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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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クズと屑籠

 こんにちは、的本湿香です。

 午前十時頃のことだ。夜勤明けから直接行った買い物から帰宅すると、私の部屋は見渡す限りの督促状だった。だなんて突然言われても状況の把握を戸惑われるだろうが、借りぐらしのリビングルームの食卓上にホストクラブのシャンパンタワーみたいな雰囲気で山積みされた封筒は勿論、壁に「返済求ム」と書かれた書状が隙間なく糊付けされているし、床にも同じようなことが書かれた紙が大小様々な形で散乱していた、と説明すれば辛うじてご理解頂けると思う。このような奇特な状況、理解しづらいのに無理もない。私の家に訪れた悪夢が異常過ぎるだけだ。

 一夜城ならぬ、一夜督促状。

 悪い魔法使いがやってきたとしか思えなかった。

 ■■■

 督促状の色は、とりどり。鮮やかな原色使用。嫌でも目を引くポスターカラー採用の紙々は、無闇な金の借用を躊躇わなかった愚者を無感情に追い詰める――無論、愚者というのは私のことではない。この家に数ヶ月前から居候させている職場の上司、全ては人間のカス麻露先輩のせいである。彼女が来るまではここはもっと綺麗で清純なプライベート空間だったはずだ。それがなんですか、糊付け七色督促状って。どうしてこうなってしまったの。昨日まではちゃんと壁見えてたよ。一種のリフォームと割り切るにしては趣味が悪すぎる。

「ああ! ああ! あーっ! あーもう! 先輩、先輩ぁーいっ! 人間のクズさーんっ!」

 床の封筒に混じった大量の味付け海苔のボトルは、私の私生活をじわりじわりじわりんちょと侵食していく魔女、麻露先輩の象徴だった。歩くたびに爪先にぶつかる安いプラスチックの感触を不快に感じつつ、諸悪の根源の元へ向かう。先輩はソファに涅槃像のような格好で埋もれながら、お気に入りの味付け海苔のボトル片手にパリパリ摘んでいる。視線の先には型落ちのテレビが映っていて、この町の競馬場で興行中のレースがリアルタイムで実況中継されていた――大外からボブカットシャインを捲ってスピリチュアルノアが飛ぶ。しかしアオニサイモモンガ、集団を抜けて離した。もはや後続追いつけない。二頭の一騎打ち。一騎打ちだ。抜きつ抜かれつ蒸気機関のよう。これは分からない。スピリチュアルノアか。アオニサイモモンガか。スピリチュアルノア。アオニサイモモンガ。今もつれ合って、ほぼ同着ゴールインッ。

「っし、やっぱスピリチュアルノアだろ! じめかちゃん、お前もそう見えたよな――ってて、痛たたたたたたいっ!」

「お馬ちゃんかけっこもいいですけど、周りの壁が見えないわけじゃありませんよね」

「っつー。ああ、今朝帰ったらこうなってたんだよ。七時くらいに、じめかちゃん買い物するからーってウチと別れたじゃん? ウチ、そのままちゃんと寄り道せずに帰ったよ。なんも余計なことしてない。で、こうなってた」

「それでよく正気のまま呑気にテレビなんて見てられますよね……あの、ところで、ねぇ先輩、最後にお風呂入ったのっていつですか」

 テレビの中の実況さんが着順審議のランプが点灯していることを興味深そうに知らせるのを遮るように、じめかちゃんこと、先輩の後輩たる私――的本湿香(19・女)、以後お見知り置きを――は、彼女の頭部から漂う異臭に鼻をつまみながら言及する。

 アノウ、チョット持論ヲ言ッテモ良イデスカ。

「ドウゾ、言ッテクレ」

「地の文に返事をするな。無闇なメタは作品を滅ぼすぞ」

 気を取り直して持論を言います。

 若い女性の頭というのは基本的にいい匂いがするもので、というか絶対にしなければいけないもので、全ての女性は身嗜みのお手入れ義務を負っているのですよね。私も日頃から香水やら、制汗剤やらジェルやら泡泡クリームやらで、髪のお手入れには心底気を遣う(今みたいな夏場は汗ばむのだし特に)。というか髪以前に私は綺麗好きで、それなりの潔癖症を自覚していて――だから同居している職場の上司の頭が臭いのは私にとって日々の生活を揺るがす大厄災、大問題、大事件と言って全く差し支えないし、というか普通に嫌っ。全くもってすべからく嫌嫌っ嫌っ。

 嫌すぎて堪忍袋の緒を引きちぎりそうだ。

 私は不潔という怠惰を絶対に許すつもりはない。

 そもそもここは私が自分で稼いだお金で借りている家なのだから、居候する立場としては謙虚な姿勢こそ唯一なる是とし、郷に行っては郷に従うべきというものではないのか。どうしてこの馬鹿阿呆頭クサクサ先輩は朱を混ぜても赤くならない。自己を貫くというのは条件が揃えば美学なのだけれど、それ以外の八割方はただの迷惑行為に過ぎないのだと先輩にはヨクヨク認識して頂きたい。私より十年ほど長生きしてるのだし、その塩梅を巧みに操ることで流石は年の功というところを見せて欲しいのである。

