奴隷の少女は公爵に拾われる 30
石でできた冷たい廊下が長く伸びている。廊下の脇にはあまり使われた形跡のない扉が多数誰かを待つようにその入り口を閉ざしていた。一応の掃除はされているようだがやはり使用されていない雰囲気というのは隠しきれない。遠くから響く小さな音が虚ろに響き、廊下の端まで届いてかえってくるのがわかる。 だがその廊下の一番手前の扉には人に使われている気配があった。木の扉にはどことなく温かみがあり、取っ手には最近人に握られたらしい形跡がある。扉周辺の箒で掃いたのではない埃の少なさが周囲と比べて際立つ。
その廊下へと続く階段から足音が聞こえてきた。小さな足音だ。その音から足音の正体の体格の程が知れる。かなり小柄なものが階段を上がって廊下に向かっていた。足音は他の音と同様に廊下の端まで届き跳ね返って足音の主の耳に届く。その足音がどんどん上がってきて、ついに廊下にその姿を現した。
小さな少女だ。少女の癖のない黒髪はまっすぐ長く少女が顔を振る度にさらさらと歌うような音を立て
、その純度の高い黒髪が成長始めの少女特有の染みの無い肌を鮮やかに縁取っていた。顔で人目を引くのは人形のように無表情なことと抜けるような白い肌、生きた紅玉を嵌められたように透明な赤い瞳だ。周囲に色がない分その透明度の高い朱は夜明け直後の色が復活する瞬間を彷彿とさせる。今その少女が着ているのは白い綿のシャツと皮のスカートだがシャツのお腹辺りが何かの液体でべちゃべちゃになっている。
その少女は服をつまみながら数少ない人の使っている気配のある扉の前に立つと、自身の肩か首のあたりの高さにある扉の取っ手をゆっくり捻って中に入る。
部屋の中も廊下、屋敷全体と同じように石作りだ。そこそこ大きな部屋の広さは裕福な商人の執務室くらいはあるだろうか。だが中の内装は乏しく彼女の父親の部屋に輪をかけて何もない。ベッドと棚、小さな机。あとは卓上のランプと、かなりの冊数が入っている本棚。それだけが部屋の中にある。中庭に面した大きな窓があり、その窓から小さなバルコニーに出られるようになっている。その窓からは中庭の中でひときわ目立つ朱果の樹が大きく枝を伸ばしている様を子細に観察できる。
少女はまっすぐ棚の方に向かうと濡れたシャツを脱ぎ去る。脱いだシャツを棚にかけると、棚の中から代えのシャツと小さな布を取り出し、腹に付いた涙と鼻水を拭った。最後に臍の中に少したまった涙を拭い去ると、少し大きめにしつらえられたシャツを着て拭くのに使った布を汚れたシャツと同じ場所に置く。
替えの新しいシャツを被るように着る。そして少女は洗い場に持っていかなければならないシャツを見ながら、そのままベッドの上に倒れ込んだ。ベッドの上に横になって本棚の方に手を向ける。本が一冊少女の方に動こうとするが、少女の気が変わったのか本は本棚の中にとどまったまま少しずれただけだった。
枕の上にコテッと頭を乗せると、そのままぼーっと本棚の方向を見つめる。かといって何か本を読みたいわけではないようだ。目は開けているものの頭の半分が寝ている。
その少女の部屋の扉がノックされた。
「ツィル、いるかい?」
ツツィーリエはその声を聴くとゆっくりと体を起こして扉の方に手の平を向ける。扉の取っ手がひとりでに捻られ開いていく。
扉の向こうにいたのは、白髪交じりの銀髪をした壮年の男だ。確かにそこにいるという確固たる存在感はあるがぎらぎらした感情の昂ぶりに乏しい。灰色の目は勝手に開いた扉に対して特に驚きも示さず、いつも通りの微笑を浮かべたままだ。
「図書室で調べものしてた時にお客の泣き声が聞こえたんだけど、何かあった?」
ツツィーリエの目が一瞬窓の外に向かう。そこから見える風景の中にひときわ大きな窓が見える。その窓はこの屋敷の中で最も広い部屋である図書室だ。
『色々あった』
ベッドの上に座りながら手話で伝える。
「そうかい」
公爵が棚の上の何かの液体で濡れたツツィーリエのシャツを見る。
