僕と桐原さん
玄関が勢いよく開く。
「おはよー!」
「ああ、おはよう、まきる。道隆と違って朝から全開だな」
「うるさい、まきるが元気過ぎるだけだ」
幼馴染と黒猫、そして自分がいると玄関も手狭になる。靴を履く僕の隣をすり抜け、まきるが膝をついてニアに近付く。
ニアはまきるの手をひらりと避けて言った。
「まきる。翔子に昨日も夕飯を食べさせて貰って助かる、と礼を言っておいてくれないか? 翔子の作るご飯は美味くて飽きない」
うん分かったー、と朝から元気に言うまきる。この前翔子さんと商店街に行ってから二日間、ニアは翔子さん特製の夕飯を向島家で食べていた。それは保存のクッキーだったり、僕達の食べるご飯となんら変わりのないメニューだったりする。いつも向島家にお邪魔するわけにはいかない、と言っても翔子さんは聞かず、おかげで僕も一緒に向島家でご馳走になった。
今朝は翔子さん特製クッキーだったが、このままずるずるとご飯を食べるだけ、というのは流石に申し訳ない。何かお返しを考えないと。
玄関で少し話し込んでいる幼なじみと黒猫を見ながら、僕、杉村道隆はそう思った。
「まきる、そろそろ行くぞ」
「はーい。じゃあね、ニアちゃんっ」
ニアに手を振るまきる。
いつものように涼やかな佇まいのニアは座って片手を上げた。
「いってらっしゃい。道隆、まきる」
「ああ、いってきます」
「うん、いってきまーすっ」
玄関を開けると夏が待っている。
少し憂鬱な気持ちで取っ手に手をかけた。
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今日は散々な一日だった。
朝、自転車を直した事をまきるに言うと、二人乗りしたい、と言って聞かなかった。遺伝か。仕方ないので二人乗りで学校に向かうと、道中で通勤途中の先生に見つかり叱られた。
朝からついて無いな、と思いながら自転車を押して駐輪場に着くと、まきるの陸上部の先輩らしき人に凄い目で睨まれた。その先輩らしき人はまきるには笑いかけていたが、僕を見るときの目には殺気がこもっていたと思う。
授業では先週の頭にやった教科のテストが返ってきたが、予想より悪かった。まあこんなもんか、と思っていると、意気揚々話しかけてきたまきるに点数で負けた。人生の自己ベスト大幅更新だよー! と喜ぶまきるを見て正直かなり凹んだ。
他にも水城さんが突然目の前でじぃ、と見つめてきて困ったり、廊下で会った亜希に突然ラリアットされたりと細かな事を言えば切りが無い程散々だった。
はぁ、と一度ため息をついて家の鍵を開けて中に入る。居間と玄関を隔てる扉を開けた。
「ただいま、ニア」
「おかえり、道隆」
ニアはテーブルに寝そべってテレビを見ていた。
「本当にテレビが好きだな」
「まあな。ここに来るまではあまり見る機会が無かったが、これほど様々な情報を流されるとずっと見ていても飽きないよ。ほら、この日本の伝統工芸の特集なんて素晴らしい技術じゃないか」
大袈裟だな、と苦笑いして鞄を置き、制服もそのままで布団の上に座る。熱心にテレビを見ているニアの赤いリボンのついたしっぽは無意識にゆらゆら揺れている。
画面の中の職人の見事な手つきを眺めながら僕は言った。
「そういえばニア。おまえ全然運動してないよな」
ニアのしっぽが止まる。
ニアはゆっくりと立ち上がり僕の方を向いた。
「やっぱり昨日の私は重かった、か?」
「いや、別にそういう訳じゃ無いけど、ここに来てからニアはテレビばっか見てる印象だったから」
うう、と目をそらし唸るニア。そういえば、遊園地でもほとんど誰かに抱っこされてたな。
