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僕と夏の雨

 温もりを手の先に感じながら目が覚める。


 回らない頭でその温もりに手を伸ばすと、柔らかな手触りが返ってくる。

 その温もりも目が覚めたのか、まだ鈍い動きしか出来ない僕の手にまとわりついてきた。じゃれつくように。縋るように。


 外から雨音が聞こえる。一粒一粒で叩くリズム。まだ頭には霞がかかっている。


 にゃー、と猫の声が布団の中から聞こえて、僕は思い出した。



 ニアが話せなくなったのだ、と。





□□□□□□□□□□□□






 僕は台所でトーストを焼く。最近はニアの分は作っていなかったが、今日は何となくニアの分も一緒に。

 香ばしい匂いにつられたのか、ニアが僕の足の近くでうろうろしている。


 こうしていると、本当にただの猫のようだ。


 昨日、突然ニアが話せなくなって色々と試してみた。どうやらこっちの言葉は分かるらしい。仕草自体は今までと変わらず理性があるし、肯定か否定かくらいは仕草で伝わってくる。

 何故、急に言葉が通じなくなったのか。僕に原因があるのかもしれない、と思ったが、それでも心当たりが無い。ニアも分からないようだった。


 一晩寝てみれば治るかも、という憶測も外れ、何一つ解決策を見いだせずにいる。ニアの話も結局聞けずじまいだ。


「ニア、焼けたからちゃぶ台に行くぞ」


 にゃー、と返事が返ってくる。

 器用にちゃぶ台に飛び乗るニアを見て、僕はバターをたっぷりと塗ったトーストを両手に持って後を追った。


 ニアが器用にリモコンを使いテレビをつける。変わるチャンネル。

 いつものニュースが画面に映る。ニアは僕に伺うような視線を向けてきた。


「いつも見てるだろ? 僕は別になんでも良い。あと朝飯、ここに置いとくから」


 にゃっ、と返事をしてニアはトーストにかぶりつく。多分今のは『分かった、それとごはんありがとう』だ。

 ニアの言葉が聞こえない人にはこうやって聞こえるのか、と変に感心しながら僕もトーストをかじる。いつも通りの焼き加減。バターの風味と麦の甘さが口の中に広がる。


 いつもと違う、静けさに満ちた朝の時間が過ぎる。




 学校へ行く準備をして、後はまきるが来るのを待つだけだ。


「ニア、とりあえずまきるとも話せなくなったのか調べるぞ」


 返事はやはり猫の鳴き声。


 もしこのまま話せないままだったらどうなるのだろう。もしまきる達とは話せて、僕とだけ話せなくなったのだとしたら。

 その時は僕の家より、まきるの家に住まわせた方が良いのかもしれない。早々に玄関で待機する黒猫の背中を見ながらふと思った。


 チャイムが鳴る。


「おはよーっ! ってどうしたの? 玄関にいるなんて珍しいね」


 玄関を開けたまきるは少し驚いた表情の後に、スカートについた雨を払いながら、純粋な疑問を視線に乗せて僕を見た。


「いや、ちょっとな。ニア」


 そう言ってニアを見る。


 にゃー、と猫の鳴き声が玄関に響いた。


 相変わらず僕には聞こえないニアの言葉。まきるはどうだろうか。

 まきるはしゃがみこみ、笑顔でニアに話しかけた。


「わ、どうしたのニアちゃん。猫の鳴き真似? 上手過ぎて本当に普通の猫に見えたよー」


 よしよし、と嬉しそうにニアを撫で始めるまきる。ニアは対照的にうなだれている。


 本格的に、ニアの言葉は通じなくなっているらしい。








 どうすれば良いのだろう。


 学校の昼休み。外は暗く、雨が止む気配は無い。

 昼食を済ませた後に僕は机に肘をつき、目をつぶって悩んでいた。


 何が原因なのか分からないし、解決方法だって見当もつかない。そもそも何でニアが話せるかも謎なんだ。

 朝、出て行く時のニアの寂しそうな笑顔が目に浮かぶ。いつも一人で家に残しているが、今日は事情が違う。

 誰にも言葉が通じなくなった世界で、一人だけ。想像しただけで薄ら寒くなる。ニアはいつものようにテレビを見ているのだろうか。


 まきるにも事情を話したが、やっぱり原因は分からないらしい。

 どうすれば良いんだ。


 どうすれば。


「道隆君っ」


 聞き慣れた声に目を開けると、そこにはまきると。