 少なくともお馬ちゃんかけっこの鑑賞が年相応のスマートさを秘めているとは私には思えない。

「あのねぇじめかちゃん。お馬ちゃんかけっこじゃなくこれには競馬というれっきとした競技名が」

「私はいつ湯浴みをしたのですかと訊いたんです」

「うむ、風呂に入ることを湯浴みと表現する奴に会ったのは久しぶりだな」

「ええ。じゃあやっぱり前にも誰かに言われたことが?」

「小四の頃に読んだ小説の登場人物が言ってた」

「……私の忠告は本の中のフィクションみたいに現実味が無いって言いたいんですか?」

「ご、ごめんごめん。本当に、単にそんなことあったなぁってだけ」

「もう付き合ってられません。麻露先輩、今すぐ私の家から退去してください。これは命令です。不当にも、後輩が先輩に命令しちゃいますよ。いくらなんでも無理、耐え切れません。先輩の頭臭いし、私が不在の間に部屋が督促状で埋め尽くされるなんてのは、もうホント嫌なので。帰宅して早々、夢でも見たのかと思いましたよ」

「夢じゃないぞじめかちゃん。寝ぼけてるのか? ん?」

「あの、マジで殴って良いですか?」

「だーめ。じめかちゃんに前科が付いちゃうでしょ」

「訴えさせませんからね」

「馬ぁ鹿。訴えないよ。可愛い後輩だもの」

「……チッ。今の侮辱罪ってことになりませんかね。私、これ以上先輩に犯罪歴が増えていくのを見てられません」

「お前は本当に優しい後輩だな。好きだぞ、ちゅっちゅー。ウチには勿体ないくらいだ」

 コメカミを走る血管がブチブチ千切れていく音がする。私は麻露先輩を確実にこの家から追い出す決意を新たにした。もう誰にも止められない。総理大臣が止めても、決して止まるものか。

 先輩は片手で茶色い瓶に入ったお酒を喇叭飲みして――「ぷはぁー」ですって――片手で何やら文字が書かれた小さな紙の束を勢いよく宙に放り投げた。一枚拾って確認すると、スピリチュアルノア以外にお金が賭けられたいわゆるハズレ馬券である。しかもどの券にも千信、二千信、一万信と中々の金額が賭けてある。軽く集めて見聞してみるが、アオニサイモモンガには一信たりとも賭けていないようだ(嫌ってるのかな?)。しかし先輩め、一体どこにこれだけのヘソクリを隠していたのだろう。当田麻露(27・女)直属の部下になってから一年が経過しようとしているが、私は未だに彼女という人間個体を尊敬するには至っていない。これからもそうだろう。

「夏場に髪を洗わないでどうするんですか。先輩だって脂ぎって痒くって気持ち悪いでしょう。お洗濯は半分こ、枕は週一で干す、エアコンは寝るときだけ、体は毎日洗うって、そうしないと同居は打ち切るって、初めに約束しましたよね? 指切りげんまんで確実に締結しましたよね?」

「ほ、他の約束はちゃんと守ってる! ちゃんと携帯代もウチのお財布から出してるし」

「それは当たり前です。ほら見てください、あそこの壁。あの督促状なんて、封筒が金ピカですよ。あんなにテカテカの金紙、小学生の頃後生大事にしてた、セットに一枚か二枚しか入ってないレアな折り紙でしか見たことないです。とっても目立ちますねぇ。よほど重篤な滞納をしてるんでしょう」

「おおー、確かに久しぶりに見たなあの照り。この後一緒に鶴でも折ろう。この数だときっと千羽は余裕だな。完成したら近くの病院に寄付しよう。きっと徳が上がって、今度はもっと盛大に勝てるよな」

「督促状で折った鶴で、徳が……?」

「おみくじでも縁起の悪い大凶は結ぶじゃん?」

「あぁなるほど〜! って納得するかボケ! まずは開封せよ! 中身を熟読せよ!」

「キレすぎて語尾が武士みたくなっとる」

 麻露先輩が驚異の五百万信を滞納していると判明したのはそれからまもなくの事だった。無論五百万ポッキリという筈もなく、諸々の諸費を抜いての概算だし、利子だって各方面から一日一割のペースで積み増しされるようだ。明日には六百の大台が見えてくるよと中年のマラソンランナーみたいに感傷ぶってふてぶてしく言うので、一度ぶってやった。先輩は私がぶったことについてぶつぶつブーイング呪詛を垂れたが、部分的に掻い摘んで先輩がやらかしたことを並べ立てると、それこそ潔い武士の如く、ようやく分を弁えたようである。不格好極まりない。

 案の定公的な銀行や質屋ではなく裏社会に根を張る闇金業者から借り入れを行なっていた麻露先輩は、洗いざらい全てを私に告白した後、一切動じない見事な土下座を披露した。泣きも喚きも口答えもせず、ただ小さく全身を丸めての謝罪である。許せとも済まないとも言わなかったが、カスのような誠意だけは微かに伝わる。

 そうして、まだ激情が中に残っていた私は身動きをしない彼女の背中にペタペタ督促状を貼ったり、椅子にしてカップラーメンを食べたり、あとは前髪をかなり短めにカットしておでこの曖昧な位置に毛先がソワソワ触れるイライラを堪能してもらったり、右の人差し指だけを残して爪を切り揃えたり、それから新しいほくろをマジックペンで二十個増やしたり、鼻の穴に新鮮なわさびチューブの中身をねじ込んだりして二時間ほど遊んだ。溢した塩スープが先輩の背中の敏感なところに当たって可愛い鳴き声を上げたところがハイライト。ああ、録画しておけば一生使える弱みをこの手に握れたのに。