僕は時計を見ながら言う。
「んじゃ、今日は暇だし、久しぶりに散歩でも行くか? まだ暑いから、もうちょっと日が落ちてからだが」
そう言えば昨日は出かける時に朝の散歩をする、とか話した気がする。結局忘れてたし、丁度良いだろう。
「…………そうだな。流石に私も最近の堕落っぷりはどうかな~と思っていた所だ。手間かもしれないがよろしく頼む」
「ん」
うなだれるニアを見ていると、すっかり忘れていたある物を思い出した。
「あ、そうだ。ニア、忘れてたけどこれ」
そう言って僕は買ったままの袋に入っていた細く赤い首輪を取り出す。
「ん? ああ、買ってたのか。私は買いそびれたと思ってたんだが」
「いや、あの日は色々あってな。買ったけど渡すのを忘れてた」
タグはまだ何も書かれていない。鞄からペンを取り出し、タグに住所や連絡先を書いておく。これでもし迷子になったりしても、誰かに見つかりさえすれば大事にはならないはずた。
「ニア、出来たぞ」
「首輪なんて初めてだからな。キツくし過ぎて首を絞めてくれるなよ」
首輪をニアの首に当てる。相変わらず手触りの良い毛並みが手に触れる。
「大丈夫だろ。ほっ」
「ぐぇっ!」
「あ、悪い」
ばかやろー、と若干せき込みながら引っ掻いて来るニア。それをいなしてきちんと首輪をつけ直してやる。
「うん、なかなか似合ってるじゃないか。流石僕だな」
「えー、本当か?」
首を絞めたせいか、少し不機嫌なニアはそっぽを向いた。
「鏡は無いか? ちょっと確認したい」
「ふぅ、少しは僕のセンスを信用してくれよ。まったく」
この部屋に手鏡なんてものは無い。僕は未だにこっちを向かないニアを両手で持ち上げた。
居間と玄関を繋ぐ扉を足で開け、洗面所の鏡の前でニアを掲げる。
「ほら、自分で確認しろ」
「…………ふむ。まあ道隆にしてはまあまあだな。仕方ない、このニアちゃんの初めての栄光をくれてやろう」
「そりゃ光栄だ」
居間に戻りニアをテーブルに降ろす。
ピンと立った耳と大きな瞳。流れる黒毛は上品でどこか涼しげだ。しっぽの先の赤いリボンは雰囲気とのギャップでより可愛らしく見え、首元の細い赤は黒い体を更にスマートに見せる。
どこに出しても恥ずかしく無い黒猫は、またしっぽを揺らしながらテレビを見始めた。
日は傾き、オレンジ色が強くなっていく。まだ沈むまでは時間があるが、町は夕暮れに片足を踏み入れている。そんな時間帯に僕とニアはゆっくりと道を歩いていた。
私服に着替えた僕は歩道を、新しい首輪をつけたニアは塀の上を。全然違う場所に居るが進む方向は同じだ。
「道隆、このまま真っ直ぐで良いのか?」
「ああ。前に朝方散歩した時にも通った道だ。見覚え無いか?」
「……言われてみれば見覚えがあるな。雰囲気が違うせいで分からなかった」
「方向は逆だしな。」
僕はニアを見上げた。
「それで、そこから川辺に降りられる場所がある。一応目的地はそこだ」
「なるほど。夕焼けと川辺とはロマンチックだな」
ニアはそう言ってこっちを見た。口元がニヤニヤしている。
「隣に可愛い女の子が歩いてる、とかそういう状況ならロマンチックなんだがな」
「なにっ。道隆、こんなに可愛いニアちゃんを隣に侍らせておいて言う言葉かっ」
笑い混じりのニアの声。自然と僕も笑みがこぼれる。
思えば随分とこの喋る猫と仲良くなったものだ。ニアのためと理由付けていたが、慣れない一人暮らしは少しだけ寂しかったのかもしれない。自分でも良く分からない内に半分勢いで家に住ませたが、退屈しない毎日を送っている。そしてその毎日に満足してしている。
この日々は何時までも続くものでは無いだろうけど、それでも笑って進めれば良いか。
