奴隷の少女は公爵に拾われる 24
暗闇の中大きなもっと黒いものが追いかけてくる。
それと対峙して大きな拳を振るっても霧をなぐように感触がなく、ただひたすら体を覆い尽くそうと殺意を持って動くのだ。だから走って逃げる。どこまで走れるのか、体が動く限り走り続ける。
その霧が人に変わる。完全に武装し、多くが剣や槍を持っている。全員が黒い布で顔を覆い素性を隠している。
だが私はそれが誰なのかを知っている。誰の差し金なのかを知っている。彼らも私が知っていることを知っている。それは誰かに見られた時のために顔を知られないようにするためなのだ。霧が人に変わっただけで安堵が漏れる。人なら殺せる。殺せるうえに、殺されても殺されたかどうかわかる。
振るわれた剣は一歩足を動かしただけの動きで宙を切る。引こうとしたその顔面に拳がめり込む確かな感触。直線の槍はわきに挟んで反対側にいる持ち主を吊り上げると槍ごと壁に叩きつける。凄まじい暴力への快感。
人の数が増える。その分霧が減る。どんどん減っていく。目的を忘れて、襲ってくる金属をかいくぐり敵を殴り蹴倒し踏み潰して数をどんどん減らしていく。
敵の中の手練れが残りの仲間を犠牲にするように背後に回り背中を深く切り裂いた。灼熱の痛みが体を襲い、さらに振るった横なぎの腕を避ける。それを好機と一斉に襲ってきた愚か者の首を捻る様を見て背中を切り裂いた男は生き残り数人に目配せして周囲の死体や折れた武器を回収して路地の奥に逃げ込む。それを追わない。背中からの血液が経験上非常にやばいことを察しているからだ。
敵が周囲から消え目的を思い出し行かなければならないと一歩踏み出して、地面が消えた。
体が動かない。どんどん体の感覚が失せていく。
やらなければ、教えなければいけない。伝えなければいけない。
しなければいけないという使命感がどんどん湧いて、それを覆い尽くすように体が冷えていく。黒い霧が体を覆っていくようだ。
死にたくない。いや、死んではいけない。言わなければいけない。伝えなければいけない。鍛えた筋肉が何一ついうことを聞かなくなって、黒い霧は冷たく体を侵食していく。
その霧の中、いやに熱い部分が私の首を締めていく。咄嗟に首を絞めて抵抗するが、その段階で力が尽きた。意識がなくなり、ついに黒い霧が心にまで侵食してきたのだと知った。最後の吐息が漏れる。
死ぬ?
「ぅぉああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」
生き物が寝静まった夜闇の中に、獣が吠えたような凄まじい雄叫びが響く。その雄叫びは部屋の石の壁に反響して窓のガラスを震わせて雄叫びの主に帰っていく。
月明かりだけが部屋の光源となっている。おそらく満月だ。仄かな灰色の光が窓から入って来ていた。周囲の匂いは何か甘い薬の匂いで満ちていて、鼻の良い人間には辛い環境だろう。周囲の内装は基本的に白で統一され、光に照らされた水場とそのわきの影になっている棚が浮き彫りになって対比されている。部屋の中央に設置された巨大なベッドの上には、身を起こした状態で今にも周囲に噛みつきそうに錆びた血の色をした髪の毛を逆立てた巨大な女がいた。目は爛々と黄金色に輝き、歯をむき出しにしている。服装は白い男物の病人服だが、胸のふくらみで明らかに女性だとわかる。体の筋肉が主の行動に合わせて昂揚し、鋼のような硬度の筋肉がゆったりとしつらえられている服をはち切らんばかりに盛り上がる。
帰ってきた雄叫びに反応してやっと正気に返ったように女の顔が正気に戻り周囲を見渡す。
「おはよう」
その声に反応して顔をキッと向ける。
女は、そこに月が座っているのではないかと思った。
満月の薄明かりに照らされた白交じりの銀髪は男が顔を揺らすたびに光を乱反射させる。肌は日焼けしていない白いままの肌、目は色素の薄い灰色。うすい青色のシャツを着て椅子の上で足を組んで本を読んでいる姿は、まるで頭上に光る月が面倒な下界に降りてきたようだ。
「あんた、ムニオーンか?」
その男が顔は本に向けたまま目だけを女の方に向ける。
「ムニオーン?……あぁ、月のことか。違うよ。私は普通の人間だ」
目線を本に戻す。
「君、体調は大丈夫かい?」
「あ?たい、ちょ、…う?」
先程まで恐ろしい迫力を伴っていた肉体がしぼむように、ベッドの上に手をつく。
「あ……?なん……で……」
「そりゃそうだろ。死ぬ直前まで出血して、そのあと3日は意識がなかったんだから」
男が右手の指を回す。