 間抜けな猫の髪留め。眠たそうな目。肩まで垂らした意外な程綺麗な髪。美人と言える顔立ちだが、滲み出る活気の無さがそれを打ち消す。


 水城さんが立っていた。


 まきるに引っ張られる形で目の前に来た水城さんは、相変わらず読みづらい表情を僕に向けた。


「私の出番」


 まきるが水城さんを右手で掴んだまま、僕の机に身を乗り出す。


「葉月ちゃんなら話せるかもっ」


 水城さんは僕と同じように初めからニアの声が聞こえていた。もしかしたら話せるかもしれない。

 それに水城さんは心が読める。それはこの状況の何かしらの突破口になる気がする。 水城さんの目を見て、頼む、と念じてみる。


 水城さんはこくり、と頷いた。








 学校が終わり、未だ振り続ける雨の中を僕達は歩いていた。


 今日は雨が降っているので僕とまきるは徒歩で登校した。水城さんはタクシーだったようだ。深くは訊かなかったが、親から今日はタクシーで行け、とお金を渡されたらしい。


 青い傘を差すまきるが、後ろを歩く水城さんに振り向いて話しかける。


「葉月ちゃん、今日はきちんと帰ろうねっ」


 チェック柄の傘の下、水城さんは頷いた。僕だって前回みたいなのはごめんだ。

 まきるは傘をくるっと回す。


「あ、道隆君、土曜日の祭はどうするの?」


「ん、ニアと行くつもりだ。どうせ他に約束も無いしな」


「そうなんだっ。じゃあさ」


 まきるは嬉しそうに僕を見た。


「みんなで一緒に行こうよっ」


 もちろん葉月ちゃんも一緒に、とまきるは水城さんへと振り返り、後ろ向きに歩く。


「まあ、良いんじゃないか? …………どうせなら晃と亜希も呼ぶか」


 コクコク、と頷く水城さんを見ながら僕は返事をする。

 うんうんそれが良いよっ、と言ってまきるは元気良く前を向きなおした。


「じゃあまずはニアちゃんとまた話せるようにならなきゃねっ。大丈夫、きっと何とかなるよっ」


「…………そうだな」


 きっと、なんとかなるさ。

 根拠も何も無いけど、きっと大丈夫。


 まきる達の会話を聞き流しながら歩くと僕の家が見えてくる。

 玄関を開けると、ニアが出迎えてくれた。


「ニア、ただいま」


 にゃ、とニアは鳴いて、僕の後ろの二人に視線を向けた。

 傘を置き、靴を脱ぎながら言う。


「水城さんを連れてきた。とりあえずリビングに行くぞ」


 おじゃましまーす、と言うまきるの声を背中に、ニアと一緒に居間に移動する。鞄を布団に放り投げ、水滴の付いたズボンの裾を捲って適当に座る。ニアが膝に乗ってきた。

 近くのクッションに膝を崩して座った水城さんに僕は言う。


「水城さん。早速で悪いけど、ニアと話せるか試してみてくれ」


 話を察して、ニアが水城さんに向かって鳴いた。


 どうだろうか。


 水城さんはこくり、と頷いて僕の膝からニアを抱き上げた。恐らくそういう指示をニアから受けたのだろう。

 安堵した雰囲気のニアを見て僕は言う。


「水城さん、ニアがなんて言ったか分かるのか?」


 水城さんはじぃ、と見つめてきた後、ほんの少し眉をひそめた。


「少し聞き取りづらいけど」


 ニアがもう一度鳴く。

 まきるはやはり聞こえなかったらしく、首を横に振った。


 僕とまきるは完全に聞こえなくなり、水城さんは聞き取り辛くなった。こうなると僕達に何かしらの変化が一斉に起こった、とは考えにくい。原因はニアにある、と考えた方が良さそうだ。


 僕は水城さんの膝に乗ったニアに話しかける。


「ニア、僕達と話せなくなった原因に、心当たりは無いのか?」


 ニアは目を細めた。そして少しして小さく鳴いた。

 水城さんが代わりに話しだす。


「無いことも無い」


「じゃあ、とりあえずそれを教えてくれ。このままじゃ不便だからな」


 僕は胸を撫で下ろす。原因さえ解れば後はそれを取り除くだけだ。

 食べ物がいけなかったのか、運動不足が悪かったのか。少しくらい食費が上がったって僕が菓子を我慢すればいいし、これから毎朝早起きして散歩に付き合ったっていい。


 ニアがにゃー、と鳴く。

 水城さんはニアを見た。

 ニアが頷いて水城さんが話し出す。


「私が元の姿に戻りたいと思い始めたのが原因だろう」


 思考が止まる。一瞬何を言われたか分からなかった。


 今、なんて言った?