「拷問だろこれー! マジで訴えるからな⁉ 前科を差し上げちゃうぞ!」

「先輩。私って優しい女であろうと日々頑張ってます。でないと、いつかみんな私を助けてくれなくなると思うんです」

 そうこうしている間に私の頭も少しだけ冷えてきた。冷静に考えてみると、こんなカスの先輩を放り出したところで彼女がマトモに生きていけるとは考えにくい。きっとすぐそこらで何らかの理由で野垂れ死ぬに決まっている。もしそうなれば私はれっきとした殺人者で、それこそ前科がくっついてしまいかねなかった。六ヶ月同居しているからこそ分かる、当田麻露先輩を経済面精神面ともに支えていけるのは、この私、的本湿香のみに他ならない――自分のゴミは、当面の間は側に居てもキツくないように、自分で綺麗に保ってやろう。ここは持ち前の親切心を発揮して、未来への投資にする方が得策である。

「うん、素晴らしい考え方だ。流石じめかちゃん。ウチもそう思うから訴えないよ。雑な扱いは親愛の裏返しなんだもんな」

「ええ、やっぱり私、先輩のこと大好きですよ。だから今まで見逃してた居候代(六ヶ月分六万信)払ってくれれば同居だけは継続させてあげます」

「支払いが五百六万に増えただけだと……⁉ なんとか立て替えてくれないの⁉」

「十も歳下の職場の後輩にそれ言いますか……救えないクズですね」

 一ヶ月一万信なんて破格もいいところだろうに。

 言いながら私は先輩の背中に貼ってあった督促状の一つをペリペリ剥がして中身を取り出し、ここで黙読してみた――ざっと部屋を見渡した限り最も多くの枚数を送ってきた組織のものだ。「ダラーク金融」と銘打たれたその書状にはまるで穏やかさを感じない明朝体で、極めて丁重な脅迫文が記されている。ダラーク金融の名は、実はかねてより把握していた。最近働き先の社内で噂になっている、悪質を通り越した闇の世界の貸付業者だ。もちろん同じ職場で働く先輩の耳に入らぬ筈もなく、味付け海苔とパチンコと競馬とアルコールとお煙草と……それらカスの嗜みにお賃金とおヘソクリを注ぎ込んだ結果、こんな怪しい組織に頼らざるを得なくなったというところだろう。

「例のダラーク金融に行きましたね? それもこの『お手紙』の量、一度や二度じゃないはず。そのたびにお金を借りて賭け事に突っ込んでは大負け、焦れば焦るほど、何度も貸してくれるダラーク金融に入り浸り、他の業者にもちょくちょく頼り、結果……こんなことになってしまったと」

 改めて見ても、督促状に塗り固められた壁も床も天井も、ある意味では壮観だった。今後二度と拝むことは出来ないであろうインテリアデザインに、心底呆れを含んだ軽蔑の溜息と舌打ちが出る。

「……悪かったよ。まさかここまで事態が大きくなるとは思わなかった。じめかちゃんに迷惑がかかるのは、私も望むところじゃない。隠してたのは、お前に心配かけたくないのと……その、じめかちゃんに、嫌われたくなかったから。ウチ、それが一番怖くって……悪いな」

「もう謝罪は聞き飽きましたよ。そろそろ解決に向けて動いていかないと。でないと時間をゴミにするだけです」

「うん……ごめん」

「だからですね、問題の根本をこれから断ちに行きませんか。聞いてくださいよ、私、私の部屋をこんな光景にしやがった奴を今更許せません。麻露先輩の所業も勿論許せませんが、これはもう別件で許せないんですよ……! もはや先輩だけの問題ではありません! お灸を据えなければならない相手が、今は先輩と私で共通している! これは利害の合致! 私たち同居人同士、今は罵りの言葉を互いの腹の奥に引っ込めて、手を組むべきです」

 メラメラ私の闘志が燃え上がるのを感じる。この怒りが本当に炎を伴って督促状と、ダラーク金融を始めとした闇金業者どもを火炙りの刑に科せたらどれほど素敵か。私の家を趣味の悪い紙屑の束で汚した罪は星よりも重い。笑止千万に値する。私は汚いもの、醜いもの、曲がったものがたまらなく大嫌い。反吐が出る。カスカスカス。そんなゴミは、真っ先に真っ赤に燃やして灰にしてしまうに限る。燃やせば体積が減って処分も楽だから。

 こうなると、敵が潰しても誰も文句を言わないアウトローの手合いで助かった。

「私は! この町一番の! 綺麗好きを自負しているんです! 督促壁紙もブチギレ案件ですがこの際です、抵抗出来ない弱者からお金を巻き上げる浅ましさ、見るに堪えない! ここは真っ向勝負を仕掛けましょう! 今回の件でもうプッツンですよ、今すぐそんなことをする奴らを締め上げてやりたい!」

「お、おう。熱いな。気持ちは分からんでもないが」

「この部屋に悪い魔法をかけた悪徳ウィッチを退治するのです。まずは鬱陶しい小虫……先輩が借り受けた色んな闇金業者を壊滅させましょう。それを積み上げていって、締めはかの悪名高いダラーク金融で飾るんです。溜まりに溜まった借金を片っ端から踏み倒していけば、あとは先輩はたった六万信を私に支払うだけで元通りの生活に戻れます」

 汚れた会社は一つ残さずお掃除したいし、麻露先輩には普段の生活態度を改善していただきたいので、私はその両方を解決できるプランを練っていた。ただ何も考えず二時間ぼーっと先輩を蹂躙、じゃなかった、可愛がっていただけではないのである。二人で協力して闇金を撃退し、先輩には誠意の六万信を支払わせることで後腐れも解消、彼女はこれに懲りて二度と自堕落な居候生活を送ろうとはしなくなる筈だ。これが成功した暁には、お料理でも付きっきりで教えてあげて、職場のお昼休みに食べるお弁当を作ってもらおう。