鮮やかな夕陽のせいで思考が深くなっているみたいだ。気付いたらもう川沿いの道に突き当たっていた。
「ニア、そこから川辺に降りよう」
「分かった」
身軽に塀から飛び降りて歩き出すニア。やっぱりこういう所を見ると猫なんだな、と思う。
道から出ている人工の階段を、素早いニアの後を追って降りた。
まだ落ちるまで時間のある太陽に照らされ、赤みを帯びた草と小さな石ころと大きな石。それほど大きくない川なので流れはそんなに早く無い。周囲の道は車の通りも少なく、水の音と風が草を撫でる音が良く聞こえる。
ざくざく、と自分の足音を聞きながらニアに追い付く。丁度膝より少し高めの平べったい石の上に座って、ニアは川を眺めていた。僕もその隣に腰掛けて川を眺める。
「結構良い所だろ?」
ああ、とニアは川を見たままぽつりと返した。
大きな黒曜石のような瞳はいつもより大きく開かれ、ただただ川を見ている。
僕もそれ以上何も言わない。静かに過ぎる時間の中では生温い風さえ心地いい。
どこかで鳴るクラクション。小さな葉っぱが川を流れる。
太陽が山に沈み始めた。
「道隆」
「ん?」
不意にニアが話しかけてくる。ニアは川を見たまま続けた。
「良い、場所だな」
「ああ」
会話が途切れる。少し風が強くなった。
ニアの瞳が僕を見た。
「もし、もしもだぞ。私――」
「すみませーん!」
後ろから響いた女性の声がニアの声をかき消した。
一体なんなんだ、と思いながら後ろを向く。その女性は長いストレートの黒髪を揺らしながら、川辺に繋がる階段を降りていた。
心臓がどくり、と波打つ。
目の前まで来た女性は、綺麗な笑顔で形の良い唇を動かした。
「えーと、夕陽が綺麗ですね」
僕は答えられず、ただただ女性を見つめていた。
少し困ったような笑顔に変えて女性は言った。
「突然すみません、怪しい者では無いんです。あ、これがもう怪しいですかね」
「え、いや」
どうにか僕はそれだけ絞り出す。紅く照らされた彼女には現実感が足りない。
「あの、本当に突然何ですが、少しその辺りでお話しませんか?」
その女性――桐原さんはニアをちらりと見た後、そう言った。
いつか夢に聞いた声。想像とは少し違ったけれど、彼女の容姿に見合うだけの美しい声。
あ、はい、と半ば無意識に答えて立ち上がる。
さっきまで隣で話していた黒猫は、沈黙していた。
川沿いの道にある小さな公園。遊具と言える遊具も無く、外灯とベンチが申し訳程度にあるだけだ。まだ太陽は沈みきっていないがそれも時間の問題で、確実に夜の空気は近寄っている。
膝丈のスカートを揺らして歩く桐原さんは私服だ。いつも目で追いかけていた制服とは違うので何だか違和感がある。むしろ隣で彼女が歩いている、という事に違和感しか感じない。足下でついてくるニアも黙っている。
なんで僕に声を掛けたのだろう。何故こんな場所を桐原さんは通ったのだろう。疑問は尽きないが、それらは変な緊張のせいで声にならずに喉の奥に消えていくばかりだ。
まだ明かりの点いていない外灯の下。隣を歩いていた桐原さんが立ち止まった。僕とニアも立ち止まる。
「あの、本当に突然すみません」
そう言って頭を深々と下げた桐原さんを見て、僕は慌てた。
「えっ、いや。その、全然気にして無いからっ」
喉が渇いた。場違いな事だけ思考は思い付く。僕ってこんなにシャイだったのか。
恐らく変な動きと表情をしているであろう僕を見ても笑ったりせず、桐原さんは真剣な表情で僕の足下を指差した。
「唐突な事は十分承知なんですけど、その猫を少し見せて頂けませんか?」
