髪、髪、髪。黒髪の。
その個室に入った途端、危うく水の入ったグラスの載った盆をひっくり返すところだった。この二週間でようやく板に付いてきた営業スマイルが激しく引きつる。
その個室の利用客は、女の子が一人。部屋の案内はしたが手続きは別のバイトがやったので、さらには私服だから年の頃は曖昧だけれど、多分高校生くらいだろう。童顔の大学生、という可能性もあるが。
彼女は一番奥の方に座って、入力端末をいじっていた。この人、一人なのに十人部屋を要求したのである。時間的に他にそんな集団は来ないだろう、金もしっかり取るし、という店長の判断で通したのだが。
そこまでは、まあ、いい。
水を運んできた、その部屋。
照明は落とされて薄暗く、画面では待ち受けのプロモーション映像が消音で流れている。
扉を開けた途端に、ぞっとした。
部屋中に散らばった、ぶちまけられた、髪。
髪、髪、髪。
床にも机にも椅子の上にも、所狭しと散乱している。いや、これはもう、敷き詰められていると言った方がいいかもしれない。
妖しく艶やかに艶めく、黒髪の絨毯。
勿論、部屋に通した時にはこんな惨状にはなっていなかった。
惨状。
惨状だ。
これはもう、何かの事件だとしか思えない。
しかも、しかもだ。
奥に座る彼女の髪は、部屋に通した時と何も変わらない。
彼女の髪ではないのか。
いや、仮に彼女の髪であったとしても、量が尋常ではない。例え彼女の髪であるとしても、毛根から根こそぎ一本残らず引っこ抜いても足りないだろう。貞子にバリカン十ダース、とかそれくらいか。
その、ある種猟奇的に様変わりした部屋の内においてなお、彼女は鼻歌交じりに選曲しているのである。
楽しそうだ。
「───ん。あ、どうも。お水ですか?」
戸のところで呆然と立ちすくんでいると、女の子がこちらに気付いて朗らかに声をかけてきた。人当たりのいい声だ。そしてそのまま何と言うこともなく、実に気安くこちらへ歩み寄ってきた。
「有り難うございますー」
「え、あ、はい、どうぞごゆっくり……」
挙動不審なこちらに対しても穏やかな会釈一つで返し、グラスを盆から受け取ると平然とその黒髪の海を踏みしめて元の位置へ戻っていく。
「───あ、の」
よせばいいのに、自分でも無意識に、彼女に声をかけてしまった。
「はい?」
くるり、と彼女が振り向く。濡れたようなしっとりとした質感の黒髪が、振り返る彼女の足元で音もなく掻き分けられる。
「あ、いえ」
訊くか? これは何だと。この髪の濁流は何なのかと。
訊いて───いいのか?
何だかよくわからない、しかし、自分のどこか奥底で、全力で警笛が鳴り響いている、というような感じがする。
この女に関わってはいけない。
つ、と頬をいやに冷たい汗が流れた。
「何か?」
テーブルにグラスを置いて、平然と彼女は繰り返す。いや、その、と口ごもりながら、床から彼女へ視線を戻して、
彼は見た。
彼女は。
彼女は、笑っていた。
薄く、笑っていた。
弓を描く目尻に、妙に紅い唇の端に、滲むように薄く───軽薄に、笑っていた。
ただ、ただ一点。
その両の目。
その黒瞳だけは。
全く笑ってはいなかった。
笑ってなどなく───何もない。
虚ろというわけでもない。
虚無。
さながら───人ならざる何か。
“それ”は、軽佻浮薄に残酷無惨に無慈悲無感情に、嗤う。
直感した。
関わるな。
「いや、その」
後ずさる。
「何も、」
ぞ、と、足が、髪に沈んだ。
思わず足元に視線を落とす。
ぞわり、
と、蠢いた。
ような気がした。
「───っ」
「どうかしましたか?」
喉が鳴った彼を、追い詰めるように少女は問う。
「な───何でもありませんっ、どうぞごゆっくり!」
半ば悲鳴のような声を上げて、彼は全力で部屋を出た。
背後で戸が閉じる刹那、抑えきれない、といった風の嗤い声が聞こえた気がした。
●
「……何しに行くんだ?」
掃除用のエプロン、バンダナ、モップ、箒、塵取りをフル装備した彼に、同僚が訝しげな表情で声をかけた。
「さっき空いた部屋の掃除だろ? そんなにタチ悪い客だったのか?」
「ん、ああ、まあな」
マスクを巻いて、出陣。
「手伝ってやろうか?」
「……ああ、そうだな。敵は髪の毛だ」
「髪の毛?」
「黒髪」
思い出し、声が震えそうになるのを抑える。
「部屋中に黒髪」
「……はあ」
こいつ何言ってんだろうという表情をする同僚に構わず、彼は部屋に向かう。
部屋の前で立ち止まると、彼は深呼吸した。
あの女の子は既にいない。延長に延長を重ねて四時間ほど熱唱して帰った。だから、部屋の中にはあの髪の奔流しかないはずだ。
「………………ふう」
意を決して、彼は戸を勢いよく引き開けた。
部屋の中には、何もなかった。
「───は?」
彼は、実に間の抜けた声をもらした。
何もないといっても、勿論のこと初めからあった設備はある。備品も残らず揃っている。
ただ、あの、悪夢のような髪だけが、跡形もなく消え失せていた。
「………何してんの?」
絶句している彼に、怪訝そうに同僚が問う。彼の肩越しに部屋を覗き、「で、髪って? 別になんにもないみたいだけど」
「いや………そんなはずは、ないんだ」
ゆるゆると、彼は同僚へ振り返る。
「先に………誰か掃除したのか?」
「いんや? お前がいやに張り切ってるから、誰も」
おかしい、と彼は思う。
店を出る少女を、彼は店の奥から偶然見ていた。そのときの少女は入店時と同じく身軽で、とてもあれだけの髪を収納していたようには思えない。
ならばと、この部屋や両隣の部屋のゴミ箱を覗くが、そこにも一切何も捨てられてはいなかった。
「どういう………何なんだよ」
呆然と、彼は呟く。
夢だったのか、と。
だが、最後に蠢いたようにも見えたあの髪が、夢だとは思えない。
何よりも。
彼を、嘲笑うような笑みを刻んだ表情と、相反して全く何も湛えていなかったあの黒瞳が、夢だったはずがない。
でも、それなら………一体、何なんだ。
何だったんだ、あの女は。
ぞ、と背筋が凍った。
両端が笑みの形につり上がった、あの奇妙な紅が脳裏をよぎる。
人外。
異形。
音を立てて、手から箒や塵取りが滑り落ちた。
彼は、呆然と立ち尽くし。
背を滑り落ちる冷え切った汗を感じていた。