 これは今から楽しみです、シメシメです。

「なるほどな……確かに六万だけならなんとかなるか。給料日も近いし。やっぱ優しいな、じめかちゃん」

「べつにそうでもないですよ。六万信なんて課さない人が本当に優しい人だと思います」

「そこら辺にいる人間よりも優に優しいんだよ。でも壊滅つったって、優に優しいならぬ、言うは易しってやつだろ。なんか具体的な策は?」

「先輩の持つあの『魔法』があれば、チョチョイのチョイ助な筈です。どうして今までされるがままだったのか不思議なくらい」

 お尻の下の麻露先輩は、私の提案に対し押し黙った。私が言った「魔法」とは言葉通りの意味で、この世で先輩しか持ち得ない特異才能の事である。それさえ余す所なく活用していれば、今頃先輩は私と同じ職場で出会うこともなく、大金持ちで、何でも食べられて、一生誰かに体を洗ってもらえて、一国の主になっていてもまるでおかしくはない、それほどの才覚。詳細は後述。

「……知ってるだろ。ズルだと思ったんだ。ウチが汎ゆる賭けで負けまくったのは、ウチに運が無かったせいさ。運命に歯向かって強引に幸せ手に入れたところで、ウチはそんなの納得出来ねぇよ。運ってのは、天の意志だ。だから力を使うのは、ただのズルだと思ってた」

「相手が理不尽を一方的に叩きつけてきたなら、その瞬間からそいつは敵なんです。敵にはどんな手段を使っても勝たないと、その時点で人生終わりなんですよ? ある日突然通り魔に遭って刺されて死んでも、それでも先輩は『運がなかった』って許しちゃうつもりなんですか?」

「許しはしないけど、納得はする。ウチはここで死ぬ、そういう運命だったんだなって」

「……分かんないです。どういう人生観なんですかそれ」

「まー、心配してくれるのはありがたいけどさ、お前はお前の生き方を貫けば良いと思うよ? ウチもそうしてるんだし」

 麻露先輩はいつだって楽観的視点を崩さない人で、行く手を阻む障壁が立ち塞がった時は良くも悪くもその場凌ぎの天任せで突破し、泰然自若の立ち居振る舞いにしておよそ三十年間を生き残ってきた――「なんとかなる」と確信していなければ、こんな危険な綱渡りは出来ない。よって彼女は平気な顔をしてハイリスクハイリターンのリングに躊躇なく上がっていくものだから、寝床を貸している私としてはヒヤヒヤしっぱなしという訳である。ついでに言えばその悪い予感は大抵的中し、先輩は毎度の如く何かしらトラブルを背負って帰ってきて、気さくな「おかえり」を振り撒きながら私の家のリビングにドンとそれを置きに来るのだ。邪魔だし汚いから、私が主戦力として片付ける他ないのがホント、マジで癪に障るったらないのですよ。

「や、今回は特別ツキが回ってこなかったな。今度拝電神宮参拝しに行くべ。命を運んでくると書いて運命、ってな」

「……命」

「命だよ。このままだと近い内にじめかちゃんに見限られちゃうかもしれんし、そしたら路頭に迷うし、十中八九脅かされるだろ。賽銭投げて、対策対策」

 運命の一言で自分の生き死にまで賭けるのかと、私は少しゾッとさせられるような気がした。

 そもそも、麻露先輩が賭け事を行った場所は公営や信頼あるチェーンの賭博場だけでなく、バーや路地裏に集まったプレイヤーとの非公式な個人対戦もあっただろうし、どこかでそれこそ闇金業者の息がかかったマシンや道具、卑劣な手段を暗に仕掛けられた場合も考えられる――つまり、先輩の運など関与する隙もない、手の凝ったイカサマで搾り取られた可能性を否定できない。すれば、己の運に拘って潔く自身の負けを認める先輩ほど格好の餌食もいまい。これはなんと、思ったよりも深刻な事態に陥っているのかもしれなかった。まさかとは思うけれど、これ、複数の業者間で名前と顔をカモとして共有されてるのかな。少々突飛だがあり得ない話でもない。

「ウチさ、だからじめかちゃんと出会えたのも、運命だと思ってる。こんな幸運はねぇよ。一生感謝しても返しきれないくらいの、でっかい贈り物ってやつかも。たとえ『力』でのし上がってたところで、お前がいなきゃ……きっとつまんなかったし――ウチ、今生きてるかも怪しい」

「……麻露先輩ってば、純粋すぎます。性善説ってやつですか? 馬鹿馬鹿しいですね。残念ながら私たち含めて人間って、理性で押さえつけてるだけで、悪い人がほとんど。横暴な催促を繰り返す返済しろしろモンスターズもその一味です」

「うん、そうかもね。じめかちゃんが言うと、不思議とそうかもって思っちゃう」

「い、いちいち褒めないでください。先輩、奴らに立ち向かいましょう。目には目を。歯には歯を。魔法には魔法を。そして毒には毒を、ぶっかけろ、ですよ」

「……ホントに19歳なんだよな、お前」

 先輩には時々歳を確認されるが、どういう意図で聞いているのかは毎回よく分からない。

「まあ、窮鼠猫を噛む、ってやつか。反逆ねぇ。確かにそういう考えは今までなかったな。てか、今さらっとウチを毒扱いした?」

「その通りですが何か。だからほら、先輩も安易に絶望に腐ってないで、とっとと準備しやがってください。いいですか、出発は三十分後ですよ。あ、最低限シャンプーと歯磨きうがいは済ませてくださいね。臭いので」

