墓守にだけ話す恋
しっとり大人向け
ユアンの墓へ持っていく花だけは、エレノアはいまも迷ってしまう。
白薔薇を三本、と言いかけて、やはりやめた。
薔薇は今日の気分には少し大仰すぎたし、何より彼の墓に持っていく花としては、いつものように慎ましいものがよかった。
リボンを結ぶ店の娘が、どうかなさいましたかと気づかわしげに目を上げたので、エレノアは微笑んで首を振った。
「いいえ。ただ、今日は少しだけ昔のことをよく思い出すの」
それだけで娘は納得したふうに、薄青いデルフィニウムと、小さな白い花を束ねてくれた。
春の終わりの花束は、軽いのに、抱えると心のどこかに重みを残す。
若い頃からそうだった。会いたい人に会いに行くとき、人は手を空けてはいられないのだと思う。
花でも、手紙でも、あるいは言いそびれた言葉でも、何か一つは抱えていなければ、その人の前に立つことができない。
墓地へ続く坂道を歩きながら、エレノアはひどく落ち着かない心持ちでいた。
昨夜、眠る前に開いた古い手紙のせいかもしれない。便箋の端はすっかり柔らかくなり、インクもところどころ薄れていたのに、そこにあったたった一行だけは、若い日の熱のままでエレノアの胸に残っている。
──俺が死んだあと、君が他の人のものになるのは耐えられない。
なんて、青くて、勝手で、可愛い言葉だろうと思う。
そして、なんて残酷なのだろうとも。
墓地の門をくぐると、いつものように空気の温度が変わった。街路の陽気なざわめきが遠のき、土と石と若葉の匂いが近くなる。
エレノアはほっと息をついた。ここでは、何かを装わなくていい。
商会長でも、侯爵家の娘でも、五十八歳の未婚の老嬢でもなく、ただひとりの人を生涯愛してしまった女でいられる。
イチイの樹のそばの墓石は、朝の光を受けてひんやりと白かった。
「おはよう、ユアン」
エレノアは小さくそう言って、花を置いた。
こういう挨拶を口にするようになったのは、いつからだっただろう。
若い頃は泣くばかりで、何を言っていいかわからなかった。
三十代では、生きるのに忙しくて、墓前でも仕事の愚痴などを言った。
四十代を過ぎてようやく、日常の始まりのように話しかけることを覚えた。
死者との付き合いにも、年季が要るらしい。
「今月はね、決算が少し骨でしたのよ。でも勝ったわ。あなたなら褒めてくださるでしょう」
返事のない墓に向かって、エレノアは自然に微笑んだ。その微笑みを見ている者がいるとしたら、きっと可笑しいと思うだろう。
だが、ここでやる可笑しいことほど、もし墓石の下に眠る人が生きていたとしたら、してやりたいことなのだとエレノアは思う。
背後で砂利がかすかに鳴った。
振り返ると、ジョナスが立っていた。
黒い作業着に土の色が染みて、相変わらずここの墓地の一部のような男である。
「おはようございます、お嬢さま」
「おはよう、ジョナス」
「今日はお顔が少し、お疲れです」
「花屋の娘さんにも同じことを言われたわ。そんなにひどい顔をしているかしら」
「ひどくは。ただ、眠りが浅かったのかもしれないと」
エレノアは小さく笑った。
「あなたは、ときどき妙に鋭いわね」
「墓地では、泣いたあとと眠れなかったあとは、だいたい似た顔で来られますので」
彼の言い方があまりに現実的で、慰めの気配がないものだから、かえって少し救われる。
エレノアは墓石から手を離し、近くの石の縁に腰を下ろした。風が吹いて、帽子のつばがわずかに揺れた。
「昨夜、昔の手紙を読んでしまったの」
ジョナスは黙って立っていた。話してよい、ということなのだと、もう長い付き合いのなかでわかっている。
「何通もあるのだけれど、その中にね、どうしても毎回つまずく一文があるのよ。あの人が戦地で書いたもの」
エレノアはそこで少し言葉を切った。言い慣れたはずなのに、その一文だけは口にするたび若い頃の自分の喉を通るような気がする。
「俺が死んだあと、君が他の人のものになるのは耐えられない──ですって。ひどいでしょう」
ジョナスは、意外にもすぐには頷かなかった。考えるように眉のあたりがわずかに動いてから、低く言う。