「………ハンカチ代わりかな」
『後で脱衣場に持っていく』
「そうかい」
公爵は扉を閉めて部屋の中に入ると、本棚から一冊本をとって、ツツィーリエの隣に座る。そしてそのまま本を開いて読み始めた。
『何を調べてたの?』
ツツィーリエは紙に書いてその紙を本の上に置く。
「ん?あぁ、モヌワがどこにいたのかを調べさせてたんだ。それの調査結果と少し確認をね」
置かれた紙をツツィーリエに返してから公爵は尋ねる。
「気になるかい?」
『うん』
「じゃあ、交換条件だ」
公爵は本を置きながら身を乗り出すと、ツツィーリエの顔を覗き込む。
「さっき何があったの?教えてくれるかな?」
『さっきのって、モヌワの泣き声のこと?』
「そうそれ。何かあったんでしょ」
『あぁ。それは―――』
ツツィーリエは先程のモヌワと自分の会話を、手話と文字で公爵に説明していく。公爵はその説明を聞きながら口元に手を当て、少し楽しそうに微笑みを浮かべていた。
『―――で、モヌワが私の服の上で泣いたの』
「じゃあ、これ涙か」
『あと鼻水』
公爵は服をつまみながら声をあげて笑う。
「モヌワが回復するのはそう遠くないね。もともと回復速度が尋常じゃないし、それに自分の意思と目的まで伴なったら何が起こるかわからない」
汚れている娘の服を棚に戻すと、ツツィーリエのほうに向きなおる。
「で、ツィルはどうするつもりだい?」
『どうするって?』
「ツィルのために働くったって給金が発生する形で雇うのか、雇わないのか。雇うとしたらどういう立ち位置で雇うのか。給金を払わずに雇うとしたらどのような手段があるのか。人が働くためにはいろんな制約がある」
公爵がツィルの前で指を回す。
「どうする?何か考えはあるかな?」
ツツィーリエはその問いを受けて、ベッドの上に横たわって枕の上に頭を乗せる。
『それをずっと考えてたの』
「それで悩んでたのかい?」
『私が雇うわけにはいかないのはわかってる。私個人は特に何かお金を持ってるわけでも稼ぐことができるわけでもない。だから、お父さんに雇ってもらうしかないんだけど、そうなると私の近くで働きたいっていうモヌワさんの意思を必ずしも尊重できないし』
「そうだね。たとえば庭師として雇うなら最低限庭の手入れはしてもらわないといけないからね。その分の時間はツィルの近くにいるわけにはいかない」
『お父さんに雇われる形で、私の近くにずっといることのできる、ってなると今までのモヌワさんの仕事と同じように傭兵ってことになるけど、国守の公爵が実質的な傭兵を雇うわけにはいかないでしょ』
「まぁね。私個人としては傭兵に対して悪い感情を持っているわけではないけど、それとこれとは話が別だ」
『そうなっちゃうと、やっぱり多少モヌワさんの意思を曲げてでもここの使用人として働いてもらう方が良いのかなって』
「それがツィルの今の結論かい?」
『今私が考えられるのはここまで』
「悪い案じゃないけど、良い案じゃない」
公爵はツィルの頭をなでながら言った。
「ツィルが、私にモヌワを実質的な傭兵として雇ってほしいといってきたらどうしようかと思ったよ」
『もしそういったらどうするの?』
「まぁそれは悪い案だって言うよ。名目的にも実質的にも私が傭兵を雇うわけにはいかないからね」
『良い案って何?』
「私は」
公爵がツツィーリエの鼻の頭を指でポンと触る。
「彼女に護衛官の審査を受けてもらってから、ツツィーリエの護衛官として赴任してもらうのが一番だと思うよ」
『護衛官?………国守管轄の職員ってこと?』
「そうだね」
ツィルは少し考えた後手話で意思を伝える。
『傭兵が護衛官になることってできるの?』
「資格云々については特に規定はない。素行調査はもちろんするけどね。そこは私が保証人になれば問題はない。あの体なら試験もパスするでしょ。問題は、彼女の現在の雇用状況」
公爵はポケットの中から折りたたまれた紙を取り出す。
「それが、私が調べていたことだ」
