01 弟子入り
その小屋は大層小さく、みじめな姿だった。
馬小屋だと言われればエンは本当にそうだと信じただろう。
壁は長年の風雨にさらされ黒ずんでいたし、よく見れば木目がささくれている。茅葺きの屋根はとうに苔むし、こんな屋根じゃあ雨漏りがするのではないかと心配になる位には手入れがなされていない。
ふきすさぶ野の中にたたずむそれは、質素、というよりも貧相といった言葉の方が似合う。
玄関の前には小さな花がぽつ、ぽつと咲いている。小屋を彩るのはその僅かな草花だけだった。
多分、わざわざ植えたのではなく、勝手に種が飛んできたのだろう。勝手に結論づけた。
この小屋に住む男が、まさか草花を手ずから植えるなんてかわいらしい真似をする筈がない。
国一番の魔法使い、王属薬師、千年に一度の元神童……、彼の二つ名はごまんとあった。けれど子供でも知っている呼び名はただひとつ。
悪蛇の魔術師。
小屋の主、フェイという男はそう呼ばれている。
*
からんからん、と扉につけられた鈴がかろやかな音を立てる。
「よう、またお忍びか?」
笑って唇に人差し指をあてて見せると、からから笑う親父の声がエンの背中にふりかかる。
薄灰色の布をぐるりと頭から被れば、一国の王子とて市井のものと見分けはつかない。石造りの酒場の奥に腰掛けると、目の前にビールが一杯、どんと置かれる。
「昔から、抜け出しだけは本当に美味いなあ、あんたは」
「他に得意なものもないからさ」
笑って煽ると、不良王子め、と奥の席から野次が飛ぶ。すっかり馴染みの面々だ。
いい気分で酒を煽って、のってきた所で女中を口説く。まんざらでもなさそうだ。いけると思ったら二階に連れ込み、享楽に耽る。毎週のように繰り返してきた夜だ。
小さい国だが天候と地理に恵まれて豊かだ。
城から町を見ればいつも家々の煙突から煙が出ていて、町をあるけばパンを焼くいいにおいがする。ずっと広がる緑は絶えることもない。
当代王は父親だが、国の王子であったってエンには大した問題ではない。
何せ、第三王子だ。それも妾腹の。
国を継ぐのは優秀な兄だろうし、二人目の兄も国の祭事を司ることになっている。そうなれば自分は気ままなものだ。そのうち、どこかの姫を嫁に貰うことがあるかもしれないが、大した仕事は残っていない。
酒を飲んでぶらぶらするくらい、何も咎められない。いてもいなくても、あまり関係ないような人間だ。
物心ついてから十九になる今日まで、それはずっと変わらない事実だった。
大した役割を任せられないからといって、別に拗ねたり不満に思ったりした覚えはない。むしろ、ラッキーだ。兄二人は国の重圧を背負わせられるが、自分はぶらぶらしていていい。はじめに町に抜け出た頃は咎められたが、今となってはまわりもとうに諦めている。ぐっとビールをあおった。
兄さんたちも可哀想に。視察、なんていいながら飾り立てた馬にのって背中のばしてないと、町ひとつうろつけないなんて。
陰口を叩かれようがどうでもいい。早くに死んだ母親はもとより、国王の父親だって誰も始めから期待なんてしていないのだから。
ふんと笑うと、エン様、とやや厚い化粧をした女がしなだれかかってくる。肩を抱き寄せながら、ふっと心の奥底にひんやりとしたものが通りすぎるのを感じる。いてもいなくてもどうでもいい自分はきっと、十年先も、似たような日々を過ごしているに違いないのだろう。考えるだけでもばかばかしい。口付けた女の唇は、ねっとりとした紅の感触がした。
……そう、自分の未来は決まりきっていて、ただそのまま安泰だと、疑うこともなくそう信じていたのだ。
*
「今、何と?」
青ざめたエンは自分の耳を疑った。
父王はゆっくりと言い含めるようにもう一度繰り返す。
「フェイの元にいけといったのだ。お前も彼の高名はわかっているだろう」
王に呼ばれたのは久しぶりだった。
直々に説教でも喰らわせられるのかと思っていけば、とんでもない、どんなに眠かろうと説教の方がずっとマシだった。
この王は、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。あのフェイの元に、行けだって?