 元の姿に戻りたい、だなんて。面白い冗談だ。きっとニアと出会った時以来の衝撃。

 一体僕はなんて返せば良い。じゃあ戻してしんぜよう、とでも言おうか。それかいっそ、いつかテレビで見た魔法の合い言葉でも唱えてみようか。

 だめだ、混乱しているのが自分で分かる。考えだけが頭で回って口まで意志が伝わらない。


 ニアは構わず続ける。


「今まで黙っていて本当にすまなかった。自分勝手な話だと自分でも思う。縛られたく無くて、逃げ出したくて、その願いが叶って。そして今になってまた元の位置に戻りたくなったんだ。全てから逃れた自由は、とても不自由だと気付いたから」


 水城さんの声でニアの言葉が聞こえる事に違和感を感じ、そんな違和感を感じている自分はまだ混乱したままだと理解する。

 ニアを見れば絹のような黒い毛並み。触れば滑らかな感触が返ってくるはずだ。

 黒曜石の様な大きな瞳が今までで一番真剣に僕を射抜く。そこには冗談やふざけた色は一切ない。


 目を逸らしちゃいけない。


 そう思うと混乱が嘘のように引いた。


 ニアにあわせて水城さんは話す。


「私の本当の名前は、桐原綾音。君達と同じ、旗江高等学校の一年生だ」



 僕は、人生で一番混乱した。








「道隆君、落ち着いた? はい、タオル」


「悪い、助かる」


 玄関でまきるからタオルを受け取り、濡れた頭をがしがしと拭く。


 ニアが実は桐原さんだった。それを聞いた僕は無意識に玄関を飛び出し、五分ほど雨に打たれてようやく冷静になった。


 桐原綾音。学年で最も頭が良く、誰もが認める美人。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花の完璧な女性。


 淡い恋心を抱いていたはずの女性。


 ニアの正体が桐原さんだった。なら川辺で遭った桐原さんは誰なのか。なぜ猫になったのか。どうして桐原さんの家から逃げ出したのか。

 ニアの目は嘘をついていなかった。考えれば考える程、疑問は湧いてくる。


 まきるから受け取ったタオルを洗濯機に放り込み、じめじめとした服の感触を感じながら僕は居間へ続く扉を勢い良く開けた。


「ニアっ、訊きたいことが山ほどある。答えて貰うぞっ」


 変わらず水城さんの膝で座るニアは僕をちらりと見て、にゃー、と鳴いた。

 水城さんが変わらない表情で喋る。


「道隆、驚きすぎ」


「そりゃ驚くわっ!」


 驚かない方がどうかしている。

 僕は水城さんの前にあぐらをかき、腕を組んだ。


「ニア、おまえが同級生の桐原さんだとして、この前会った桐原さんは一体誰なんだよ。ドッペルゲンガーか?」


「違う、あれは私の双子の妹の琴音だ。嘘をついていた手前、何も言えなかったが」


 双子の妹がいるなんて聞いてない。正確には知ろうともしなかった、だが。


「でも、僕の学校に桐原さんは二人いないはずだぞ」


「それは君とあの女が互いに勘違いしていただけだ。実際は学校自体が違う。だからあの女が君を知るはずが無い」


 とんだ思考のすれ違いだ。あの時僕達は別々の学校を思いながら話していたのか。


「とりあえずは分かった。じゃあ次の質問だ」


 僕はニアを見る。


「どうやって猫になったんだ?」


 最大の謎。どうやって人が猫になったのか。僕の周りは常識の通用しない人が多いが、それでも飛び抜けてファンタジーだ。

 ニアは首を横に振って短く鳴いた。水城さんが口を開く。


「知らん」


「知らん…………って。じゃあ朝起きたら猫になってた、なんて言うのか?」


「そうだ」


「…………なんだそれ。せめて、もうちょっとまともな理由は無いのか?」


 物事には理由があるはずだ。それが猫になる、なんて特別な事なら尚更。

 ニアの言葉を水城さんが話す。


「理由というか、猫になる前の日にうちの猫が死んだ」


「死んだ?」


「ああ、あの女も言ってただろう? うちには私に良く似た黒猫がいたんだ。私が似た、と言うべきだが」


 ニアは少し悲しそうに鳴いた。


「私にだけ良く懐いていた猫でな。ニア、という名前だったんだが、体が弱くて呆気なく死んでしまったんだ」


「ああ、だからおまえの名前は……」


「そう、その猫の名前を借りた。誰にも言わずに私が埋めたから、きっと家の人間も、まだニアは生きていると思っているだろう」


 ニアに似た、いやニアが似た黒猫の死。それに合わせて人だったニアは猫になった。

 僕は思い付くままに言う。


「ってことは、ニアが猫になったのは、その黒猫の呪い、とかか?」


 道隆君、と後ろで座っているまきるにたしなめられる。その声で今のは失言だったことに僕は気付いた。懐いていた猫が死んでおまえは呪われた、なんて配慮が無いにも程がある。

