奴隷の少女は公爵に拾われる 6
扉を開けると、その途端に三人の鼻腔に香ばしいパンの香りが流れ込んできた。前回の夕食の時とは場所を変えて、台所に直結している大きめの食堂で食事をとるようだ。わずかに開いた窓からは眩しい朝の光と、涼しい風が部屋に入り込んでいる。部屋の中央には木の机があり、その上に白いクロスがかけられている。さらにその上に、香ばしい香りの元が鎮座していた。
机の中央には、数種類のパンが大きなバスケットに入って並んでいる。さらに台所の方からは違うパンの匂いが風に乗って流れてきている。大きな容器に入っている飲み物も数種類、明らかに四人で飲みきれる量ではない。
机のそれぞれが座るであろう位置には湯気立つ赤いトマトのスープが並々と注がれていて、その横にボウルに入ったサラダがあるのが見える。これもボウルから溢れんばかりだ。
机の上にせっせと手際よく料理を並べているのは、ふくよかな年配の女性だ。今度は焼いた肉を薄く切って肉汁と合わせて酢のドレッシングをかけた料理を並べている。
「マーサ、いい匂いだね。でもちょっと量が多すぎやしないかい?」
公爵がいつもと変わらない少し気怠そうな目でマーサを見る。
「あら、公爵様。ちょうどいいところにいらっしゃいました。これテーブルまで運んでくださいよ」
公爵は肩をすくめると何も言わず差し出された皿をテーブルの方に持っていく。
「お嬢ちゃんも、これを運んでくださいな」
マーサが少女に差し出したのは、バスケットに入って湯気を立てている大きなパンだ。香ばしい香りの中に少し甘い匂いが混じっている。おそらく何か果物が入っているのだろう。
「いえね、久しぶりに若い子が来たからちょっと張り切りすぎちゃいました。残してもいいですよ。そんときは私が持って帰りますから」
「まぁ、いいよ。別にお金に困ってるわけじゃないし」
部屋に入った三人はマーサのキビキビとした指示に従いながら机の上にたくさんの食べ物をおいていく。
「お嬢ちゃん、つまみ食いはダメよ」
今まさにパンの方に手を伸ばしかけていた少女がビクッとなって体の動きを止める。
「すぐに準備できますから。あとこれを運ぶだけですよ」
最後に軽めの果物の盛り合わせを持ってマーサが机の前にきた。
「はい、好きなだけ食べてください。足りなかったらまた何か作りますから」
「足りないわけないですよ。こんなにたくさんあったら十分です」
ラトが口髭を少し撫でながらゆっくりとつぶやく。
「まぁ、それもそうね」
マーサが席について、これで全員が朝食の席に着いた。
まず最初にツツィーリエが近くにあったパンを自分の手元に引き寄せて引きちぎる。
「お嬢ちゃん、食べる前にお祈りしなさい」
マーサが声をかけてそのパンが口の中に入るのを止める。
少女は口を開いたまま手を止めて、赤い目を大きく開きながら首をかしげた。
「お嬢ちゃん、食前の挨拶の仕方知らない?」
少女は素直にうなづいた。
「そう、じゃあ、声に出すから―――あ、いやいいわ。ただ真似してくれたらいいわ」
マーサは胸の前で軽く手を組んで指を交差させる。そのまま目を閉じて少しの間祈りをささげるような格好だ。
ツツィーリエは少し戸惑いながら見よう見まねで同じような格好をする。
公爵とラトも同じように食前の祈りを済ませる。
「はい、お嬢ちゃん。もういいですよ。普通は食事の前にお祈りを済ませるんですよ」
少女はマーサの方をじっと見て数回瞬きをしたあとうなづいた。
「じゃあ、どうぞ召し上がってくださいな」
そう言われた瞬間に少女の目は周りの微笑ましそうに見る三人の年配のことを排除して目の前にある食べ物に飲み焦点を合わせ始めた。
「お嬢ちゃん、そういえば体調は大丈夫かしら?」
全体の半分ほどを腹の中に収めて、なお食べ物を求めて動く少女の視線が声をかけたマーサに向いた。
「いえね、公爵様から昨日奴隷市場にお嬢ちゃんがいたって聞いたからね。奴隷市場の奴隷に対する扱いはひどいってきくし。なんで国守の貴族が今まで動かなかったのか不思議だよ、もう」
「ごめんよ」
公爵が今やっとスープを飲み終えたところで苦笑しながら答えた。
「あら、公爵様は別ですよ。公爵様が捜査に乗り出すまで動かない他の国守の貴族たちに問題があるんですよ」
「そう責めないでおくれ。いろいろあるんだよ」
「国富の貴族でも絡んでるんですか?もう、あのハイエナども、金のためならなんでもするんだから」
「まだそうとわかったわけではないけどね」
公爵は自分の前にあるまだ半分ほど残ったサラダを見ると、無言で少女の方に押しやる。少女もそれを無言で受け取ると猛然と口の中に入れて元気に咀嚼していく。
「少しツィルのために時間を作りたいから、しばらくの間重要な案件以外は他の国守の貴族に任せるつもりなんだ。蔓延してる奴隷市場に関してもね」
「あれまぁ。それじゃあ、いつまでたっても終わりませんよ。公爵様以外は怠けものばかりなんだから」
「皆色々忙しいんだよ」
公爵は用意されていた食事をほとんど残して温かいコーヒーを口に含む。
「公爵様、もう良いんですか?」
「あぁ。おなかいっぱいだよ」
「そうですか」
少女が猛然と口に含んでいるのと対照的に少食だった。
「あ、そうだ。ラト。今何時だい?」
「8刻の27でございます」
ラトは既に食事を終えて何かの作業をしているところだった。時計も見ずに時間を正確に答える。
「たぶん30の頃に一の男爵が来るから」
「かしこまりました。応接間にご案内させていただきます」
「いや、ここに呼んで。彼ならこの残った食べ物を少しは減らしてくれるだろう」
「かしこまりました」
ラトはさっと一礼すると、静かに部屋を出ていく。言った通り、すぐに呼び鈴の鳴る音が聞こえてきた。
「男爵君は若いから食べてくれるだろ」
「あら、じゃあ新しく何か作りましょうか」
「いらないよ。作らなくていいから」
「あら、そうですか」
マーサは口を少し尖らせて肩をすくめると少女が空けた皿を回収して台所にもって行った。
少女はあまり周囲に気を取られずただひたすら食事に集中していた。
「ツィル」
男が少女に声をかけた。少女は食事の手を止めてその方向を向く。
「ツィルはここにいるんだ」
ツツィーリエはじっと公爵の方を見つめると、小さく頷いてまた食事を口の中に頬張り始めた。