ぞっとする。フェイの元へ行けなんて、エンにとってはくらいじめじめした井戸の底にある、毒蛇の巣で暮らせと言われたのと同じことだ。
フェイという男は、国王に仕える薬師たちの中でも群を抜いた実力をもつ魔術師だった。
だが、城内で見かける彼は、王子の目前だろうが頭まですっぽりとフードをかぶり、顔を見せようとはしなかった。
否——一度だけ、その真っ黒なフードの中を覗いたことがある。八年前、まだエンが十のときだった。
当時、弱冠十六歳で登用されたフェイが城にあがる儀式でのこと。
十六での登用は類がなく、城の中はすっかり浮足立っていた。それも、名門と呼ばれる家でもない、外れの農村から出た男だという。誰も顔をろくに見たことがないというのも噂をさらにもり立てた。
そんな事情はさっぱりわからず、当時のエンは長く続く儀式にすっかり退屈しきっていた。
そこにやってきたのが、儀式の真っ最中、王への謁見へと臨むフェイだった。確かに幼い耳でも聴きかじったとおり、黒いフードで顔はまったく見えやしない。
ツノでも生えてたり、鼻にでっかいおできでもできているんじゃないのか。
幼かったエンは、面白半分でぽんと自分の席から飛び降りて、静止もきかず、衆人の前で長い廊下を歩いていくフェイのフードを取っ払った。
瞬間、周りがざわついた。皮膚がごつごつと鱗のような形を描いて隆起し、顔の左半分を覆っていた。見ているだけで肌がざわつくような代物だ。無事な右半分が美しいばかりに、惨めさが際立った。
顔を晒された途端、右半分の白いほおを紅潮させ、唇をわななかせながらフェイは俯いた。
薄灰色の瞳でぎろりと、たちすくんでいたエンを一瞥し、魔術師はすぐにフードをかぶりなおし、逃げるように早足で廊下を歩いて行った。
それから先、彼と接したことはない。それでもかの出来事の先、彼の呼び名は一つ増えた。あの傷跡をみるに、これまでの神童ぶりもきっと悪蛇に魅入られたからに違いない。国に古くから伝わる神話を引っ張り出して、せわしなく噂が飛び交った。
悪蛇の魔術師。
以来、そう呼ばれた彼の周りからは人は引き、近づこうとするものもいなかった。
きっと、フェイは自分を恨んでいるはずだ。衆人の前で傷を露わにさせ、周りの目を変えた自分を、憎んでいるに違いない。
王だってあの出来事はわかっているだろうに、どうして……。
取りすがる前に、下がれ、と命が下る。あの魔術師の元にいくなんて、絶対に、絶対に嫌だ。そう思うのに、どうやったらいかずにすむのか、何一つ思いつかない。気にもかけられていないのと同じように、自分には断る権利も与えられていなかった。
エンがフェイの元へ行くまで、あまり時間はかからなかった。
エンに令を下す前にとうに決まっていたのだろう、身支度は下女によって手早く整えられていて、謁見の間からよろよろと戻ってきた頃には、自分の部屋はがらんどうになっていた。
壁にかけてあった流行り画家に描かせた肖像画も、異国の職人が編んだベッドカバーもなくなっていたし、クローゼットの中に詰め込んだ衣装も空っぽだった。それからどうやって過ごしたのか、覚えていない。せいぜい三日くらいで、エンは城を追い出された。身の回りのものだけを詰めた小さな鞄を一つぶらさげ、愛馬に乗せられて(その馬だって、いつもとは違う随分と粗末な鞍を背負っていた)、国の端、隣国との境にあるフェイの元へと送り出されたのだ。
ここでどうしろとも、何をしろとも聞かされていない。
小屋の前で立ちすくんでいると、きい、とかすかな音をたてて戸がひらいた。わずかな荷物を肩に担いだまま、エンは体を強張らせる。
「いつまでそこに突っ立っているつもりだ。馬をそこにとめて入れ」