どうして桐原さんはニアを気にするのかは分からない。もしかしてニアの元の飼い主の事を知っているのだろうか。
少し緊張が解けてきた。汗で湿った手を拭い、ニアを見る。
――初めてだった。
ニアのここまで明確な憎悪の表情を見るのは。
「どうした?」
呼びかけても返事は無い。ただ、その絹より滑らかな黒毛を逆立て、体は今にも飛び出しそうなほど力が入って震えていた。
ニアの様子を見た桐原さんは苦笑いを零した。
「あー、警戒されてますね。昔から猫には嫌われるんですよ」
ニアもいっぱしの猫だったのか、と馬鹿な事を考えていると、桐原さんはしゃがみ込んでニアに手を伸ばした。
「触るなっ」
その肌荒れ一つ無い綺麗な手をニアは弾いた。たまに僕を叩く時とは違い、心底嫌がって叩いているらしい。勢いが全然違う。
弾かれた手を抑える桐原さん。ニアの様子に戸惑いながら僕は言う。
「だ、大丈夫?」
「あ、はい。爪は長くなかったので怪我は無いです」
手をさすりながら桐原さんは立ち上がった。
ニアを一瞥した後、初めて話しかけてきた時と同じ綺麗な笑顔で桐原さんは話し出す。
「あはは、嫌われちゃいました」
「えっと、ごめん。うちの猫が悪さして」
唸るニアを撫でてなだめる。ニアはいったいどうしたって言うんだ。よりにもよって桐原さんに手を出すなんて。
いえ、と桐原さんは短く言った後、小首を傾げた。
「うちの猫、っていう事は昔から飼ってるんですか?」
「いや、最近拾ったんだ。大体二週間くらい前だったかな」
「二週間前ですか……」
二週間前の夕方。いきなり降り出した雨。良く覚えている。あんな衝撃的な出会いを忘れられるはずがない。
形の良い顎に手を添えて僅かに考え込んだ後、桐原さんは話し出した。
「あの、この子の名前はあるんですか?」
「名前? ああ、こいつはニアっていうんだ」
そういえば自己紹介もまだしていない。僕は桐原さんの事を知っているけど、桐原さんが僕の事を知っているはずがないんだ。敬語なのも僕が同級生だって事を知らないからだろう。分かりきっていたけど、ちょっと悲しい。
そんな事を思いながら話すと、何故か桐原さんは驚いた表情に変わった。
「えっと、ニアちゃん、って名前ですか? 本当に?」
「道隆、帰るぞっ」
ニアが短く叫ぶ。
いつか夢に見た顔を前にして、僕の頭は随分と回転が遅い。そういえば桐原さんはニアの言葉が聞こえてないんだな、なんて考えていた。
だからだろう。次の桐原さんの言葉にも、上手く反応出来なかったのは。
「もしかしたら、その猫はうちで飼ってた猫かもしれません」
え、と僕の口から言葉が漏れる。
ニアが桐原さんの家の猫。まさかそんな事があるはずが無い。桐原さんへのニアの態度も納得いかないし、もしそうだったらニアは何か言うはずだ。
そうだ、ニアだ。
ニアは僕と話せる。本人に訊けば全てが解決するじゃないか。過去の事は教えてくれないが、桐原さんの言うことが本当かどうか位は教えてくれるだろう。
「き、桐原さん。ちょっと待ってて」
はい、と不思議そうな表情で頷く桐原さん。僕は暴れるニアを抱き上げて、少し離れた木の裏で降ろした。
しゃがんでニアの目を見る。数秒そのまま見ると、ニアはふいと目を逸らした。
「ニア、桐原さんの言うことは本当なのかっ?」
ニアは僕と目を合わせないまま言った。
「……多分、違う」
多分ってなんだ。訳が分からない。でも、どうやら桐原さんと無関係、という線は無いらしい。
昔のことをニアはほとんど言わない。そこにどんな秘密があるのか気になる。
互いに少しの時間沈黙する。ニアは昔について話す気は無いらしい。話して欲しいけど、催促するようなものでも無い。
