猫と僕
7月の夕暮れ。纏わりつく熱気としつこい湿気が街中に満ちている。分厚い雲が空を包んで、今にも降りそうだ。
少し空を見上げた。
……―まあ、大丈夫か。天気予報は曇りだったし。しかし最近暑いねぇ。あぁ、牛乳まだあったっけ?
そんな事を思いながら歩きだす。
僕にとって重要な事は、今日の晩飯をいかに調達するか。もしくは空腹に耐えるか。残り300m足らずの家路を心配するより大事な事だ。
人生は、ままならぬ事が得てして起こりうる。
家まで残り100mを切ったとき、そんな言葉が浮かんだ。
「猫?」
そう呟く。凛、と佇む黒猫。その猫の周りだけ湿気や熱気を感じさせない雰囲気がある。
……―飼い猫か?珍しい。この辺じゃ猫なんて全然見なかったけど。
もう少し近づいてみる。
……―逃げないな。…ん?首輪がない。野良猫……か?
何故だか目が離せなかった。じぃっと見ていると雨が降り出した。結構強い。
……―やばい。早く帰らないとずぶ濡れになるな。
はっと気付いて歩き出す。黒猫は動かない。じっとこっちを見ている。
「じゃあな、黒猫。達者でな。」
自分でも柄にもないな、なんて思いながら黒猫の横を通り過ぎる。
「こんな美人。もとい美猫を見てもにぼし一つもやらないなんて。下町の人情はどこへ行った!腹へったっ!」
音速で振り向いた。誰もいない。さっきの猫が地面をのたうち回っているだけだ。うがーとか聞こえるが気のせいだろう。
「ははっ。えーと、おかしいな。確かに女性の声がしたような」
「はっ!?」
猫が飛び起きてこっちを見ている。その大きな黒曜石のような瞳が驚きでさらに大きくなったような気がするが気のせいだ。
「私の声が聞こえるのかっ?」
「聞こえない聞こえない。これは幻聴か幻覚かあれだ。夏の妖精のイタズラだ。よしっ!今日は晩飯はいいから帰って寝よう。」
「聞こえてるだろうがっ!こっちだ、ここにいる愛らしいにゃんこだよ!」
さっきまでの涼やかな雰囲気はどこへやら。一転して足に纏わりついてくる。
「なんだこりゃ…やっぱりこの猫の声なのか?」
「やった!通じるぞっ。にゃっはー!」
人生は、ままならぬ事が得てして起こりうる。
僕には、猫の首根っこを掴んで走って帰る事しか出来なかった。