「若い男ですから」
「そう。若い男の人だったの。そこが、いまでは愛おしいのよ」
エレノアは自分の膝に置いた手を見下ろした。薄い皮膚の下に青い血管が浮いている。もう少女の手ではない。商会の書類を捌き、手紙に返事を書き、印を押し、帳簿を繰ってきた手だ。
けれどその手が、いまなお当時の便箋の感触を忘れていないのだから、人の身体というものはなかなかに頑固だ。
「若い頃はね、あの一文に縛られたの。嬉しかったのよ。あの人がそれほど私を欲しがってくれることが。誰のものにもならずにいることが、愛を守ることのように思えたわ」
「……ええ」
「でも、年をとると、少しずつ別のふうに見えてくるのね」
風が吹き抜けて、イチイの影が墓石の上を揺らした。
「たぶんあの人は、怖かったのよ。死ぬのが。置いていくのが。わたくしが、自分のいない未来を生きるのが。だから手放せなかった。それだけのことかもしれないの」
ジョナスは土を払った手を背中で組み、黙ってエレノアの言葉を待った。
「けれどね、彼のもののままでいたかったのは、わたくしの方なの。そこを間違えたくないのよ」
エレノアは自分でも驚くほど静かな声で言った。
「彼に命じられて独りでいたのではないわ。あの人以上の人がいなかったのも本当。仕事が面白くなっていったのも本当。でも、わたくしは、自分で選んだの。彼を愛したままでいることを」
ジョナスがわずかに目を細めた。
「それで、よろしかったのですか」
「ええ、よかったの」
エレノアはためらわず答えた。
「寂しいことはあったわ。子どもがいたらと思ったことも、もちろんある。誰かと食卓を囲む暮らしを羨ましく思わなかったと言えば、嘘になる。でも、それでもよかったの。あの人を愛する私の人生は、ちゃんと私のものだったもの」
そう言いながら、エレノアはふと、十三歳の春を思い出していた。
あのときエレノアは、庭園の石段で本を読んでいた。
侯爵家の邸で開かれた茶会の午後、客人たちの声を煩わしく思って、少し離れた東屋のそばへ逃げてきていたのだ。
そこへ、一冊の本を拾って差し出した少年がいた。
日焼けした手、見上げるとまっすぐすぎるくらいまっすぐな目。
男爵家の三男で、兄の学友の従弟にあたると後で知った。
「落とされました」
その声は、驚くほどぶっきらぼうだった。
礼儀を知らないわけではない。ただ、十代の少年にありがちな、言葉を削りすぎた不器用さがあった。
「ありがとう」
本を受け取るとき、彼の指がほんの少しだけ触れた。若葉の匂いのする午後だった。そんなことまで、いまも思い出せる。
「一目惚れでしたか」
不意にジョナスが言ったので、エレノアは目を見開いた。
彼がこんなことを訊くのは珍しい。
「まあ。あなた、そんなことを訊くの」
「訊いてみたくなりました」
「……一目惚れというほど華やかなものではなかったわ」
エレノアは笑った。笑いながら、胸の奥が少し温かくなる。
「でも、二度目に会ったときには、気になっていたと思う。最初に好きになったのは、たぶん、彼の手よ」
「手、ですか」
「ええ。本を返してくれるとき、紙を乱暴に扱わなかったの。頁を折らない人だった。そういうところで、ひとの育ちや心根って見えることもあるでしょう」
ジョナスは少し考えたようだったが、やがて「なるほど」とだけ言った。
その素直さが、可笑しかった。
ユアンが十五で、エレノアが十三。
はじめは、ほんの数回、顔を合わせただけだった。
兄たちの話の端にいる、無愛想で背の高い少年。
けれどある日、貸した本に挟んでおいた栞が返ってきた。
そこには拙い字で、「終わり方が好きでした」とだけ書いてあった。
たったそれだけで、エレノアの胸はひどく騒いだ。
「それから、よく本を貸し借りしたの」
「お屋敷で?」
「ええ。庭で、温室の脇で。見つからないように、なんていうほど大げさなものではなかったけれど、なんとなく人目を避けていたわね。若い恋は、隠しているつもりがなくても隠れるものなのよ」