前はどこに住んでいたのか。昔の飼い主は桐原さんなのか。
訊きたいことは山ほどある。それらを全部押し殺して、一つだけ僕は訊いた。
「桐原さんの所で飼われたいか?」
強く反応して、ニアは僕の目を見た。
「絶対に、嫌だっ」
揺れるニアの瞳。それがどんな感情を帯びているかなんて僕には完全には分からない。
それでも、それだけ聞ければ十分だ。
「分かった。とりあえず戻るぞ」
「……ああ」
沈んだ返事を聞いて僕は桐原さんの所に戻った。ニアも遅れてついてくる。
僕は桐原さんに話しかけた。
「ごめん。ちょっと確認したいことがあったから」
「いえいえ、とんでもないです」
桐原さんは綺麗な笑みを浮かべる。さっき見た笑顔と寸分違わぬ笑顔。ずっと向けて欲しかったそれを見ても、何故か僕の心は最初ほど揺るがなかった。
「それで、さっきの話なんですけど」
桐原さんはニアを見る。
「多分、間違い無いと思うんです。こんなに綺麗な黒猫はめったに居ないですし、うちで見なくなった時期と合致してます」
聞けば聞くほど正論だ。ニアみたいな綺麗な猫がそうほいほい居るはずがない。
そう考えるのは当然だし、実際そうなのかも知れない。ニアは話してくれないが、一番自然な形だ。ニアは俯いている。
「川辺で声をかけさせて頂いたのも、その子を見たからなんです。不思議なのは名前まで一緒だった事ですね。ふふっ、なんだか運命的です」
「運命的、か」
胸躍る言葉のはずだけど、これからかけられる言葉とその返事を考えると喜べない。
桐原さんは言う。
「ですので、ニアちゃんを返して頂けません?」
桐原さんの言うことは間違っていないと思う。多分ニアは桐原さんの家で何かがあって、家出してきた。僕にも教えてくれないけど、無関係じゃないとニアの態度から分かる。桐原さんの話を聞いてもそれはほぼ確定だ。ニアのような独特の雰囲気を持つ猫はそういない。
どんな理由があって嘘をついていたかは知らない。本当は元の飼い主に戻さなければいけないのかもしれない。
だけど、僕は言った。
「ごめん。それは、出来ない」
喋る黒猫、ニア。テレビが好きで、味の濃いのつまみが好きで、遊園地に行ったことが無くて、最近出来た僕の家の居候。
もしかしたら桐原さんには嫌われるかもしれない。胸に少しだけ悲しさが回る。
ニアと桐原さんを天秤にかける想像。その天秤に乗ったニアの瞳は珍しく揺れていたのだ。
随分情が移ったな、と思う。人間の言うことより猫の言うことを優先するなんて。でも、今日は散々な日だった。今更もう一つくらい、桐原さんにちょっと嫌われるくらい、どうって事無い。
足下でニアが僕を見ているのを視界の端に捉えながら、桐原さんを見る。
どんな反応が来るか、と少し緊張するが返事はあっけないものだった。
「そうですか、分かりました」
変わらない笑顔のままだ。怒っていないのだろうか。
桐原さんは言う。
「まあ、そもそも本当に私の家の猫なのか証拠も無いですし、私も嫌われてるみたいですから無理には引き戻そうと思ってません。人の言葉でも喋ってくれれば話は簡単なんですけどね」
どきり、と心臓が波打つ。その猫と話してきました、とは言えない。僕は何も返せなかった。
気付けば日は沈み、空には僅かに星が見えている。明るさだけならまだあるが、もう夜に取って代わられるのも時間の問題だろう。
僕から返事が無かった事に気を悪くした様子もなく、桐原さんは空を見上げた。
「こんなに暗くなってしまいました。付き合わせてしまってすみません」
「あ、いや、そんな事は無いよ。こっちこそニアを返さなくてごめん」
「いえいえ、もしうちの猫だったとしても、あなたの家に居る方が心地良さそうですしね」
