気性や人柄の良さが現れて愛敬があるが、客観的に見てありふれた、さほど特徴のない容貌と言える。
客観的事実は確かにそうだ。だけど僕はこの一つ上の婚約者のことが大好きだし、たまらなく可愛いことも知っている。僕だけが知っていれば良いことでもある。
ソフィアは大変きちんと愛情をかけられて育てられた令嬢で、相応しい教養と礼儀正しさとを備えている。けれど、その本来の性分はやや令嬢らしからぬ、良く言っておおらか、悪く言えば大雑把だった。
身内以外の人目がなければ、存外平気でドレスの裾を持ち上げて窓から外へ出たりする。
もちろん僕に対してはそんな不作法を見せるようなことはしないのだけれど、たまたま急に彼女を訪問した時に目撃してしまったのだ。
ひょいと身軽に窓から出てきた彼女の正面にいた僕に気づくとソフィアはぎょっと驚いたが、それは僕も同じことだった。
顔を見合わせて慌てつつも、ソフィアは「ご機嫌よう、フィオン様」と困ったように微笑んだ。
「君がいつも姿を見せるのが早い魔法の秘訣は、効率を理解しているからなんだね」
と面白くなってからかってみれば、彼女も安心してくれたのか、
「ええ、そうなんですの。秘密にしてくださいね」
と笑ってみせた。
そうして親しくなるにつれ、少しずつその茶目っ気を覗かせるようになったことがとても嬉しい。
「まあ私のかわいい小鳥さん、今日も来てくれていたのね」
ソフィアはよく我が家を訪問してくれる。彼女と庭でお茶を楽しんでいると、敢えて報せなかったというのに母が顔を出した。
「公爵夫人様、いらっしゃるとは存じませんでした。ご挨拶せずに大変失礼致しました」
ソフィアがちらりと僕に非難するような視線を向けるが、知らぬ振りで紅茶を飲む。
「いいのよ私の子猫ちゃん。貴女に会えたことが大事なのだもの」
母はいたく彼女のことを気に入っている。その気に入りようは寵愛と呼ぶのが相応しい程である。王族であり、公爵家へ降嫁した母の後ろ楯はそれは強力だ。しかしながらしち面倒な社交界で、よりしち面倒な立ち回りを、彼女に課すことになるのを僕はあまり良く思わない。
母の影響力を目当てに彼女に取り入ろうとする輩が近づいてくるだろうことは自明だ。大変好ましくない。
嫁姑の仲が良好なのは喜ぶべきでも、必要以上に彼女に構わないでほしいのだが。
そんな息子の思いを無視して母はお気に入りの彼女を猫っ可愛がりするのに余念がない。
自分と同じ名を持つ彼女のことをあらゆるものに例えて呼ぶ。小鳥、子猫にはじまり子犬、白薔薇、パンジー、お砂糖、マフィン、陽だまりに朝露、小鹿に天使。
僕自身は彼女をソフィア・グレースと呼んでいる。
「母上、彼女は僕の婚約者ですよ。何度も申し上げていると思いますが、まだ鏡台の引き出しに記憶を仕舞って置き忘れてこられるお歳ではないでしょう?」
「まあ、貴方こそレディに対する振る舞い方がお寝坊みたいよ。急いで起こしていらっしゃいな」
笑顔で剣を交わす僕らに、ソフィアがくすくすと笑いながら割って入る。
「公爵夫人様、わたくしが焼いたクッキーを持って参りましたの。是非召し上がっていただけますか?」
「まあ、私を喜ばせるのが上手ね!私の小鳩ちゃんの手作りなんてとっても素敵。もちろん頂くわ」
心から喜んでみせる母の言葉に、ソフィアは照れたようにはにかむ。
母は実に厄介なライバルだ。
***
その日のパーティーは子守りを命じられた。
幼馴染みのリジーは領地が隣のジェラード候の一人娘で、子供の頃から家族ぐるみの付き合いだ。
一緒に屋敷中を駆け回りいたずらしてまわり、共にげんこつで叱られたリジーは可愛い妹分であり、社交界にデビューしたばかりの彼女を頼まれては断れるはずもない。
リジーのエスコート役を任されたため、ソフィアを誘えなかった僕は気もそぞろだった。彼女も招待されているのだろうか。
「フィオ様、随分とうわの空ね。目の前のレディに失礼でしてよ」
からかいを含ませてリジーが横目で見上げてくる。
