奴隷の少女は公爵に拾われる 22
ツィルは血に濡れた状態でお湯場の更衣室に到着すると、服を着たまま湯殿のほうに移動する。沸かしていないので、昨日の残りがあるだけだ。ツツィーリエは手をすすいでから桶をとると、服を着た状態で頭からその水をかぶり始める。
体から滴っていた血が流れ、湯殿の床を赤く染める。冷たい水を何回も何回も頭からかぶる。服についた血はそのまま服を染めてしまっているが、体についた血液は一通り流れ落ちる。
ふと見ると、額についた前髪からまだ少し赤い液体がぽたぽたと落ちてきていた。長い髪はもう少しだけ頑固に血を捕まえているようだ。ツツィーリエは桶で水を浴びる作業を再開する。
「お嬢様、服着たまま何やってるんですか?」
髪から血が流れおちなくなって最後にもう一度水をかぶろうという時に後ろから声がかかった。桶を掲げたまま振り返る。割と恰幅の良い使用人姿の女性だ。手には大量の布巾と大きな服、幾つかの小瓶を抱えていた。雰囲気はいつも以上にきびきびとしていて、明らかに重症の人間がいることを知っている様子だった。
「怪我人が来たっていうから服と血を拭くための布を用意してたんだけど。お嬢様、床が血だらけですけどどこか怪我してらっしゃります?」
ツィルは首を横に振って桶の中の水を思いっきり被る。
「この床のはその怪我人の血ですか?」
頷いてから、びしょびしょになった服を指でつまむ。
「その服は捨てちゃいましょう。どうせお嬢様の年代ならすぐに大きくなって服もすぐに着れなくなっちゃうんですから、置いておいても仕方ないです」
更衣室に大量の布巾と小瓶を置いて来てから、服と一枚布巾を持ってきてツィルの着替えを手伝う。服からはしつこい血の色がまだ垂れているが、両者ともにほとんど気にしない。
「お嬢様の服が駄目になってるって知ってたらお嬢様のを持ってきてたんですけど。大きい服しかないんです。とりあえずこれだけ着ておいてください」
体の水気を拭ってから差し出されたのは大柄な男物のシャツだ。無地の白で、ツィルが2~3人は入れそうな大きさがある。
ツツィーリエは差し出されたそれを大人しく頭からかぶる。足首までそのシャツだけで覆われる程に大きく、首元から鎖骨が見えるくらいにだぼっとしている。
「………お嬢様、怪我してますね。見せてください」
マーサは着替えてる時に無意識にかばった動きを見逃さなかった。咄嗟に隠そうとするツツィーリエの手を掴むと、手の平に出来た大きな傷を確認する。人差し指の付け根から手首の辺りまで手の平を斜めに縦断するように、それも両手に出来ている傷口は、水で一旦血が洗い流され、新しく血が滲んでいる。
マーサは慌てずにその手を掴んだまま更衣室にツツィーリエを連れていき、置いてあった布巾に小鬢の中の液体を染み込ませる。
「沁みますよ」
その布巾でツィルの傷口を少し乱暴に拭っていく。ツィルの顔が痛みに歪む。
「結構深い傷ですね。この傷を公爵様が放っておいたってことは、運ばれてきた怪我人は相当ひどい傷みたいですね」
両手ともしっかり消毒し終えると、違う布巾で傷口をしっかりと縛る。
「手の平の傷は動かしてすぐに開いてしまいますからね。しっかり縛りますからあまり動かさないでください」
小さな手に巻かれた布を見て、ツツィーリエはマーサに向かって腕を動かす。
『怒ってる?』
「なんで怒るんですか。怪我人が運ばれて来るのには慣れてますよ。ここは国守の公爵邸ですからね」
屋敷に響き渡る呼び鈴の音がツツィーリエとマーサの耳に届く。
「お医者様だろうね」
マーサは置いていた布巾を持つ。
「お嬢様その瓶持ってきてください」
マーサは殆ど走るように更衣室を後にする。ツツィーリエも小瓶をとると、その後を一生懸命追いかける。
マーサは玄関ホールの医務室入口あたりに持っていた布巾を放り投げ、扉を開ける。
外の門の所に大きな鞄を持った年配の男性と、心配そうな顔をしたミーナが立っていた。
年配の男性は、白い外衣に白い髪、きらきらした目が特徴的だった。持っている黒い大きな鞄を大事そうに抱えている。
「ミーナ、ありがとうね」
マーサは走って門を開けに行くと娘に声をかけ、頭を撫でる。
「うん、お嬢様は大丈夫?」
