第四話
リルは相変わらず家の事、鍛冶場の仕事を手伝いながら、遠く、ディアアレスの山並みを見ている事が増えた。木枯らしが冷たく頬を刺し、重い鈍色の雲が空を覆う日が増え、天啓祭の準備が始まる季節になった。リルが子どもたちに読み聞かせる本も、天啓祭を題材にしたものが多くなった。
むかし、まだ国が国である前、人々は荒れていた。法も秩序もなく、良心も思いやりもなく、必要な物を奪い、殺伐とその日を過ごすばかりだった。そんな人々の暮らしに胸を痛めた心清き者が、神々が住まうという雪深きディアアレス山を訪れ、どうか人々が本当の幸いを得られる方法をお授けくださいと、一心に祈った。その祈りは天に通じ、金色の光を背負った真っ白なディアアレスの使徒が姿を現し、神に近付く最上の経典――ヴォリオスをお授けくださった。心清き者は王となり、経典を人々に広め、その教えに従うものは真の平穏を得て、死した後、魂はディアアレス山の奥深くにあるという、神々の国へ迎え入れられる。
ヴォリオス経典を授かった日は最も尊く、その日はいつもにも増して神々を想い、日々の暮らしに感謝の祈りを捧げ、心静かに過ごすようになった。
天啓祭始まりの物語は、この季節、国中いたるところで繰り返し語られていたが、この村には、さらに特別な一節が付け加えられる。
心清き若者は、旅の途中で迷い、疲れ果てて挫けそうになったところを、最北の村に暮らす、優しき者たちに助けられてディアアレスにたどり着いた。この村、ラキエは、初代の王が立ち寄り、ヴォリオスを授かる、大きな手助けをした徳高き聖なる村なのだ、と。リルはその物語を語る時、複雑な表情を浮かべた。憧憬、畏怖、哀しみ、悔恨――そんなものが入り混じったような。天啓祭が近付くにつれ、ディアアレスを見つめる目に、深い哀しみが宿って見えた。
レニーだけでなく、ソフィも、教会の聖職者二人も、そんなリルの様子に心を痛めた。言えぬ訳があったとして、一人で抱え込まず、せめて心の内を話すだけでも辛さを軽くする事ができるのではないか、と。
ある日、昼食が済んだ後、ショーンがリルに言った。
「僕はこの村に生まれ育ったから、いつかディアアレス山に帰るんでしょう? リルは他から来たから、別なところに行くんだよ」
それは、子ども特有の残忍な戯れだった。生意気な事を言い、わざと相手を傷付けて楽しむ。レニーは、普段だったら、またか、と、きつめに窘めるところだが、目の前が真っ暗になり、言葉がつまった。リルは、ひきつるような笑みを張り付けて、問い返した。
「別な、ところ、って?」
「しーらない。リルが生まれたところでしょ」
意地悪くクスクス笑うショーンに、リルは、泣きそうな笑みのまま、
「そっか、そうだよね、僕、ちょっと外行ってくる」
と、小さくつぶやいて席を立ち、家を出て行った。ショーンは、いつも穏やかなリルの、予想外の反応に、きょとんとしながら見送った。
「ショーン」
レニーの呼びかけに振り向き、不思議そうに見る。今、息子がとんでもない事を言った。叱らなければならないが、頭が混乱して続く言葉が出ない。
「ショーン、だったら」
どかどかと歩み寄ってくる妻の言葉に、はっと振り向いた。
「だったら、かあさんも、ディアアレス山には行けないわね」
「え、なんで?」
「だって、そうでしょう? よその街からここへ来たんだもの。あーあ、残念だわ。ここで、父さんと結婚して、ショーンとミーシャも生まれて、村のためにと思って、働いた事もたくさんあったけれど、でも、死ぬまで頑張ったとしても、母さんはディアアレス山には行けないのね。あの場所で、ショーンたちを見守る事も、いつかまた出会えるまで、待つ事もできないなんて」
「母さんは違うよ! 他のところに行っちゃわないで」
「母さんはいいの? リルは一人ぼっちでよそへ行かないといけないのに?」
「リルだってだめだよう」
ソフィのきつい調子に、ショーンは、とうとう泣き出してしまった。レニーは、唐突に思い出し、理解した。イルッカが死んだ夜、リルが言いかけた事を。
(僕は)
どこへ帰ればいいの? 僕も、ディアアレス山に行けるの?
きっと、そう問いかけたかったのだ。どんな訳があったのか、聖徒でありながら教会をでてしまったリル。いつも祈りを欠かさないリルの、戒律への反意。そんな己の罪に対する怯え。ショーンの傍らにしゃがみ、声を上げて泣く息子を抱きしめるソフィを横目に、音を立てて席を立ち、無言のままリルを追った。
リルはすぐに見つかった。ディアアレス山を正面に見る、古い石造りの垣根に腰掛けていた。背後から近づき、そっと横に座って顔を覗き込むと、しんとした表情で山を見ていた。
「ショーンが、すまない」
リルは、正面を見たまま、口の端をわずかにあげて、首を横に振った。
「リル。お前は優しくて、素直な性根をしている。よく手伝ってくれるし、とても助かっている。リルがここに来てくれて、本当に良かった」
突然の申し出が不思議だったのか、リルはレニーをじっとみた。
「リルは、もうすっかりこの村の一員だ。いつか、リルの魂がこの世を去る日が来たら、遺された者は、ディアアレス山をみてリルを思うだろう。それは、魂があの山にあるというのと、同じ意味だと、俺は思うんだ」
なんとか告げた言葉に、リルはくしゃりと表情を崩して泣き出した。レニーは、ソフィがショーンにそうしたように、リルの肩を抱き、頭を撫でてやるのが精一杯だった。