「どんな悪夢見てたのか知らないけど、さっきいきなりうつ伏せの状態から立ち上がった時には死ぬかと思ったよ」
ベッドの上から落ちるように倒れかけていた女の体が何か大きな手に支えられるように優しくベッドの上でうつぶせにされた。
「背中の傷だから、しばらくうつぶせね。仰向けだと傷に障るから」
「……お前、医者か?魔法使いか?」
「医者じゃないね。魔法は使うけどそれで生計を立ててるわけじゃない。しがない貴族だよ」
男が本を閉じて脇の台に置く。
「今度はこっちが質問する番だ」
男はゆっくりと女の方に近寄る。とっさに体を起こそうとするが、体が言うことを聞かない。
男は腰を曲げて皺が少し浮かぶ顔を近づける。
「あんなところでなんで倒れてたのかな?」
「あんな所ってどこだ」
「国守公爵邸の外壁そばだよ」
その言葉を聞いて、何かを思い出したように黄金色の目を開く。
「そうだ。思い出した。私には伝えなくてはいけないことがあるんだ」
「誰に?」
「国守の公爵だ」
「ふーん」
男はそれを聞くとゆっくりと先程までいた位置に戻り、座って本を開く。
「何を伝えないといけないの?」
「国守の公爵に直接教える。彼以外に教えるとそいつに迷惑がかかる」
「私が伝えようか。私は国守の公爵と顔見知りだけど」
「本当か!?」
「うん。そうだね、2,3日に一回は顔を見るかな」
「それなら………いや。だめだ。本人に直接言わないとだめだ」
「そうかい。それは急ぎの用事かな」
「早ければ早いほど良い」
「そう」
ゆっくりとページをめくる。
「じゃあ、早く君は自分の体調を回復させないといけないね」
「このまま這ってでも―――」
「君が生きてるって知ったら、君を殺そうとした人たちはまた君を殺そうとするじゃない。今の君なら私の娘でも殺せるよ」
女が何とか起き上がらろうとあがくが、すぐにまたベッドの上に突っ伏す。
「そもそもこの数日君は何にも食べてないんだから。それでは動こうにも動けないよ」
キィッと扉の蝶番が軋む音がした。
二人分の視線が、扉を押した人影に注がれる。
四つの瞳を独占したのは、まだ小さい少女だった。幼いもの特有の白い肌が月明かりに照らされてさらに生き物離れしたように見える。白いレースの付いたパジャマを着て、裸足で立っている。影を精錬したような黒い髪は肩口から流れて腰のあたりまで伸びている。表情のない人形のような顔にはめ込まれた紅玉の様な瞳が、意識を取り戻しこちらを見る黄金色の光と交錯する。
「今度はニトーリュか…」
「ニトーリュ……夜か。違うよ、私の娘だ。月の娘が夜ではおかしいだろ。それでは逆だ」
少女は男に向かって腕を動かす。
『この人起きたの?』
「あぁそうみたいだ。ツィルはさっきの声で起きちゃったかな」
「そりゃ失礼したね。悪い夢を見ていたもので」
少女が扉を閉めて静かに女性のほうに近づいていく。そして、訝しげに見つめる女の頭を少女の小さい手でゆっくりと撫でる。
「あ?馬鹿にしてんの?」
少女がその問いかけに首をかしげる。そしてそのまま頭を撫で続ける。
「ったく。私は犬じゃねぇんだぞ。」
振り払おうとするが、思うように手が動かない。
「………好きにしろ」
動かせそうにない体で毒づく。少女はそのまましばらく撫で続ける。
「君、名前はなんていうのかな」
男がいつの間にか少女の脇に座り、女と同じ目線に座って問いかける。
「……モヌワ」
「遠い国の名前だね。どうりでムニオーンだのニトーリュだの出てくるわけだ」
「悪いか」
「別に。ここにいる3人ともこの国の人間じゃない」
男は娘を抱え上げると、部屋の入口まで持って行ってそこで下ろす。
「ツィル。今日はマーサが部屋に詰めてるはずだから、起こして何か病み上がりでも食べられるものを作るように言ってきて」
少女は一回頷くと、部屋から出ていく。
それを目で追ってから女がしゃべりだす。
「あんた、娘にはちゃんと喋るようにしつけたほうがいいぜ。せっかくかわいいのが台無しだ」
「それは無理な相談だ。娘は声を出せない」
「おぉ。神に声を取られたのか」
「そうかもね。あの子がどこの神に声をとられたのか知らないけど」
うつぶせた女はいうことを聞かない腕を見つめる。
「神はおそらく私から体の自由を奪ったらしいな」
「君の神が奪ったのは君の血と3日の間生きてる時間だ。それだけ奪われたらどんなに丈夫な人間でも体が動かなくなるさ」
入り口あたりの椅子に座って再度読書を再開する。モヌワはそれを見ながら、体が誘う泥の眠りに引きずり込まれた。




