第八話
それから数カ月を、レニーはぼんやりと気力なく過ごした。本意はどうであれ、リルを裏切り、だますような真似をしてしまった。リルが守ろうとしていたフレイという若者は、その母親はどうなったのだろう。リルは、自分を恨んでいるだろうか。いつもそんな事が頭の中を占めていた。
刺すような風も和らぎはじめた頃、一通の手紙が届いた。差出人は、リル。慌てすぎて震える手ももどかしく封を切り、便箋の文字を目で追って、愕然とした。何度も読み直し、ソフィにも読ませ、自分と妻の解釈が同じであると確かめ合って、村長の家へ駈けて行った。
一週間後、豪華な馬車がレニーの村へやってきた。村人総出で出迎える目前で、完全に停車するより早く、飛び出してきたのは、間違いなく、リル。何かを言おうとして、言葉にならないようだった。
「おかえり、リル」
レニーがそういうと、やっと笑みを浮かべて、
「ただいま」
と、いった。
リルは、この村を去った後の事を、手紙で知らせてくれていた。
大聖堂に戻ったリルは、赤子だった自分を拾い、後見人になっている高い地位の大司教に、涙ながらに出迎えられた。
「リル、ああ、リル、よく無事で。本当に心配したんだよ」
「すみません、大司教様」
その後、ヴォリオス教団で一番位の高い、教皇の前へ呼び出された。遠くからお姿を見る事も稀な方の目前に立ち、リルは改めて自らの罪の重さに恐れ、崩れるようにひれ伏した。教皇はリルの前に膝をつき、驚いて目を見開く彼に、優しく言った。
「顔を上げておくれ。聖杯は、ちょうど昨日、見つかってここへ取り戻す事ができたんだよ」
「ほ、本当ですか!」
「もちろんだとも」
リルは驚きのあまり不躾に疑うような事を叫んでしまった事が、心の底から恥ずかしく、恐縮して小さくなった。
「とある者が、屋敷に隠し持っていたのをみつける事ができたんだ。ディアアレスの使徒のお導きとしか言いようがない。ところでね、リル、私が今日話したいのは、聖杯の事ではないんだよ」
聖杯の事でなければ、一体、自分のような孤児に、何の話があるというのだろう。リルは、優しい目をした尊い老人をじっと見た。
「リル、君は、国王のたった一人の子息。この国の、正統な皇太子だ」
老人の言っている意味が飲み込めずぽかんとしているリルに、ゆっくりと丁寧に説明してくれた。
リルの兄、国王の長男の事故には、不審な点が多かった。何者かが、王家の転覆を図っている恐れが強い、と、秘かに調査が進められた。そんな折、王妃が懐妊した。厳重な警戒の中、産み月も近くなったある日、王妃が倒れた。どうやら毒が盛られたらしく、王妃は苦しみながらも、どうかおなかの子だけは助けてくれと医師に懇願した。苦渋の思いで王妃の腹を裂き、何とか赤子だけは命を取り留めたが、王妃は帰らぬ人となってしまった。国王を含め、信頼できる側近たちは、一計を案じた。このままでは、やっと生まれた赤子も命を狙われるだろう。母親と一緒に死んでしまった事にして、国賊を探り当て、国政が安定するまで隠して育てよう、と。
「我々ヴォリオス教団は国王のしもべ。心清き者の正統な後継者に仕える。もうわかるね、リル。その赤子が、君だ。先日、ギブランシュ公の妹夫が、真の黒幕だという証拠を掴む事ができた。彼は、妻が国王生母の叔母、自分はその夫という地位につきたいがために、義兄であるギブランシュ公とその娘たちを巧みに操り、国政に干渉し、自らのものにしようとしていたんだ。聖杯を奪わせたのも、一番の根源は、その男だったのだよ」
「それじゃ、フレイのおかあさんは?」
「フレイは、元の町に住んでいた心弱き者に騙されていたんだ。彼の母親は、病気になんてなっていなかった。フレイの、母親を思う優しさに付け込んで、利用しようとしたんだよ。フレイは、清く正しい心根を持っている青年だ。けれど、罪を犯してしまった事実は消えない。もう、大聖堂に置いておくわけにはいかない」
