奴隷の少女は公爵に拾われる 32
公爵の胸元に光る虎の紋章を見たモヌワが何か言おうとするのを遮る。
「モヌワ、私が使者と喋っている間、じっと黙ってもらいたい。ツィル、モヌワが喋りそうになったら止めて」
「何言ってムグッ!」
ツィルがモヌワの口を自分の手で押さえる。その様子を眼の端で捕えながら医務室の椅子に腰かける公爵は、虎の縁に沿って指を這わせる。
「まぁ、使者が来るっていうならそれを利用させてもらおう。ツィル、モヌワのそばにいておくれ。間違っても私の前に立たないように」
公爵はツィルの方を見ずに指で虎を撫でるように這わせ続ける。ツィルがモヌワの口から手を離して頷いた。
ノックの音が響く。
「ラトかい」
「はい。国富1の伯爵からの使者をお連れしました」
「御苦労さま。入ってもらって」
「失礼します」
ラトは医務室のドアをさっと開けると、脇に避けて道を確保する。
ラトの後ろから歩いてきたのは黒いマントを羽織った特徴の少ない男だった。人から目をつけられるための特徴に乏しく、しかし歩く姿には隙が見当たらなかった。その男の眼の中に最初に入ったのは、虎の紋章を首にかけている灰色の眼をした公爵、後ろでベッドの上で身体を起こしているモヌワ、その脇にいる小さな少女だ。モヌワを見たほんの一瞬だけ、普通なら見逃してしまいそうなくらい微かに眼が大きく開く。が、そのことを多くの人間に気取らせることなく自然に公爵の前で膝をついて礼をする。
「お初にお目にかかります。本来なら多忙な公爵閣下に言葉をお伝えするのは伯爵本人が尋ねるのが筋というものではありますが、使者が代行して言葉を伝えると言う無作法をお許しください」
公爵は使者の眼をしっかりと見て、それから全体の雰囲気をしっかりと確認した。
「別にかまわない。得てして使者の方が伝えるのが上手だ。私の時間をその分節約出来る」
「もったいないお言葉、痛み入ります」
「で、伯爵からの言葉って何?」
公爵は左手の指で虎の縁を撫でて、右手の指をまるでコリをほぐす様に蠢かせる。その指の動きを見たラトが静かに扉を閉めた。
「はい。まず、私どもの事業に関してのお話です」
「ほぅ」
「私どもの事業の中でも、その、幸せを少し配る、類の事業に関してですが」
公爵は片眉をわざとらしく上げて見せる。
「幸せを配る、ね。詩的な表現だ。続けて」
「閣下はその幸せを多くの人間に配られるのを余り好ましいと思っていないと伯爵から聞いております」
「そうだね。度が過ぎると困る」
「その件に関してですが、私どもとしては余りに多くの人間への幸せを配ると言う事をするつもりはありません。そこに対して閣下と齟齬があるのではないかと、伯爵は少し心配しております」
「齟齬?」
これにも、わざとらしく訝しげな表情を浮かべる。
「はい。私どもはこれ以上この事業を拡大するつもりはありません。過度な事業展開は私たちの本意ではありません。今まで通り、私どもと国守とは共存が可能だと伝えて欲しいと、伯爵から承っています」
特徴の乏しい使者はある程度の身振りを交えて、具体的な言葉を避けながら伝言を伝えた。その言葉を聞きながら使者を見ていた公爵は、興味を引かれた表情をした。
「共存、ね。こちらは、そう…“なにもしない”としたら、そちらはなにをしてくれるのかな?」
微笑を浮かべて使者のほうを見つめる。
「その価値に見合ったものを。自由に使用できる金、等はいかがでしょうか」
帰ってきた使者からの視線を受け止めて公爵は面白そうに顎を撫で、膝をぽんと叩く。
「じゃあ伯爵に伝えてくれるかな。そちらが事業を広げないなら、こちらは今まで通りでいよう、とね」
「ありがとうございます」
使者は深々と礼をする。それを聞いたモヌワが公爵の方に身を乗り出すが、ツツィーリエがモヌワの口を塞ぎながら押し止める。
「それでは、私はこれで」
「もう帰るのかい?」
「はい。伝言は伝えさせていただきました。公爵から承った言葉、必ず伯爵の方にお伝えします」
「いやいや、まだ言いたいことがあるだろ?」
公爵が模様をなぞる指の動きが速くなる。
「何を言っ――」
使者が突然の言葉に顔をあげた瞬間
パチン
いつの間にか距離を詰めていた公爵の指が使者の顔の前で強く鳴らされる。
「どうせなら公爵の紋を見ていきなさいな。滅多に見れないよ」
使者の眼がスーッと公爵の虎の紋に吸い寄せられていく。どんどん生気を増して輝きだす虎にその心を奪われる。使者の眼には虎がどんどん本当に生きているように見え、その虎がゆっくりと公爵の紋から抜け出し使者の方に静かで圧倒的な雰囲気を伴ってビロードの毛並みに覆われた太い前足を踏み出して来る。
公爵が指を使者の方に向ける。使者は腰を浮かせた状態のまま体を動かさず、心を奪われたようにその紋章を見つめる。
医務室の光がどんどん使者の周囲から逃げるように離れて行った。使者の周りが仄かに薄暗くそこだけが宵闇であるかのように不吉な光に包まれる。使者に向けられた公爵の細い指から細かい金色の粒子が浮かび上がり、その浮かび上がる粒子がまるで使者と公爵の間に橋をかけるようにゆっくりと空中を進んで行った。橋に沿って進む粒子は使者の周りの宵闇の中で螺旋状の軌道を描き宵闇の中で確かな存在感を示すまでになる。その間使者の眼は紋から抜け出してこちらを静かに見つめる虎の方に釘つけられていた。
「いいからお座りな」
「はい」
使者は座るのが当然だというようにその場に座りなおす。
「君は伯爵からの使者だね」
「そうです」
「そうだ君は伯爵からの使者だ」
公爵の声がまるで歌うように使者の頭に染み渡る。
「使者なんだから、喋ってもおかしくない。そうだよね」
「そうです」
「そうだ。おかしくない」
公爵が笑う。
「君は伯爵が言っていた事を私に伝えてもおかしくない。そうだね」
公爵の指から漏れる金の粒子は速度を落とさず、使者の周りで一定の形を得ようと螺旋の軌道から新しく強い軌道を描こうとしている。
「そう……です」
「では、伯爵が言った事を私に伝えて君の職務を全うすると良い」
公爵はひと際大きな音で指を鳴らす。
使者の周りで舞っていた金色の光が一気に方向性を得て使者の目の前で虎の形をとる。その虎は宵闇の中から抜け出すと悠然と伸びをして、紋章のような静かな瞳で使者の精気を削られたような瞳を見つめると軽くその顔を舌で一舐めした。