「ったく、しゃーねぇな。わかったよじめかちゃん。お前のためなら先輩ちゃん、一肌脱いでやるぜ」

「はい。脱いだらお風呂入れますからね」

「清潔先輩現るッ!」

 ひとまず被った害に対する報復と復讐を計画する段階までには到達し、私と先輩は喧嘩を取り止め、一時休戦の協定を結んだ。敵の敵は味方というか、共通の敵を倒すという条件のもと結成された同盟関係というか、そんな感じ。あわよくば、このままなし崩し的に終戦にまで持っていければベストに近いのだが。

 ドタバタと全力で準備を始めた麻露先輩が消し忘れたテレビからは、長い長い審議が終了したレース結果を実況が高らかに読み上げる――写真判定の結果、アオニサイモモンガがスピリチュアルノアにミリ差で勝利。無茶で無謀で無理かと思われた、勝負前には誰の目にも留まらなかったダークホースがまさか逆転の華を飾る、無名の新米魔法使いたる我々にとってはなんとも縁起の良い幕開けだった。私は目を閉じてウンウン頷きつつ笑い、先輩が涅槃像の格好で寝転がっていたソファにちょっとだけ値の張る消臭スプレーを五回くらい振った。念入りに、念入りに振っておいた。帰る頃には乾いているだろう。

「汚れには、対策を。まさしく私のポリシーだわ」

 さて、愚者は愚者なりに反撃を開始しようではないか。私と先輩の黄金タッグで、どんな社会汚染もたちどころに鏡面と見紛うほどピカピカに磨いてみせるとも。ああ、でもやっぱり、麻露先輩は今後金輪際ギャンブルだけは止めた方が良いデスヨ……多分向いてないし。それを後で言おうと思って先輩を眺めていると、彼女がタンスの中身をひっくり返して風呂上がりの着替えを選んでいる背中から、こんな話が飛び出してきた。

「そういやさ、闇金ブチ転がし作戦の前にちょこっとだけ寄りたいとこあるんだけど、良きかなー?」

「どうせそんなこと言い出すと思ってましたよ。寄りたいとこ、ですか?」

「そそ。昨日の夜勤中の休憩時間、気分転換でもって思って、スケアスラム地区(注、拝電町に生息する機械人形が機能停止した後、その金属スクラップを加工して建てた家や道具を生活に用いる人々が暮らしを営む大型のスラム街)を散策してたんだけど」

「そういえばいませんでしたね。へぇ、スケアスラム。そんなとこ行ってたんだ。ご無事で何よりでした」

「その時、そこに住んでるっぽい少年からお好み焼きパン恵んでもらっちゃってさー。いやぁ腹空いてたのに飯買う金もなかったから、あの時はすげぇ助かったのよ。おかげで休憩終わりの仕事も結構捗ったし。でさ、その子にお礼言いたいんだよね」

「それ……え。それは、ちょっと、人としてどうなの? 本当にカスなの?」

「ほえ? お礼って、そんな悪いことかな?」

「…………あっちゃー」

 賭け癖とか、シャワーを浴びないとか大人とか以前に、麻露先輩には人として大事な何かが欠如しているのではないかと彼女と出会ってから最も強く懸念を感じた。

 急遽行き先が増えてしまって、私はスラム街極貧層の少年からなけなしのお好み焼きパンを奪った先輩に代わりどんな謝罪をしようかと、頭の中でグルグル思案し始めた。余りにも疲れてしまうし、余計なタスクが増えるし、振り回されてばかりで心底苛つく。何より、何よりです、罪のない歳下の善意に無条件で甘えようとするだらけきった姿勢が究極に気に食わない。似たようなケースを極々身近に知っている分、特にむかっ腹が立ちやがる。

 けれど、やはり、こんなどうしようもない先輩の隣に立って居てあげられるのは私だけだ。私がいなければ彼女はきっと、多分恐らく絶対、私の知らないところであっさりころっとぽっくり死んでしまうから。

 救えないクズだって、更生の兆しが少しでもあるなら手元に置いて、手入れはしとかなきゃでしょ。

「そういうところ、やっぱ好き。じめかちゃん、大好き」

「そっか。黙れ。とっとと湯を浴びに行け」

 ■■■

 的本湿香は生まれながらの潔癖症である。職業は一応配信事務所の雑務兼営業。取り分け人より秀でたものなどない人間の尋常個体。自分のことなので紹介は適当に済ませます、以上だ。本題として、その平凡な私の職場の上司かつ先輩たるカスの彼女をいよいよ紹介したい。

 当田麻露は生まれながらの魔法使いである。魔法とは言っても、細い隙間に手が届くように変幻自在の多種多様な体系から好きに選んで使えるというものでもなく、スキルとしては一つだけ――【伏せられた二択の完璧な看過】。最も簡単な例を出すと、彼女はコイントスの結果を絶対に読み違えることはない。直感で表だと思えば表であり、裏だと思えば裏だ。少し応用を利かせて、グッパーをする時は対象を絞れば相手がグーとパーどちらを出すかが分かる。もっと応用を利かせて、着ぐるみの中の人間が生物学的にオスかメスかを判定出来る。もし答えに迷うなら、モコモコの中身には機械か幽霊が詰まっている。