本の話をするユアンは、普段よりよく喋った。
歴史書より詩が好きだと知ったとき、エレノアは少し驚いた。
剣術や馬術の話ばかりしそうな見た目なのに、彼は夕暮れの色や、冬の川面の描写の話になると、途端に言葉がやわらかくなった。
たぶんあの頃から、彼はただ勇ましいだけの人ではなかった。恐れも、優しさも、嫉妬も、全部抱えた若い男の人だったのだ。
「十六の夏に、初めて手をつないだの」
エレノアは墓石に向けていた目を少し遠くへやった。そこには何もない。ただ若葉の光がこぼれているだけなのに、その向こうに昔の庭園の夕暮れが重なる。
「雨が降りそうな日でね。あの人、わたくしを馬車まで送ると言って、誰もいない小道を歩いたの。途中で雷が鳴って、わたくし、少しだけ驚いてしまって」
エレノアは自分の指先を見た。
「そうしたら、彼が手を握ったの。自分の方がずっと緊張していたくせに、平気な顔をして」
ジョナスはうっすらと口元を緩めた。
笑った、と呼ぶにはあまりに控えめだったが、それでもエレノアにはわかった。
「そんなふうに笑うのね、あなた」
「若い方々の話は、少し」
「楽しい?」
「ええ。大切そうですから」
その言葉に、胸の奥がやわらかくほどける。
そうなのだ。楽しいのだ、思い出すことは。
切ないばかりではない。
失った恋の記憶を語るというと、人はすぐに涙ばかりを期待するけれど、本当は違う。
愛した日々には、ちゃんと可笑しさがあり、恥ずかしさがあり、胸の弾むような幸福がある。
そうでなければ、こんなに長く抱えてこられるはずがない。
「初めて口づけしたのは、十七の冬だったわ」
言ってしまってから、エレノアは少し頬が熱くなるのを感じた。五十八にもなって墓守相手に何を話しているのだろうと思う。
けれどジョナスは眉一つ動かさない。ただ土の上に立つ木みたいに、そこにいる。
「温室の裏で?」
「……どうしてわかるの?」
「若い方々が人目を避ける場所は、だいたい似ております」
エレノアは吹き出した。
「いやだ、あなた、そういうことをたくさん見てきたのね」
「墓守になる前から、それなりに」
それ以上は言わないところが彼らしい。
エレノアは笑いの余韻を残したまま、そっと続けた。
「あの日は雪が降る前で、とても寒かったの。あの人、何か言おうとして、うまく言えなくて、わたくしも困ってしまって。黙っているあいだに、息が白くなるのが可笑しくて、二人で笑ったのよ。それから、急に静かになって……」
その先は言わなくても、風のなかに残った。
ユアンの唇は少し冷たくて、けれど触れたあと、どうしようもなく熱かった。
少女だった自分は、その夜、鏡の前で何度も自分の顔を見た。何かが変わったような気がして。
もちろん見た目は何も変わっていないのに。
「十九になるころには、わたくしたち、結婚したいと思っていたの」
その言葉には、さっきまでの淡い笑いとは違い、影が差した。
「でも、家は許さなかった。男爵家の三男と侯爵家の娘ですもの。兄はまだ優しかったけれど、父がだめだったわ。冗談みたいにきっぱりと、会うなと言われた」
ジョナスの顔が少し険しくなった。
彼は詳しい身分制度の機微に興味はなさそうだが、不当な力の使い方には本能的に顔をしかめる。
「最後に会ったのは、わたくしが二十になる少し前」
エレノアは息を吐いた。
「あの人、半年待ってくれって言ったの。何とかするからって。いま思えば、何ともできるはずがなかったのにね。若いうちは、愛しているとき、自分にできないことの境目が見えないのよ」
彼はそのまま戦地へ送られ、半年後に死んだ。
そこだけを取り出せば、悲恋はひどく簡単な形をしている。
だが本当の痛みは、その前後にこまごまと散っているものだ。
待つあいだに届いた数通の手紙。便箋のすみに描かれた下手な馬の絵。戦場のことはほとんど書かず、やたらと天気の話ばかりしていたこと。最後の手紙だけ、珍しく本音がこぼれていたこと。
「死んだと聞いたとき、最初に思ったのはね」
エレノアは少し躊躇ってから言った。
「信じられない、ではなかったの」