「そうだね、今日は君のための騎士だった」
「じゃ、お詫びに飲み物取ってきてくださる?」
「わかったよ、お姫様」
気安い妹と過ごすのは楽だが、やはりソフィアと一緒に来たかったなと思う。
少しばかり離れた間にリジーは招待客の男に捕まっていた。
やれやれまったく。
「僕の連れに何か?」
「フィオ様、遅いですわ」
「これは公爵子息殿…では私はこれで失礼を、エリザベス嬢」
声をかけ、不埒ものを追い払う。見るからにデビュー間もないような令嬢が一人になったところに声をかけてくる男などろくなものではない。
きちんとあしらいなさいと視線で咎めると、リジーはぺろりと舌を出してみせた。
「あまり僕の気を揉ませないでくれるかな、ひよこさん」
「うふふ、貴方にそう呼ばれるの好きよ」
たっぷりのくるくるした金の髪を持つリジーを、僕は昔からひよこと呼んでいて、本人もそれを気に入っていた。
「リジー、まったく君ってひとは」
良いように兄を使わないでほしいね。
ため息を吐いたところで、こちらに視線を送る彼女の姿に気づいた。
「ソフィア・グレース」
呼びかけると彼女はこちらに寄ってきて、挨拶をする。
「こんばんは、フィオン様」
「君も来ていたんだね、会えて嬉しいよ。ソフィア・グレース、こちらはエリザベス・ジェラード嬢」
「こんばんはソフィア様!フィオ様のお母様と同じお名前なのね、グレース様とお呼びした方がいいのかしら?」
「どうぞ、お好きなようにお呼びになってください」
紹介が終わる前に喜んで話しはじめてしまうリジーに、ソフィアは優しく微笑んで答える。
「リジー。紹介が済んでいないよ。こちらはソフィア・グレース・アーデルハイド嬢、僕の婚約者だ」
自身がマナーに対して寛容なソフィアは当然年下の娘の不作法に目くじらを立てるような女性ではないが、一応今日の目つけ役としてリジーをたしなめる。
「あら、フィオ様の大切な方なのはもちろん存じてましてよ。グレース様、お会いできて嬉しいですわ」
ツンと口を尖らせて拗ねるが、すぐにはしゃいで愛想良く笑ってみせる。この憎めなさで要領よく自分の望みを叶えさせるのだから、困った妹だ。
「フィオ兄さまを取ってしまって、グレース様に申し訳なかったわ」
帰りの馬車でリジーがそんなことを言い出した。
「なに言ってるんだ、そんなことで彼女は怒らないよ」
「フィオ兄さまって時々とってもとんまよね。いいえ、あんぽんたんとかすっとこどっこい、かしら」
大袈裟にため息を吐いて頭を振るリジーに、眉をひそめる。
「どこで覚えたんだ、そんな言葉」
「淑女の嗜みのひとつよ。グレース様、寂しそうにしてらしたじゃないの。気づかなかったの?」
「そんな風には…」
見えなかったが。しかし僕だけが会いたいと思っていた婚約者に会えて浮かれていたことは否めないかもしれない。
「お兄さま、ちゃんと大切なレディにはそのように振る舞わなくてはだめよ」
「わかっているよ」
妹に言われるまでもない。
しかし僕は実際のところ、とんまであんぽんたんのすっとこどっこいとしか言い様のない婚約者だったのだ。
***
「ソフィア・グレースが?」
「はい、先程ご到着なされました」
約束していなかったのに、我が家にソフィアが来訪したとの知らせを家令から受けて、僕は目を丸くした。
「今日来るとは聞いていないが、何かあったのか?」
「奥様がお誘いなされたようでございます」
母上め。先日の意趣返しのつもりだろうか。ソフィアは僕の婚約者だと言っているのに、抜け駆けとは。
温室の方にいるだろうと検討をつけて、最短距離を選択することにする。屋敷の中から回るより庭に出てしまう方が早いだろう。手近な窓枠を乗り越える。
「まあ、フィオ兄さまったら!とってもお行儀がよろしいこと!」
偶然にも通りがかったリジーが窓の外におり、驚きながらも可笑しそうな顔で声をあげた。
ジェラード候と父は親しく、何かにつけてよく屋敷に滞在するのだが、リジーもそれにくっついてくる。特に近頃はレッスンから逃げるためだろうが。