 弱点としては、あくまでも与えれた二択を見通す力なのであって、これは結果そのものを改変できる魔法ではないということだ。つまり、狙った選択肢を二択の内に置き換えるといった芸当は不可能。当然、三択以上ともなれば先輩は魔法が使えない普通の人間と全く変わらない。麻露先輩はかつて「魔法って、自由にできることよりも制約の方が多いんだよね。だから意外と夢ないよ。使えたってプラマイで圧倒的にマイナスに傾く」なんて言っていた。

 一年以上前の春である。私の入社式の後、配属部署へ挨拶に行った日の昼休み。誰もいない小さなテナントビルの殺風景極まる屋上で弁当箱を広げていた私のもとに直属の上司となる麻露先輩がズイズイとやって来て「ウチは、的本さんとなら結婚できるよ」と真正面から言い放った――それは入社式の自己紹介で特技を家事全般と話し「もしかしたら、五年以内にここの誰かと結婚しちゃいますかね?」などと朗らかに冗談を言った私に対する、何も飾らない、曲がらず真っ直ぐかつ魔球・剛速球ストレートにも程があるお返事だった。お返事っていうか、呪文っていうか、有り体に言えばプロポーズかと思った。

 曰く「するかしないかの二択」で言えば、私は五年以内に結婚するらしい。あれから一年以上経って、えっと、今は残り四年もないですね。あの頃は先輩が賭け狂いの味付け海苔マスターだとは想像だにしなかった。

 麻露先輩の魔法についてはその時に聞かされた。聞かせた人は私が初めて、らしい。

「言って、そんなマイナスに傾きます? 人間そのもの っていうハードに加えて、特別な追加ソフトまであるのに」

「そう思うよね。なんと、容量食って、他の大事なナニかが追い出されちゃうんだ」

「…………」

「もし、空を飛べるならね、法律の息のかからない空路を血眼で探さなきゃならないし、透明になれるってんなら悪の組織に力を狙われないよう息を殺して生活しなきゃならんでしょ。もしそんな力がウチにあったら、息苦しいったらないと思う」

 先輩はコンビニで買ってきたと思しきお弁当の卵焼きをモゴモゴ食べながら呑気に背伸びをした。若くて格好いい女性なのに、あまりOLスーツが似合ってないなという失礼な印象を受けたことは鮮明に覚えている。服に着られている、とありきたりな表現もぴったり当て嵌まらない気がした。自然と、彼女の顔や背丈、雰囲気に合うのはもっとゆとりがあってユーモアに溢れてて、脱ごうと思ったらいつでも脱ぎ捨てられるような自由な服が今のOLスーツにダブって見えるというか、本当に今それを着ているのではないかと、錯覚させられてしまうというか。

 まさか、これは魔法か。いやいや、まさか。

「『二択の完璧な看過』も、重荷ですか」

「息をするのも馬鹿らしくなるくらいの人生イージーモードの開幕じゃん? よっぽどじゃないとこんなの使わないよ。だって、わかったら、単純につまらん」

「じゃあ、結果にお金が賭かってても?」

「命懸かってようが、答えは同じ。外れることも楽しまなきゃ、当たった時の楽しみが二分の一さ」

「でももし死んだら、その後は楽しみようもありません」

「きっと死ぬ直前に死ぬほど面白い賭けが楽しめるから、それでいいの。あ、チョー腹痛でY字路に差し掛かったとき、どっちに行けば公衆トイレがあるかとか、そういうピンチにはバリバリ使う!」

「先輩の中では尊厳が命よりも重いんですね……なんか意外」

「い、意外かな⁉ ウチ生き延びるためなら外で漏らすような奴だと思われてたの⁉ ほぼ初対面でそんなイメージ固まるかね⁉ 割りに傷ついたよ⁉」

 奔放な運命に振り回されないというのは、彼女にとっては退屈そのものなのである。

 ここからは多少私の推測が混じるが、そうして麻露先輩は極力魔法に頼ることなく人生の波に乗るという立派な方針を立てたものの、その方針を遵守する意識が行き過ぎるあまり何事も行き当たりばったりで考えるようになり、生きる上で受けるストレスの大半を常に受け流すように立ち回るようになった。稀代の楽天家の誕生である。そのため今回のお好み焼きパン強奪事件のように若干危機感に欠け、倫理的な分別を誤る場合も少なくない。

「強奪だなんて業腹だな。ちゃんと合意があったぞ」

「号泣してませんでした、その子? 傲慢の擬人化みたいな臭い女がお好み焼きパン盗ってったーって」

「臭いは余計だッ!」

「実際臭かったろッ!」

 先輩は私の背中を豪快にぶっ叩いた。私も先輩の背中を轟雷が如き勢いでぶっぶっ叩き返した。

 ところで私は最近凄く頑張って自動車の免許を取得したのだが(筆記は余裕だったけど実技が…うん)、これから潰しに行く事務所にナンバーを覚えられては厄介なので、真夏の日中にも拘らずまさかの徒歩行軍である。必然的に隊員二名に苛立ちは募り危うく休戦協定が破談になりかけるが、ここで耐えねばあの【督促城】で一生の夜を明かすことになる。引っ越してもすぐに足がついてきっと無駄に終わるだろう確信があった。それによりこの状況を肯定的に捉えるならば、スケアスラム地区に整備された駐車場などという概念はなかった筈だし、自動車で現れればただでさえ余所者である我々が余計に警戒されてしまうことにも繋がる。スラム特有のグネグネ折れ曲がった細い道もエンジン搭載の幅では通れないことも多かろう。

「だからって、これ、きつ、キツイよ……」

「ダイエットと思いましょう……汗を流せば、脂肪の燃焼になります。贅肉は、ゴミですよ。女のっ、ぶち殺すべき、敵です。燃やして、燃やして、処分、処分しないと……はぁ」