あ、と桐原さんが呟いた。
「そういえば自己紹介もまだでした」
少し照れくさそうに笑う桐原さん。
僕はここぞとばかりに言う。
「そうそう、それなんだけど僕は同級生なんだ。多分知らないだろうけど」
「え、そうなんですか? す、すみません。私あんまり頭が良くないので……」
「桐原さんの成績で頭が良くなかったら生徒の大半が頭悪くなるから」
大半というか、全員だ。学年一位が何を言う。
桐原さんが困った笑顔を見せた。
「成績はただ努力しているだけですよ。そんなものは頭の良さには入りません」
はい、としか言えない。
何というか、耳に痛い言葉だ。学年一位も努力している。当然といえば当然だ。
しかし、桐原さんは意外と気さくな人らしい。僕の抱いていたイメージと少し違う。まあ、人間なんて話してみるまで分からない。僕の勝手なイメージで決めつける方が失礼だろう。
大分暗くなってきた。僕は周りを気にし始めた彼女を見る。
「僕は杉村道隆。桐原さん、そろそろ帰った方が良いんじゃないか?」
僕が話し終えた時、道に黒い高級車が止まった。運転席から黒いスーツを着た男が降りてきて、後部座席のドアを開けた。中には誰もいない。
桐原さんは黒いスーツの男に一つ手を振り、僕に向き直った。
「お迎えが来たので帰ります。えっと、差し支え無かったら電話番号を聞いても良いですか? 取り戻すとかそういうのじゃ無いんですけど、一応ニアちゃんの事もありますし」
災い転じて福となす。きっかけは完全に偶然だったが、思わぬ展開だ。
僕は桐原さんに電話番号を伝えた。
桐原さんは番号を書いた手帳をしまい、はにかむような笑顔を見せた。
「少し気恥ずかしいですけど、後ほど連絡させて頂きますね」
何故か僕は恥ずかしさや嬉しさよりも、安堵を覚えた。
「ああ、分かった。敬語も使わなくて良いから」
「あ、これは癖なんです。家が昔から言葉遣いにはうるさくて」
あんな高級車が迎えに来るくらいだ。相当なお嬢様なんだろう。
桐原さんは行儀よく頭を下げた。
「杉村さん、それではまた」
それじゃ、と僕は片手を上げる。
桐原さんと、初めて話した。更に少し仲良くなった。
でも、心は予想以上に冷静さを取り戻していた。
日はもう落ちていて、外灯の光に負けている。時々通る車の明かりが眩しい。
ニアと歩いて家まで戻る。会話は無い。ニアだって思う事があるだろう。
僕は話しかけないで歩いた。
家に着いて鍵を差し込む。足下のニアはまだ黙っている。
僕がドアを開けて玄関に入ると、ニアは動かずに目を伏せたまま話しかけてきた。
「道隆、今日はすまなかった」
「何がだ?」
「その、取り乱した事だ」
あの女に対して、と言う声に僅かにこもる負の感情。よっぽど桐原さんが嫌いらしい。悪い人では無かったが、昔何かあったのかもしれない。
「まあ、誰だって嫌いな人くらいいるだろうし、仕方ないんじゃないか?」
「……そうか、すまない」
「ああ」
ニアは動かない。
お隣さんに見られたらどうしよう、と僕が考え始めた頃にニアは話し出した。
「訊かないのか? ……あの女と私の事」
「話してくれるのか?」
「それは…………」
暗くてニアの表情は見えない。ただ、今にもどこかに行ってしまいそうな雰囲気がある。
まったく、本当に変な所で繊細な猫だ。僕はニアの首根っこを掴んだ。
「み、道隆っ、何を」
「良いから早く晩御飯を食べるぞ。僕は腹が減ったんだ」
抵抗するニアを持ち上げて中に入り玄関を閉める。洗面所のタオルを取って居間に向かった。
「今日は特別に何でも好きなもの食べて良いぞ。翔子さんには怒られるかもしれないけど、つまみだろうがアイスだろうが何だって良い」