苛立ったような声に押されて、おそるおそる足を踏み入れる。途端、風もないのに一人手に扉がしまった。真っ暗な小屋の中で一つ二つ、瞬きをする。
小さく、ぼろぼろに見えた小屋の中は、扉を閉めてみれば思いの他広かった。
天井から形の違う、硝子のランプがいくつもぶらさがり、部屋の中をぼんやりと橙色に照らしている。壁にはびっしりと不思議な文様の描かれた羊皮紙が張り込まれていて、見つめていると「触るな」と何もしていないのに釘を刺された。
フェイは、暖炉の前にある大きな木の椅子に、縮こまるようにして座っていた。部屋の中でも、例のフードをかぶったままで、隙間からじろりとエンを睨み上げた。
どうすればいいのかわからず途方にくれていると、暖炉の前にある、一人がけのソファを顎で示された。渋々、わずかな荷物を持って腰掛けると、古びた綿の匂いがしていっそう惨めな気持ちになった。
妾腹の、第三王子。気ままに暮らしてきて、自由な身だとそっぽを向いていたが、本当はわかっている。この小さな国で、生半可な地位を持った、凡才の自分は王宮にいても役立たずだ。その現実を直視したくなかったから散々城を抜け出しては享楽に耽っていた。
それでも、こんな目にあうなんて思ってもいなかった。膝の上に置いていた分厚い本を閉じると、フェイはすっくと立ち上がった。思わず肩がはねる。
「名前は」
「……エン」
「荷物は、それで全てか」
うなずくと、フェイが鼻でわらった。座るよう促され、エンはきょろきょろと辺りを見渡した。座ろうにも何かの動物の毛皮、乾いた草の根の束に古ぼけた書物がところ狭しと積み上げられていて、場所が見当たらない。
ものの上に置いたらこの気難しそうな魔術師は怒るだろうし、そうなったら何をしでかすかわからなかった。結局、フェイの近くにあった天鵞絨張りの椅子の上にあった鳥の羽を払って、おそるおそる腰を下ろした。
「何をするのか、聞いているか」
ぶるぶる首を横にふる。
「なら、お前は何をしにきた」
「……陛下から、ここにくるようにと言われたから……」
「言われたからここに来たのか? なら俺がお前を薬の材料にしたいから呼んだと言っても、ノコノコ死ににやってくるのか」
「へ、陛下の命令だ。誰だって、王の命令は聞くものだろう」
「王の命令だからといって、聞きたくもないのに聞くなんておかしい話だ。聞きたくもない命令を聞いて、来たくもない場所に来て、お前は何がしたい」
……うわあ、コイツめんどくさい。
エンは内心舌を出した。王の命令だぞ。この国の中で一番偉い人がそうしろと言っているのに、聞かないなんておかしいじゃないか。
言うことをきかなければ、他の人間から後ろ指を指される。放蕩しまくっていた身だってそれくらいはわかる。酒を飲めば酔うように、王の命令だったら聞くというのは当たり前のことだ。
フェイは何も返さないエンをじろりと見て、ため息をついた。
「王からは、お前を弟子として迎えるよう言いつかっている。明日から準備を手伝わせるから、今日は自分の寝床を整えておけ」
「え? 寝床なんて…」
どこにある、という言葉が途中で消えた。壁があったはずの場所に、細かな刺繍が施されたタベストリーがかかっていて、その後ろに小さな空間ができていた。
信じられない気持ちでおそるおそるタペストリーをめくると、小さいベッドと、机のあるこじんまりとした部屋があった。ベッドの上にシーツやカバーなど必要そうなものが揃っている。
……何がなんだかわからないが、とりあえず今日一日は生き延びたらしい。フェイの様子を伺おうと、エンはちらりと振り返った。
心臓をばくばくさせているエンのことなど微塵も興味のないように、相変わらずフードを被ったまま、彼は椅子の上で自分の世界の中に閉じこもっていた。