 僕が弁明する前に、ニアは首を横に軽く振った。


「いや、謝らなくて良い。私にとっては呪いであろうが何であろうが、嬉しかった事に変わりは無い」


「嬉しかった?」


 猫にされて嬉しいものなのだろうか。少なくとも僕はあまり嬉しくは無い。


「ああ、嬉しかった。その時は丁度嫌な事が重なっててな。猫のように自由になりたい、と思っていたら猫になったんだ。これ幸いと家から逃げ出したよ。まあ、猫の生活に順応出来ず、食うに困っていた所を道隆に拾われた訳だが」


 初めて会ったあの時の経緯はこういう事だったのか。人間の食べ物ばかりが好物だったのも、考え方が人間に近いのも当然だ。

 だって人間だったのだから。


 しかし、ニアが猫になったいきさつが分かっても、ニアがまた話せるようになる方法が分からない。

 腕を組み僕は言う。


「まあ、とりあえず猫になった経緯は分かった。でも、また話せるようになるにはどうするか。それが分からない事にはなぁ……」


 まきるが僕の横から身を乗り出し、ニアと視線の高さを合わせながら言う。


「そうだよねー。どうしたら良いんだろうね」


「その事だが」


 ニアが鳴き、水城さんが話し出す。


「私は桐原家に、人に戻ろうと思う」


 僕はニアを見た。


「でも、家には嫌な事があるんだろ? だったらここに居れば良い」


 なぜ猫になったかは分からないが、なぜ家から逃げ出したかは本人にも分かっているはずだ。

 この数週間ニアと過ごしたが、ニアが単純な理由で逃げ出したとは思えない。きっと大きな理由があって、逃げ出さずにはいられなかったんだ。


 逃げ道くらいなら僕にだってなれる。


 誰も人が猫になったなんて思わない。誰にも悪い、だなんて言わせない。


 ニアが僕を見た。


「そう言ってくれて嬉しい。が、それじゃ駄目なんだ」


 水城さんが淡々とニアの言葉を紡ぐ。


「猫になってみて嬉しかったし、楽しかった。でもことあるごとに感じるんだ。みんなと共に遊べない不満。自由な猫であることの不自由さ。特に最近、強く思った。やはり私は人間だ、と。人として生きたい、と」


 ニアの瞳は揺れない。

 人として生きる、ということ。それをニアは選ぶ。


「人として生きるという事は、人としての責務を負う事だ。それが私の場合家の事だった、というだけの話。今のこの状態は言うなればたまたま出来た隙間だ。本来あるべきでは無いものだったから、だからもう私は君と話せなくなってしまったのだ」


 家の事。妹さんを迎えに来ていた車は高級で、運転手なんて人までいた。そんな家には僕には理解できない事情があるのか。その事情からニアは逃げ出して、今またそれに立ち向かおうとしている。とても強い瞳で。

 きっとニアがいなくなるのは寂しい。でもその大きな黒曜石のような瞳を見たら、もう僕の口からニアを引き止める言葉は出ない。出せない。


 にゃあ、とニアは最後に鳴いた。


「だから道隆、さよならだ。なに、人に戻るのは多分大丈夫だ。なんとなくだが元に戻れそうな気がするしな。何だか気恥ずかしいが、次は人として学校で会おう。今まで本当に楽しくて、幸せだった」


 なんだよそれ。まるで離別の挨拶みたいじゃないか、と僕は思った。






 そうして、ニアは水城さんと一緒にこの部屋を出て行った。どうやら桐原家は水城さんの家から近いらしい。そんな会話も水城さんを通して話したせいか、どこか現実味が無かった。


 そう、ニアはもういなくなったのだ。


 明日学校へ行けば本当の桐原さんと会うのだろうか。実感が湧かない。何も失っていないはずなのに、何かを無くした気がする。


 もう夜だ。まきるも帰った。外も雨は止んでいる。


 静かな、静かな夜だ。


 テレビはつけない。元々僕はあまりテレビを見ない性格だ。ニアが来る前も一応つけるだけつけて、そのまま別の事をしているだけだった。

 今日はテレビをつける気になれない。


 ちゃぶ台にはニアの首輪が置いてある。赤い、細い首輪だ。タグにはこの部屋の住所。もう使う事は無いだろう。赤いリボンはまきるが持って帰った。


 今日はもう寝ようか。


 布団に入る。エアコンをかけてくるまる毛布は格別だ。


 そう言えば作り置きのニアの食べ物はどうしようか。翔子さんにはなんて言おう。まきるがもう話したかもしれない。ニアの正体を聞いて、おじさんはどんな反応をするだろうか。

 ニア。桐原綾音。淡い恋心。家族。


 とりとめも無く考える。だけど眠くはならない。こんなに静かな夜なのに。


 もう雨も上がったのに。


 ニアは、もういない。








僕と夏の雨     了

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