 こんな時だけ、汗を掻かないどころか疲れすらしない機械の体が羨ましくなる私なのであった。自己整備が大変そうだから普段は絶対羨ましくなんて思わないのだけれど。

 その後数十分、段々と建物と人為的な日除けの重ね張りで薄暗くなってくる町の闇の世界に、私たちは物理の暑さで流れるものとは別の種類の汗を流し始めた。陽の光が届いていかない閉塞的な空気を胸一杯吸い込むことには気が向かず、こんな面妖な所を本当に通ったのか麻露先輩に再三訊いても「確かに通った」の一点張りで、私はクルクル目が回る思いだ。こんな不気味で不安になる場所を気分転換に使われるなんて、インボーストリーミング株式会社の営業職夜勤は自分で考えているよりもずっとずっと過酷な業務なのかもしれなかった。そして私は、こんな不気味で不安になる場所をねぐらにしているだろう、先輩みたいな人にも親切になれる心優しい少年が、今日も無事に生き延びられるのだろうかと心の中で呟く。

 不規則に揺れる麻露先輩の右手には、コンビニで購入されたお好み焼きパンが二つ入ったビニール袋がある。私は何も提言していない――これは、先輩が一人で勝手に決めたことだ。消費税込みで総額三百二十六信。スケアスラムの少年ほどではないが、なけなしの小銭を出して彼女なりに思いやりを込めたことに間違いはないのだろう。

 まあ、ゴミも角度によっては光って見えるか。金が無い原因がただの浪費と借金ってのはクソダサいけど。

 ほんの少しだけ、ちょっとだけだけど、居候代六万信が支払われる未来が遠のく音がした。

 ■■■

「えー、たった二個だけ? 五個くらいは確実に持ってきてくれそうだから恵んであげたのに、つまんないの。お姉ちゃんのケチンボ。ついでに臭い」

「…………うむ」

「うむじゃねぇよ! 既に舐められてる! なんか言い返してください先輩! 何こんな生意気小僧に黙らされてんですか!」

「だってまぁ、事実だしぃ……?」

「私の時みたいに威勢だけはよくしてましょう⁉ 絵面が情けなさすぎるんですよ! この私が保証します、ちゃんとさっきお風呂入りました先輩! 匂いバッチリ取れてます!」

 少年と出会った場所付近でスラムの住民数人に聞き込みをして回れば、細立準(10歳前後・男)の居場所を突き止めることは簡単だった。

「名前? 細立準。準は、僕と一緒に捨ててあった紙に書いてた名前なんだって。細立の方は、適当に名乗ってる。んーと、準でいいよ」

 そこは地区の一定区画を縄張りにする者たちの共同洗濯場のような場所で、珍しく日と風の当たる開けた地点に、無数の、長い長い物干し竿たちが整列したふうに架かっている――ビルとビルの隙間にあるこぢんまりとした中庭を思い浮かべて頂ければ分かりやすい筈だ。物干し竿にぶら下げられた形も色もバラバラ不揃いな服たちが、同じ方向に傾いては戻り、傾いては戻りしている。後から知れたが、この物干し竿は機械人形の軸を構成する頑強なフレームを引っこ抜き、それを叩いて整え、再利用したものらしい。どうりで太さや色が均一でない訳だ。この不穏にも安穏にも感じる不思議な洗濯場一帯が、かつては動いて喋る生き物たちだった。竿から伝った布のはためきが産声となって、服と服の間からこちらに向かって抜けてくる準を認めたとき、あたかも柔軟剤の匂いがする亡霊がこの瞬間に彼を産み落としたかに見えた。

「ケチンボ発言もなんか擁護してよぉ……」

「いや、金遣い良いのはベットする時だけですよね。家にお金一切入れないし。こっちは特に擁護できません」

「やっぱりお姉ちゃんケチンボなんだ」

「勝ったらご飯奢るし! 凄い気前良いよウチ! なんなら準も来るか? ああん⁉ まだ勝ってねぇけどよっ!」

「よ、勝負師ー。博打打ちー。あぁ滑稽」

「冷やかしのプロやめてくれ!」

「あはは。お姉ちゃんたち、おもしろーい」

 左手に取手の付いた大きめの編み籠を持ち、何か服を取りに来た風の準の表情はどこか楽しげだ。

 ヨレヨレのダボダボTシャツが生活の苦しさを一目で表し、そこら辺で拾ったとしか思えないくたびれた野球チームのキャップ帽を最大限のお洒落として身につけ、小柄にしてはとても逞しく感じられる男の子――いや、逞しいというよりは強かと言ったほうが正しいかもしれない。食べていく手段を必死に探し、束ねた新聞を枕にし、小さな親切すら長期的な打算に組み込んで人間関係を構築していく、とても強かな生き物。ブラック企業で働いているとは言え稼いだ金を娯楽という娯楽に費やし、後輩の家で宿代を空虚に浮かせている当田麻露と同じ人間なのかどうか、私には今ひとつ判断しかねる。もしかしたら彼らスケアスラム地区の住民は、私たち中間層以上とは全く別の進化を遂げた、新たな人類の形なのかもしれない。

「昨日お好み焼きパンあげたときの喜びっぷり、凄かった。絶対、五個以上への変換に相当するくらいのはっちゃけっぷりの筈だったのに。次は六個、持ってきてよね。麻露お姉ちゃん。ともかく今後とも、ぜひとも、よろしくね。僕たちもう、友達でしょ? 大人って、友達を見捨てたりなんかしないもんね。そうだ、携帯の番号教えてよ。どうしてもお腹が空いた時、電話するからさ。電話ボックスからだけど」