テーブルにタオルを敷き、その上にニアを降ろす。外を歩いたせいで足先に土がついている。黒い毛が煤けていた。
僕は足の汚れを拭きながら言う。
「だから、出ていったりはするなよ」
ニアは驚いた顔をした後、僕の目を見据えた。
「……私は君と出会った時から嘘をついていたんだぞ。それも人として最低の部類の嘘だ」
「ああ、飼い主の話は嘘だったのか。まあ桐原さんが前の飼い主なら死んでるはずないか」
「それなのにっ」
ニアの黒い毛が逆立つ。
「道隆、君は何も言わないのか」
ニアの目が僕を射抜く。桐原さんを見ていた時と同じような色。
そんな真剣なニアの額にデコピンをした。
「いたっ! な、何をするっ」
「何をする、とかこっちの台詞だ。何かを言うのはニアの方だろう? それを言うなら洗いざらいこれまでの事を話してくれ」
結構痛かったのか涙目になっているニアが言う。
「うう、それは…………」
「言えないんだろ? 言えないならそれでも良い。別に今までと何かが変わる訳でも無いしな」
「でも、こんな嘘までついてのうのうとタダ飯を食らっていた猫なんていらないだろ!? 私だったらこんな猫は飼いたくない! 嘘つきでっ、我が儘で、太ってて、手間ばかりかかるお喋りな猫なんて……」
自分で言って自分で落ち込み始めるニア。賢いのか馬鹿なのか判断がつかない。
だから僕は言う。
「そんな事はどうだって良いんだ。大体、ここを出たって温室育ちのニアは野垂れ死ぬに決まってる。そうなったら後味が悪いし、一度拾ったからには最後まで面倒を見るさ。それに――」
何故か言い淀んでしまう。次の言葉を意識したら顔が熱くなってきた。上手く声が出ない。ちくしょう、なんでだ。たった一つの事実を言うだけなのに、妙に緊張する。桐原さんと話している時だってここまで緊張はしなかった。
そういうのではないのにまるで告白する直前みたいだ。
出てこい、言葉。
「――おまえはもう僕の家族だからな、うん。それだけだ」
僕は事実を言っただけ。出会ってからそんなに長くは無いけれど、ニアとはもう家族だ。改めて言うのがこんなに恥ずかしいとは思わなかった。思わずニアから目を逸らす。
不自然な沈黙が部屋を満たす。僕は何も変な事を言っていないはずだ。
コノヤロウなにか文句あるか、と思いながらニアを見る。ニアは僕に背を向け、器用にリモコンを操作してテレビを付けた。
「じゃあ道隆。お言葉に甘えて今日は翔子特製クッキーと柿ピーとポテチとアイスと道隆の夕飯を少しと、あと何かとびっきりに美味しい食べ物をくれ。おっ、良かった。見たい番組を見逃す所だった」
テレビから流れる笑い声。バラエティー番組らしい。
ニアはバラエティー番組をあまり見なかったはずだ。どちらかと言えばニュースや渋い番組を良く見ていた。いつもテレビを見るときに揺れるしっぽはしなだれている。
はいはい、と返事をして台所へ向かう。ニアが言ったつまみは全部無い。更に美味しい食べ物って何だ。
買い物に行くか、と思って玄関に向かおうとすると、ニアが普段通りの、普段通り過ぎる声で話しかけてきた。
「道隆、私は君に拾われて幸せだよ」
「そうか。僕もそんなに悪くは無いぞ」
振り返らずに家を出る。つまみは近くのコンビニで買えるが、今日は時間をかけて少し遠いスーパーに行ってみよう。美味しい食べ物も探さなければいけない。
あの黒猫は演技が下手だ。バレていないと思っているのか。僕は気の利く男だから、ゆっくり歩いて行こう。
急ぐ必要なんて無い。
帰れば、少し目の赤い家族が待っているのだから。
僕と桐原さん 了