第六話
リルは、孤児だと言った。赤子の頃、位の高い大司教に拾われ、大聖堂で育ち、見習いの聖徒になった。大聖堂には、様々な聖徒が共同生活を送っている。教会で修業をしたという経歴のため、一定期間過ごす豪華な個室を与えられている貴族や富豪の子弟、行儀見習いと、家庭の敬虔さを誇示する目的で預けられる、一般家庭の三男、四男坊、そして、孤児や家の貧しさから口減らしのために聖徒となる者。彼らは、宗教家に有るまじきことだが、差別と偏見に満ちている、という。リルが寝起きする粗末な大部屋の中にさえ、力による上下関係が存在していた。おとなしいリルや、さらに幼い聖徒たちは、きつい仕事を押し付けられ、時には食べ物を奪われながら、寄り添うように助け合って生きていた。そんなリルたちを、いつも助けてくれる者がいた。父を早くに亡くし、母一人子一人で育ってきたというその青年を、リルは兄のように慕っていた。同じ年頃の聖徒の中では特出して頭が良く、それを決してひけらかさず、弱き者に優しかった。意地悪な貴族の子弟たちも、彼の前では尊大な態度をとる事もせず、一目置く存在だったという。ここから彼を、兄弟子、と呼ぶ事にする。
天啓祭が近付いたある夜、リルは、その徳高き聖徒――兄弟子が中庭にいるのを見た。夜の外出は禁止されている。戒律を破るような行為に不審を感じ、後を追ってリルも中庭に出た。そこには見慣れぬ男たちがいて、兄弟子から一抱えもある箱を受け取るところだった。男たちがそっと箱のふたを開け、中を確かめると、そこには黄金に輝く聖杯があった。
「黄金の、聖杯」
レニーの呟きに頷き、リルは話しを続けた。
天啓祭の一月前、他の月は王城に保管されている黄金の聖杯が、大聖堂に渡る。天啓祭の儀式で使われるため、聖廟に保管され、毎日祈りで清められるのだ。聖杯には、不思議な伝承がある。
「聖杯にディアアレス山で湧く泉の水を満たし、口をつけて飲めば、どんな病でもたちどころに治る、と言われているんです」
「そんな聖杯があるのなら、この世から病などなくなってしまうだろう。なぜ、使われない?」
「聖杯の力は、戒めだと言われています。生きとし生ける物は、すべからく神から与えられた命を懸命に生きなければならない。与えられた病から逃げ出し、分不相応に長すぎる命を願ってはいけないんです。気を抜けば甘えてしまう弱き心に向き合い、己を戒めるための力だと。それでなくても、そんな尊い聖杯、僕など触れる事すら畏れ多いのに、直接口をつけて水を飲むなど」
レニーがすっかり納得して頷くのを見て、続けた。
リルが心底驚いて兄弟子に駆け寄ると、男たちはその姿を見て逃げ出した。彼らを追おうとするリルを、兄弟子が止めた。
「なぜ、なぜなの? あれは、あの、聖杯は」
「頼む、リル、見なかったことにしてくれ」
縋るように懇願する兄弟子は、こう話した。
「近所に住んでいた者から手紙が来たんだ。母が、重い病気にかかっている、息子に心配をかけぬように、決していうなと言われているが、もう長くはない、と。うちには、医者にかかり薬をもらう金も、それどころか、滋養のあるものを買う金もない。母を助けるには、もはや聖杯の力に頼るしかない。聖杯の収められている聖廟は、天啓祭の十日前まで開けられる事はない。彼らは信用のおける者たちだ。一週間もすれば聖杯は戻る。何事もなかったように。それで、母の病を消し、命を取り留める事ができるんだ」
リルはあまりの恐ろしさに気を失いそうになりながら彼の話を聞いていた。ここで騒ぎになれば、兄弟子は断罪され、大聖堂を追われるだろう。母や、兄弟子が信頼のおける者だといった男たちも、捕えられ、罰せられるに違いない。リルは、この事は誰にも言わないと、誓うしかなかった。
「けれど、聖杯は戻って来なかった。そうだな?」
レニーの言葉に、リルは痛みを耐えるように頷いた。国宝である黄金の聖杯が無くなった事が公になり、大聖堂内は大騒ぎになった。どこからか、あの日の夜、リルが不審な男たちと密会しているのを見たという証言がでた。尋問を受けたリルは、その間中一言もしゃべらなかった、といった。尋問は三日に渡り、結局、リルは一生涯地下牢に幽閉する、との判決を受けた。
地下牢に送られる前日の夜、リルの元を同室の者たちが秘かに訪れた。彼らは、リルに、逃げるようにと言った。
「いいえ、そんな、逃げるなんて」
「逃げなければだめだ、リル。僕たちは、リルが聖杯を盗むような者でない事をよく知っている。真の犯人を知っていて、庇っているのだろう? 地下牢は、送られれば二度と出る事は叶わないと聞く。光も差さず、すぐに病気になってしまう恐ろしいところだと。罪なき善良な者の生涯の使命を奪えば、携わったすべての人たちが神の罪を背負う事になるよ。聖杯を盗んだ、真の犯人も」
リルは思い悩み、それでも自らのせいでただ役目を果たそうとする人たちにまで神罰をかぶせてしまう事に怯え、彼らの手引きに従って大聖堂を後にした。彼らが急ごしらえで作ってくれた、古い毛布のケープを纏って。
出たはいいが、孤児で、大聖堂の外の世界を知らず、頼る者のいないリルは、行くあてもなく途方に暮れた。足は自然と、北へ、遠い地平に横たわる聖なる山、ディアアレスへ向いた。生きたいとも、生き延びられるとも思わなかった。ただ、一人静かにこの世を去るのならば、神々の住まう地に抱かれたい、そんな思いが胸の奥にあった。食べ物もなく、ただひたすらに歩き続け、あの、レニーが見つけた日の夜、雪原は吹雪になった。手も足も、あっという間に感覚はなくなり、少しずつ近づいていた山の稜線はすっかり見えなくなった。足元すら定かではなく、ただ、前だと思う方へ歩いた。と、少し先に白い光が見えた気がした。誰か、先を急ぐ者があるのだろうか。導かれるように、その光を追った。時折吹雪が弱まると、進む先には間違いなく、ディアアレスが黒くそびえて見えた。その姿に何とか勇気づけられながら、体を引きずるように歩いた。ところが、突然に目の前にあった白い光が横からぶつかってきた。ただ、白く、大きく、上の方が金色に光を放つのが見えた。驚いて必死に立ち上がろうと上体を起こすと、二度、三度、白い光はリルにぶつかって雪に押し倒した。これはきっと、ディアアレスの使徒のお姿に違いない、と、リルは思った。罪に穢れたこの身を、聖なる山に立ち入らせまいとこうして邪魔をするのだと。戻る道も、すっかり雪に閉ざされた。この平原の真ん中で凍えて息絶えるがいい、と、言われているのだと悟った。立ち上がる気力も体力も、もう残っていなかった。涙が冷たく凍り、冷え切ったリルの体の上に雪が積もっていった。