書類を広げる。
「彼女は、国富1の伯爵に雇われていた傭兵だったみたいだ」
『それはどんな人?』
「彼は…そうだね。この前会った子爵君がいるだろ」
ツツィーリエがうなづく。
「彼をもっと野心家にしたら、1の伯爵に近づくんじゃないかな」
『もっと?あれより?』
「子爵君の野望は可愛いものさ。少しミスをしただけ。商売の機会をちゃんと掴む才にたけていたし、あのままいけば2年以内に5の伯爵に繰り上げられていただろうね。もったいない」
『もっと野心家って?』
「現在の1の伯爵は、もともと2の男爵だったんだ」
『結婚したの?』
「違う。爵位は功績と本人の申請、一個上の爵位を持つ者の功績を考慮して繰り上げられることがある。その制度を利用して彼は爵位をどんどん引き上げていっている。もっとも、男爵から1の伯爵まで行くのは普通じゃないけどね」
『6回も繰り上げてるってこと?』
「そういうこと」
『そういうことってあり得るの?』
「ないね。ものすごくきな臭いけど、国富の貴族の間で問題を処理している内は関与するつもりはない」
でも、と公爵は続ける。
「彼はもっと上を目指してる」
『1の伯爵の上ってことは』
「3の侯爵。爵位だけ見れば公爵に次ぐ第二番目だ。上に1,2の侯爵がいるけどね」
書類の上の伯爵の名前を指でぐりぐりと押す。
「伯爵から侯爵に挙がるのは並大抵のことじゃない。なぜなら3の侯爵は間抜けでもなければ才能のない愚か者でもない。3の侯爵として十分な実績を常にあげている。普通なら伯爵がどんなに業績を上げても繰り上げに足る功績とは言えないし、異常に上昇志向の強い男が上がってくることを、公爵はおもしろがると思うけど1、2の侯爵が嫌がることは目に見えてる」
ツツィーリエは父親の言葉を真剣に聞く。
「それでも上りたいと思っている。その彼に雇われていたモヌワが命がけでも国守の公爵に言いたいことがあるってことは、伯爵が国の治安維持もしくはこの国の主権保持、少なくとも血を見ることを何か伯爵が企んでるってことだと、私は睨んでる。それ関連でとびっきり大きな功績を最高のタイミングで上げるつもりだろう」
書類を指でいじる。
「伯爵は薬品関連で非常に強いつながりを持っている。それもこの国だけでなく近隣諸国に対しても」
『薬?』
「そうだ。おそらく私が踏み込んだ奴隷市場で使われていた薬も彼経由で入ってきている」
ツィルの表情に少し険がよぎる。
「それだけじゃない。最近市民の間で微量の麻薬が出回り始めてる。ごくごく微量だし、売人も何回も仲介人を介していて本丸がつかめてない。だけど、おそらく出所の少なくとも一部には彼がかかわっているとみている」
『調べきれないの?』
「私もそれだけに関わっているわけにはいかない。普通の捜査ではしっぽをつかませない程度には巧妙だし、国守の最重要案件に引っかからないようにコントロールしている。あっちもそこら辺の引き際が見事だ」
公爵の表情は変わらない。
「被害が小さければ私としては問題ない。だけど、最近動きが活発化してる」
公爵の表情は変わっていないが、その眼は巣で顔を上げる巨大な虎のようにしっかりと獲物を見つめている。
「私が動いても問題ないところまで状況が動いてるってことかな。舐められたもんだけど。どうしてもこういうことに対してこちらは後手に回らざるを得ないから今までは被害の拡大を抑えるだけにとどめてきたけどそれも終わりだ。さすがにこれ以上はお痛が過ぎると思っていたところに彼に雇われていた傭兵が血まみれで私の所に転がり込んできた」
書類を指ではじく。
「さすがに見逃せない。調べものが終わったから、モヌワに話を聞きに行くつもりだ。ツィル、疲れてるところ悪いけど、一緒に来てくれるかな?」
少女はうなづく。
『あ、でも』
「どうしたの?」
ツツィーリエが服を指差す。
『服、片づけなきゃ』
それを聞いた公爵は思わず笑みを深めた。
「そうだね。マーサに怒られたら困る」




