奴隷の少女は公爵に拾われる 4
非常に殺風景な部屋だ。家具がほとんどない。本棚すらない。あるのは大きな机と椅子。ベッド、床の上に散乱しているたくさんの本、書類。これだけだ。そもそも公爵の執務室が寝室を兼ねているなど、普通では考えられない。
石造りの壁にかかているタペストリーの一つもない。窓にかかっているカーテンは非常に分厚い。
その執務机の前で何を考えているのかわからない表情で本をめくっているのが、この屋敷の主人である公爵だ。
白いものが混じった銀髪は男が顔を動かすたびにサラサラと流れる。ランプの光は非常に明るい。下手をしたらこの性能の良いランプがこの部屋の中で一番高価なものかもしれない。
ふと、その公爵が何かに気づいたように伏せていた目を上げる。
その視線の先には丈夫そうな木製の扉がある。
「ラトかい?」
本を閉じることはなかったが、それでも公爵の雰囲気には隙がない。
返事はない。
「……」
公爵が片手に手を持ったまま、もう片方の手を自由にしていつでも動かせるように構える。
表情は変わらないが、目が少しだけ細くなる。
しばらくそのまま音がなかった。
「……」
突然、扉に手を当ててそれを揺らす音がする。
公爵は本を閉じ息を吐く。そして、指を大きく鳴らす。
その音に反応して扉を誰かが開け放ったかのように、部屋側に向けて扉が大きく開いてきた。
その向こうにいたのは、フリルのついたパジャマ姿で立っている赤い目の少女だった。
「……どうしたんだい?」
少女は公爵に輪をかけて表情のない目でまっすぐ公爵の方を見る。
おもむろに少女が部屋に入ってくる。
「………寝れないのかい?」
その質問には答えず、黙って部屋の奥の方に歩み寄っていった。
公爵がその動きを目で追っていると、最終的に少女は公爵の座っている椅子のところに到着した。
「……」
「……」
少女の方は無表情で、公爵は何を考えているのかわからない表情で互いに見つめ合う。
「……おいで」
公爵が少女の方に手を伸ばし、その体を抱えあげると自分の膝の上に乗せる。少女はそれに抵抗しようとしない。
「今、君の名前を決めようとしていたんだ」
と言って、少女の肩口から手を伸ばし机の上に置いた分厚い表紙の本を開く。開き癖がついた所に一瞬でたどり着く。
「ツツィーリエ。この本に出てくる歌姫の名前だ」
少女は読めない字をただの模様のように思いながら指を指された所を見る。
「喋れないのに歌姫の名前なんて、皮肉だと思うかい?」
公爵は膝の上に座る少女の髪を指の背でなでながら問いかける。その間も二人の表情は全く変わらない。
「いいんだよ。名前は人を守る物だ」
歌姫の名前を指す指で、その名前をトントンと叩く。
「幸運なことに君は自分の名前を選ぶことができる。気にいらなければ拒否できる。その時はまた君にふさわしい名前を考えよう」
少女は自分の髪を触る公爵の方を振り向き、赤い瞳でじっと見つめると首を縦に振る。
「決まりかな」
本の上にあった細い指が書類の山の方に向けられる。
すると山がうごめき、中から一枚クシャクシャになった書類が浮かび上がり、滑るように公爵の手元にやってきた。
紙は裏向きにふわっと着地して、そのまま動かなくなった。
「文字の書き方の練習だ。ツツィーリエ。名前を書いてみなさい」
机の上の使い込まれたペンをとると、一つの流れを作るように公爵が文字を書いていく。
あっという間に書き終わるとペンを少女に渡す。少女はそれを掴むと、書類の文字をじっと見つめる。
「ペンの持ち方はこう」
公爵が膝に座る娘の手を取って、正式なペンの持ち方を指導する。しばらくその持ち方ができるようにゆっくりと指導する。
公爵はその手を取ったまま、ゆっくりと自分が先ほど書いた文字の上をペンでなぞるように動かす。
「ツ・ツィ・ー・リ・エ。と書くんだ。覚えたかい?」
一旦公爵が手を離す。ツツィーリエはしばらく固まったあと、ゆっくりと先ほどの動きを真似て動く。
「ここで曲げてはいけない。ここで曲げると文字にならなくなってしまうからね」
もう一本のペンで間違った箇所をまるで囲む。
それからゆっくりと自分で文字を書き記す。
「はい、もう一回書いてみて」
先ほどよりは幾分スムーズに文字を書く。が、公爵が書いた流麗な文字と比べると蛇かミミズがのたくった文字のようにしか見えない。
「形はだいぶあってる。あとはこことここ。まだおかしいね」
公爵がほんのわずかに微笑んで娘の頭を撫でる。
「でも、あっという間に名前を書けるようになったね。えらいえらい」
娘は振り返ると、赤い目で公爵の顔を見つめる。そして、おもむろに両手を上げると顔をなで始める。白いかなり小さな手がシワの目立ち始めてきた公爵の顔を滑る。
「どうしたんだい?」
撫でられるのに任せながら公爵が尋ねた。
娘は答えず、存在を確認するかのようにしっかりとその顔をなでていく。
「どうしたんだい?」
同じ質問を、別に答えが得られるとは思っていない独白に近い声調で繰り返す。
しばらくそのやりとりが続いた。
少女も飽きたのか、次にその注目は公爵の指に移った。
公爵の大きい手を少女の小さい両手で持ち上げると、指を開いたり曲げたりしながら、何かの秘密を探るかのような真剣な無表情で公爵の指をいじっていた。
「さっきのが不思議かい?」
少女の注目になっていない方の手を上げると、大量の本が積んである方に向ける。その本の山の中から一冊の薄い本が浮かび上がってきて、先ほどの書類のように少女と公爵の目の前に漂い寄ってきた。
「私は魔法が使えるんだよ」
漂ってきた本がひとりでにページを開くと、真ん中の挿絵のあるページで止まる。
少女が公爵の手をいじるのをやめてその挿絵に目をやる。
髪の長い女が明るい森の中、森の獣たちの前で歌を歌っている光景だ。挿絵に色はついていないが、背景となっている森の樹々や下生え、兎やリス、熊などの動物たちの造形はリアルだ。そしてその中央で天高く手を上げ、何かに捧げるようにして歌を歌う女性は、まるで女神のように神々しく強く美しい姿だった
「真似してごらん」
公爵が指を鳴らす。
するとランプの光がゆらゆらと動きを変え、炎の形が挿絵の光景のままにその動きを整えた。その火はまるで生きているかのように挿絵の中の生き物を動かしていく。ただし、女神は殆ど動かず、その美しい声も聞くことはできない。
少女は相変わらずの無表情でそれを見つめていた。次に公爵の指を見つめ、最後に自分の手のひらを見つめた。
「真似してごらん」
公爵に促されて、少女は、公爵の膝の上で
大きく手をならした。
ボウッ・・・
途端にランプの火が更に大きくなり、背景の森は更に鮮明に、生き物達は毛の一本一本まで生き生きと動き始める。女神は獣達と一緒に楽しそうに歌い踊って、森の生き物達に幸せを振りまいていた。
しかし、やはり女神の口から歌声が漏れることは無かった。
「よくできました」
公爵が膝の上に座っている少女の頭をゆっくりなでると、少女は火に向けていた視線を公爵の方に向けた。
その顔はほんのわずかだが嬉しそうに笑っていた。