「もちろん。大きな怪我してるわけじゃないから」
マーサはもう一度娘の頭を撫でると、医者の方に向く。
「バードンさん、こっちです」
医者の手を引っ張るようにして門から玄関までの道のりを走る。
「マーサさん、痛い痛い」
鞄を必死に抱えながら引っ張られていた男性が抗議の声をあげる。
「あら、ごめんなさい」
「まったく。どんな怪我なの?」
「私は見てないです。医務室がこっちにありますので直接見てください」
「そうかい」
マーサが医務室に案内するまでもなく、医者が医務室の方に進んで行く。
「公爵閣下、バードンだ。開けてください」
医務室の扉を叩きながら、大きな声で室内に話しかける。
すぐに扉が内側から開いた。
「お待ちしておりました」
ラトが開けたようだ。白いシャツに赤い模様が点々として、整えられた口髭や撫でつけられた髪にも乱れが見える。
「患者の傷は?」
「小さな傷は数えきれないほどありますが、一番ひどいのは背中の裂傷です。深さは筋肉の半分近くまで、右肩から腰骨にかけて一本です。かなり大量の出血があります」
「すぐに縫って血を入れよう」
「もう縫ってるよ」
部屋の奥から少し疲れたような男の声が聞こえる。扉を開けたラトよりは若いが、それでも顔には皺が浮き、髪には白いものがかなり目立っている細身の男だ。彼はベッドの脇で患者に向かって何か細かい作業を続けている。
「またあんたは勝手に縫って。しかも戦場縫いだろ?跡が残るんだよ」
「背中だし時間もあんまりなかったからね」
「ちょっと見せてみて」
医者は患者の乗ったベッドの近くに椅子を引き寄せる。
「ずいぶんとでかい女だね。血はどれくらい出たか分かるかな」
「さぁ、でも血の海みたいなのが出来てたよ」
医者は鞄の中から手際よく注射を取り出すと、少しだけベッドの上の女性から血を抜く。その抜いた血を、更に鞄から取り出した紙の上に垂らし、指で延ばしていく。
血の付いた所から、徐々に色が黄色に変わって行く。
「こんなにでかいとは思わなかった。持ってきた血じゃ足りないよ」
鞄の中から、更に金属で出来た四角い箱を取り出す。箱の蓋には黄色いシールが張ってある。その箱を開けると、中から僅かな冷気と黄色のシールが付いた袋が現れる。その袋と取り出した細い針のついたチューブとを取り付ける。
「私の血じゃ駄目かな?」
「あんたの血は青だろうがな。形が違う血を入れるのはダメだって。てかこの屋敷の人間の中に血の形が黄色の奴はいないよ」
チューブに付いた針をうつぶせた女性の肘のあたりに躊躇いなく刺し入れる。ラトが持ってきた滑車のついた柱の様なものに袋をかけると、袋の中身が少しずつ女の体の中に入って行くのが分かる。
「男性でも足りないだろうけど、この体格だと後2袋は欲しいね」
「取って来てよ」
「馬鹿言っちゃいけない。血を保存できる量は限られてんだよ。あんたならともかく死にかけの人間にホイホイ出せる程血液は安くない。とりあえず助手の子に二人程血の形が黄色の子がいるからその子らから取ってきてしばらくは間に合わせるよ」
「それで大丈夫かな?」
「わからん。血の海って言ってるからには相当量だろ。普通の女なら死んでるわな。この体格だから、元の量が多いと考えても、まぁそのうち死ぬわな」
「それは嫌だね」「知り合い?」「いや。娘が拾って来たんだ」
「娘?だれの?」
「私のだよ」
「魔法ってのは子供まで作れるのか。便利なもんだね」
「魔法じゃないよ。養子として引き取ったんだ」
「ほぉ。どれだい?」
「ツィル。こっちおいで」
公爵に呼ばれ、瓶を持ったまま医務室の入り口近くに立っていた少女が顔を上げる。
「この人はお世話になってる藪医者のバードンさんだ」「あんたも失礼だね」
医者は注射を持ったまま少女の方に近づいてくる。
「どうもこんにちは、可愛らしいお譲ちゃん。ご紹介にあずかりました藪医者です。今後ともよろしく」
ツィルは何かを探すようにあたりをきょろきょろとする。
「なんだい?」
「あぁ、紙とペンか。ラト持ってるかい?」
「確かこの辺りに」
ラトは白い棚の中から小さな薄い紙と細いペンを取り出す。
ラトからそれらを受け取ると、台もないのにさらさらと文字を書いて行く。
『この人は大丈夫?』