「効率を重視しているだけさ。それに子供の頃は君だって一緒に同じ事をしただろ、ひよこさん」
涼しい顔を作って答え、ひらりと外へ出る。
まあ、この歳で同じ事をする気になったのは、麗しの婚約者の影響に違いないけれど。
「貴方のひよこさんはもう貴方の真似はしませんよ」
思わぬ声がかかって振り向けば、コンサバトリーへ向かう途中らしい母と婚約者がそろってそこに立っていた。
どうやら一部始終を聞かれていたらしい。
母の顔には呆れたと書いてあり、ソフィアは口を真一文字に結んでいた。
「もちろんですわ、閣下夫人」
すましてリジーは答えてみせる。
「リジー、どんなに敬愛すべき紳士も、淑女の良いお手本にはならないことを忘れてはだめよ」
僕らにげんこつを振るった張本人たる母上は、リジーが自分の息子のせいでお転婆娘になった為に、淑女の振舞いをことさら厳しく教え込んでいる。
どちらにも申し訳ないねと僕は肩をすくめるだけだ。
「リジー、貴女もいらっしゃいな。お茶会にしましょう」
ソフィア・グレースと腕を組み、母がリジーを誘ったところで僕は慌てて文句を言うことを思い出した。
「母上、僕を通さずに僕の婚約者を呼びたてないでください」
「あら、貴方は忙しいかと思って。今から関係を深めるのも大事なことですもの、もちろん淑女のお茶会に割って入るような不粋なことはなさらないわね?私の紳士さん」
まったくこの母に気に入られてしまったソフィア・グレースは災難と言う他ない。
「フィオン様、公爵夫人様からお話を聞いているかと思い、ご連絡せずお伺いして申し訳ありませんわ」
「貴女がそんな風に謝る必要はないのよ、私のウサギさん!すべて私がしたことなんですからね」
「その通りですとも、母上。ソフィア・グレース、こちらこそすまないね、母と親しくしてくれてありがとう」
「こちらこそ光栄ですわ」
致し方ない、今日は退散するしかないようだ。
「僕は書斎で仕事をしていますから。ご婦人方、どうぞ楽しんで」
しぶしぶと三人のレディを見送る。
ちらりと最後に見えたソフィア・グレースの横顔は、顔色が悪いように見えたが、大丈夫だろうか。
数時間後、やはり彼女は体調が優れないと、僕に退去の挨拶をして邸を辞した。送っていくことも断られ、見舞いの花を届けさせる。母に抗議しようかとも思ったが、母もずいぶん彼女を心配し、消沈しているようだったので止すことにした。
その日から、彼女に会うことができなくなるなんて、僕は思いもしていなかった。
ソフィア・グレースから婚約解消を申し出る書簡が届いたのは、三日後のことだった。
青天の霹靂。
一体なぜ。
疑問符と絶望が頭の中を埋め尽くす。
体調はもう回復したとの報せは聞いていた。彼女からの手紙とは珍しいと心配ながらもやや浮わつきながら受け取り、目を通した僕はすぐさま奈落の底に叩き落とされた。
彼女はただただ、非礼を詫び、僕との婚約を白紙にしてほしいと願い出る旨しか書いていなかった。
全身から力が抜け、椅子に深く沈みこむ。
一体全体、何がどうして彼女にそんなことを思わせたのか。
幸いなことにまだ両家の親達は知らないだろう。だがいずれ知るところとなるのは避けようがない。
彼女に会わなくては。
すぐさま僕は彼女の邸へ馬を走らせた。
しかし、「お会いできない」の一点張りで、何時間粘っても彼女に会うことは叶わなかった。
何日もそれが続いたことと、どうやら彼女が両親に話したらしいことで、ついに両家においてソフィア・グレースが婚約解消を望んでいることが認知されてしまった。
「何分、私も娘が可愛いもので、本人が望まないとあれば、無理を強いたくはありません」
彼女と同じ茶色い髪と瞳のアーデルハイド侯爵は、控えめながら毅然と、かつ率直に言った。
「しかしまあ、人の間に起こることには誤解も常につきものでしょう。時期を見て、それでも意志が変わらぬようならということでどうかお聞き入れ願いたく存じます」