「そんな」
フレイほど、清廉で立派な聖職者はいない、と、リルは思っていた。罪の刻印を背負い、生きていく事は彼の心を苛むだろう。その未来の日々に思いを馳せ、リルの心は痛んだ。
「だからね、彼は、元の生まれ故郷に帰す事にしたんだ。故郷の街の、教会の神父としてね。今は、母親と一緒に、懸命に教会への奉仕に努めてくれているそうだよ」
少しいたずらっぽく発せられた教皇の言葉に、リルの胸に安堵が広がり、あたたかい涙が溢れた。
リルからの手紙は、皇太子としての即位式の前に、次の国王になるべく一心に精進すると誓いをたてるため、聖なる山を訪れる許可を得た、と続いていた。
村についたリルは、休憩もそこそこに、約一年、すぐ麓で過ごしながら、近付く事の叶わなかった聖地、ディアアレス山をレニーや村長、教会のラティマとオリバーたちと共に目指した。ゆく道はまだ雪深かったが、歩くうちに体が火照り、雪の匂い、その上を渡る冴え冴えとした空気が心地よかった。
「リルが、王子様だったなんて。なにやら、遠くなってしまった気がするよ」
レニーが照れたように言うと、リルは首を横に振った。
「僕も、驚きました。僕なんかが、そんな、次期国王なんて大それた事、辞退したい、と思った。けれど、大聖堂やこの村での暮らしの中で、医師がいないせいで、助からない命がある事、貧しい者たちに対する差別、レニーや、イルッカの鍛冶の技術が、農民のみんなの、野菜を作る泥のこびりついた働き者の手が国の礎を支えている事、そんな、哀しさや素晴らしさがあるって事を知ったんです。僕の遠いご先祖様が、人々の平穏を願ったように、僕も、この国に暮らすみんなのために働きたい、と。それが両親の、亡くなった兄の願いでもあり、僕の使命でもあるような気がするんです。
僕は、孤児の、聖徒見習いのリルではなくなったけれど、でも、僕はいつまでもずっと、僕のままです。王子になったら、もう、家族じゃない、なんて、ならないですよ、ね?」
少し不安そうにいうリルは、もう気弱で臆病なだけの少年ではなく、小さく、けれども熱く明るい希望と情熱を胸に点す若者になっていたが、やはり、レニーの良く知るリルに違いなかった。レニーは、満面の笑みで頷いた。
「いい弟子を失ったのは、惜しいがな」
「僕も、正直言うと、鍛冶屋になるのと迷ったんです」
「なあに、リルを見習ってか、ショーンがよく手伝ってくれるようになった。将来が楽しみだよ」
レニーの言葉に、リルだけでなく、同行者たちも笑みを見せた。
初代の王が、ディアアレスの使徒から天啓を授かったとされる場所についた。みなは供物を捧げ、リルは祭壇の前に跪いて祈った。
「あ」
リルがふいに、上空を見て声を漏らし、その視線を追って、皆が顔を上げた。リルの瞳と同じ、深い紺青の空に、白い雲が湧き上がる。時折、山頂近くで吹く強い風が、粉雪を舞い上がらせて、幻のように煌めきを大気に残す。その、峰に。金色に輝く大角を持った立派な白銀の牡鹿が、深い叡智を秘めたような静かな目で、一行を見下ろしていた。
(心清き者が、神々が住まうという雪深きディアアレス山を訪れ、どうか人々が本当の幸いを得られる方法をお授けくださいと、一心に祈った。その祈りは天に通じ、金色の光を背負った真っ白なディアアレスの使徒が姿を現し――)
天啓祭の始まりの物語の一節が、みなの頭の中に蘇った。リルは深く、深く頭を垂れ、神々とディアアレスの使徒に感謝と決意を祈った。
谷間には、早春の訪れを告げる鳥の声が響いていた。雪解けの季節は、もうすぐそこまでやって来ている。
荒れ果てた国政を立て直し、さらに国を一層豊かにし、すべての国民に愛された、稀代の名君と謳われた国王の、皇太子即位式の少し前までの物語は、ここまで。