ジョナスは黙って聞いている。
「ひどいでしょう。わたくし、そうなる気がしていたの。若いころって、悪い予感ほど鮮やかに当たる気がするもの。だから知らせを受けた瞬間、ああやっぱり、と思ってしまった。そのことを、ずっと少し後ろめたく思っていたのよ」
墓前でしか言えないことがある。
死者に向けても、生きた人に向けても。
ジョナスに話しているのか、ユアンに話しているのか、自分でも曖昧になる瞬間がある。
たぶん、それでいいのだろう。
長年ひとりで抱えていた言葉は、誰か一人が静かに聞いてくれるだけで、少しだけ形を変える。
「でもね」とエレノアは言った。
「わたくしは幸せだったと思うの。あんなに若い頃に、あれほど誰かを好きになれたこと」
ジョナスは少しだけ驚いたように見えた。
「失ったのに、ですか」
「そうじゃないわ。愛したから、よ」
エレノアはそう言って、墓石に触れた。
「失ったことは不幸だった。もちろんそうよ。あの人と歳をとりたかったし、喧嘩もしてみたかったし、くだらないことで呆れたかった。でも、愛したことそのものは、わたくしの人生でいちばんきれいなことの一つだったの」
春の終わりの光が、石の表面をなでていく。
ジョナスは何も言わなかった。何も言わないことが、いちばんの返事に思えた。
「商会でね、ときどき言われるの。おひとりでよくここまで、って。ええ、本当にそうね、と思うわ。よくここまで来たものよ。恋を失って、家の商いに飛び込んで、数字を覚えて、人を叱って、人を守って、いまではずいぶん図々しい会長になってしまった」
ジョナスがほんの少し笑った。
「図々しくは見えません」
「それは外向きの顔よ」
「墓地では違う、と」
「ここでは少し、馬鹿になるの」
その言い方が自分でも可笑しくて、エレノアは声を立てずに笑った。
墓地に笑い声があるのは、案外悪くない。
しばらく二人で黙っていた。風が、花束のリボンを揺らした。
やがてジョナスが、低く言った。
「お嬢さまは、いまもあの方のもののままでいたいのですか」
その問いは、驚くほどまっすぐだった。
エレノアは少し考えた。若い頃なら、すぐに頷いただろう。けれどいまは、そう単純ではない。
「少し違うわね」
エレノアは静かに答えた。
「いまは、あの人がわたくしの中にいる、と言うほうが近いかもしれない。あの人のもの、というより、あの人を抱いたままのわたくしなの」
その言葉は、自分でも思いがけずしっくりきた。そうなのだ。所有ではなく、共生。
若い恋の熱はもうないけれど、消えたわけでもない。長い年月のなかで角が取れ、骨のように身体の内側に馴染んでいる。
「だからね、たぶん、これからも来るのよ」
「変わらず毎月」
「ええ、そうね」
ジョナスは頷いた。
「来られるでしょうね」
「来るわ。膝がもっと痛くなっても、杖をついてでも」
そう言うと、ユアンなら笑うだろうと思った。きっと、無茶をするなと言いながら、少し嬉しそうに。
エレノアは立ち上がった。膝に少しだけ年齢が出る。墓前では少女でいられても、身体までは昔に戻らない。それが少し残念で、でもどこか愛おしい。
「今日はたくさん話してしまったわ」
「ええ」
「迷惑だった?」
「いいえ。よいお話でした」
「あなたに、そんな感想をもらう日が来るなんてね」
エレノアは笑って、最後にもう一度墓石を見た。
「また来るわ、ユアン」
その一言は、別れの言葉ではなかった。
当たり前にある次の約束のように、静かに滑り出た言葉だった。
墓地を出て坂道を下りながら、エレノアは胸のうちに少しだけ新しい静けさがあるのを感じていた。
何かが解決したわけではない。失われた年月は戻らず、二十二歳の恋人はこれからも墓の下にいる。
けれど、長いあいだ自分の中だけに閉じ込めていた思い出のいくつかが、ようやく言葉になった。
それだけで、人は少しだけ息がしやすくなるのだろう。
そしてたぶん来月も、エレノアはまた花を選ぶ手を迷わせてから、この道を歩くのだ。
愛というものが終わらないのではなく、終わらせる必要がないのだと知りながら。