頷いた父に、失望する。もはや最後の望みも打ち砕かれた。ここで否となれば婚約者の立場は守れたのに。執行猶予が与えられただけに過ぎなかった。
それからも、とにもかくにも彼女に毎日花を届け、毎日訪れては会えずに帰るの繰返しだった。
母は大変に嘆き、僕に非難がましい視線を向ける。時には直に言葉にするほどだった。
「どうしてあの子をきちんと捕まえておかないの」
「一体、何をして愛想を尽かされたのかしら」
耳を塞いで逃げる。
リジーですら僕に同情の目を向けた。
「フィオ兄さま、お可哀想に。グレース様にお会いすることもできないなんて」
彼女を失ったことを突きつけられる度、その痛みにのたうち回る僕に、執事や従僕たちが向ける憐れみの視線が止めを刺す。
嗚呼、ソフィア・グレース。僕の心臓、僕の愛しい栗ねずみ。
君はどうして僕の元から去ってしまったんだ。
諦められずに会えずとも通い続けて、季節が変わろうかという頃、ようやく彼女が会うことに応じてくれた。
母からの手紙や、彼女の両親からの口添えがあってのことだった。
通された図書室で、彼女は緊張した面持ちで僕を出迎えた。
少しやつれたようにも見える彼女に、会えた喜びと心配とがせめぎあう。
「……ソフィア・グレース、会えて嬉しいよ」
「ご無礼をして…お許しください、フィオン様」
頭を下げるソフィア・グレースの他人行儀に、胸が傷む。
「いいんだ、君に会えただけで僕は幸福者だとも」
「もったいないお言葉ですわ」
頑ななソフィアの態度に、それ以上僕は耐えられなかった。
「なぜ、婚約解消なんて申し出たんだい」
「それは…、何もかも、私の身勝手です。申し訳ございません」
「ソフィア・グレース、僕は…僕は君を失いたくない」
「お母様がお気に召す婚約者としての私をということなら、ご心配なさらなくとも、私以外の適任がいらっしゃいますわ」
淡々と告げるソフィアは視線を落としたまま僕を見ようとしない。
違う、そうではない。僕が、ソフィア自身を必要だと、どうすれば伝わるんだ。
手を伸ばして彼女の手に触れる。びくりと肩を揺らしたが、振りほどこうとはせずに受け入れてくれたことに勇気づけられる。
「他の誰かじゃない、君自身が…必要なんだ。いや、待ってくれ。なんて言えば伝わるんだ? 」
「フィオン様?」
訝しげにソフィアがちらりと僕に視線を寄越す。
「待って、君に…、君に届く言葉を探してる」
情けないが上手い口説き文句も見つけることができずに、無様に言葉を探す姿を彼女に晒す。
「どう言えばいいのか、君じゃなければだめなんだ、ソフィア、…ソフィア・グレース、ごめん、気の利いた言葉のひとつ出てこないけど、僕には君しかいないんだ」
みっともない懇願だ。祈るように彼女の手を握り、額をつける。
「君を愛してるんだ、ソフィア・グレース」
「バカね!」
ソフィアは潤んだ瞳できっと僕を見ると、僕の胸ぐらをぐいと掴んで引き寄せ、至近距離から見上げた。上気した頬、煌めく瞳、生命力に輝く美しさに、目を奪われる。
「ソフィーと呼んでください」
ソフィア・グレース。ずっとそう呼んでいた。母といるところでソフィアと呼ぶわけにはいかないため、意識してソフィア・グレースと呼ぶよう気をつけてはいた。
しかし、愛称を呼びかけることをしなかったと、はじめて気づいた。
胸の内では散々呼びかけていたけれど、母の真似をするように思われるのが癪で、だけど彼女の愛らしさはずっと栗ねずみと呼ぶのがぴったりだと思っていた。僕の可愛い栗ねずみ。
意固地になってそれを口に出さないようにしていたら、名前の愛称を呼びかけることすらしていなかったのか。
そして彼女は、それが不満だった?いや、それ故に不安にさせたのか?
つまり。
僕の婚約者がこんなに可愛いはずがあった。
呆気にとられ間抜けな顔で彼女をしばらく見つめたあと、ようやく僕は捧げるべき言葉を見つけた。
「愛してる、僕のソフィー。心から、何よりも。愛しい僕の栗ねずみ」
こぼれた彼女の涙の滴と笑顔が、僕が愛の勝者になった証だった。