「あ、新手のナンパかな? そんな、まだ準くんには六年は早いって。あとその、ウチ初対面の人には番号教えない主義っていうか……」

「えー。初対面じゃないよ。二度目。二度目って、もう運命だ。というか、麻露お姉ちゃん、今日は僕に会いに来てくれたんだよね。えへへ、嬉しいな」

 裏切ったりしないよね、とでも言いたげに微笑みを浮かべる準は、先ほど知ったばかりの先輩の名前を使ってかなり不平等な取引を持ちかけてきた。同盟にしては利益が片方に偏り過ぎている。しかし、ただの先輩のお守り役である私には、準の一方的な進行を咎めたり口を挟み込む権利はない。私はただ、渋々携帯を取り出す麻露先輩の哀愁漂う背中に無言で檄を飛ばすのである。

 全ては先輩が撒いた種であり、実った果実は責任を持って最後まで齧って頂くのが筋というものだろう。彼女が休憩時間にスケアスラム地区に来なければ準にお好み焼きパンを恵まれて借りを作ることもなかったし、そもそもその時お腹を空かせていなければパンを断ることも出来ただろうし、お金があれば当初からお腹が空いている状態にもなっていなかった。お金が無いのは、先輩があちこちのギャンブルで大負けしたからで――つまりは運を天に任せる、その受動的な生き方の貫徹こそ全ての始まりなのだ。準だって生きるのに必死なのである、責めることは難しい。

 ふと隣を見ると、ウルウル涙目になった先輩が私の服の袖をちょこんと摘んでいた。可愛さを抜いてアクとパンチを加えたチワワみたいと思った。

「じめかちゃん、助けて……! パシリになりかけてる!  このままだとウチ、スラム街のクソガキに一生惣菜パンたかられる……!」

「ショタに迫られて後輩に助けを求めるアラサーってこの世にいるんですね……」

「じめかさん、でいいのかな。麻露お姉ちゃんの部下なんだ。てっきり逆かと思ってた。身長とか、落ち着きとかでそう思ったんだ」

「湿香です。でもそう思って貰えたのは、嬉しい。私の頑張りが伝わってるってことだからね」

 あと、大人の世界では君が思ってるほど身長の差は上下関係の差に直結しない。

「格好いいね、じめかお姉ちゃん」

「湿香です。あと君にお姉ちゃん呼びを許した覚えはない。まったく、油断も隙もない子ね……先輩はとんだ問題児だけど、君も君だよ。人を利用価値だけで見てたら、いつか自分が利用されてる時に気づかないんだからね」

 つい先輩に助け舟を出すような言い方をしてしまう自分が意外だった。善意を隠れ蓑に友人関係を迫る少年と、人を疑う目を持たず無防備に借りを作ってしまった上司のどちらが悪いのか一概には言えないが、少なくとも大人には子供を正しい方向へ導く義務がある。準が将来トゲだらけの悪魔と化してしまわぬよう、私が懇切丁寧にヤスリをかけてあげるのだ。

「ちぇ。叱られちゃった。これだから『累積錬金術』はリスキーなんだよ」

「累積錬金術? ってなに?」

「気になる? 魔法みたいなものだよ。詳しいことは……じゃあ、そのお好み焼きパン食べながら三人で話そっか。今日はね、僕、暇なんだ。悪ガキの素行を矯正したいんだったら、着いてくればチャンス、あるかもね?」

 準は近くに干してあった服を次々手元の籠に詰め込んで、遂には自身の背丈の半分はあろうかという嵩を一杯にしてしまった――彼一人が着回すにしては多すぎるし、見ていた限りサイズも異なる。

「泥棒じゃないよ。物は正々堂々頂くのが矜持なんだ」

「恐喝に正々堂々の意味は含まれないんじゃないの?」

「これから僕が好きなカフェに行くんだけど、お姉ちゃんたち、まさかスラムの子供に払わせようって気はないよねー? 期待してるよん」

 籠を持ったまま私たちの前を通り過ぎて、準はどんどん先へと行ってしまう。完全に疑っている訳でもないが服泥棒疑惑があるし、人の善意を弄ぶような交友関係について叱らねばならないし、何より昨日先輩にお好み焼きパンを恵んでくれた恩については素直に礼を言わねばならない。私たちは追いかける他はなく、先輩の魔法を使った正義の世直しは複数の要素を鑑みて翌日に持ち越されることが確定した――家からスケアスラムまで歩いたし、そこで準を捜索するのにも時間を使い、彼とのお喋りに興じていれば夕方の遅くまで付き合わされるに違いない。裏社会のメンツと語り合うにも体力が持たず、夜になって暗くなればいざという時の逃走経路確保も心許ない。

 完全に乗せられた。これほど手玉に取られる経験は久し振りである。まさか魔法。いやいやまさか。

「……これ、体のいいデートなんじゃ。ウチら、子供にナンパされてまんまと受け入れてる」

 麻露先輩がぽろりと溢した悲しき事実を不承不承呑み込みつつ私たちは、いつの間にか籠を頭に乗せて両手でバランスを取って支えながら進む準を見失わないよう気を付けながら、スケアスラムの、歪みながらも何か惹きつけられる独特の景色を外へ外へ、いつもの拝電町の景色へ、カセットテープを巻き戻すみたいに通り抜けて行った。

 ■■■

 準の言う累積錬金術は魔法であって、魔法でない。確かに言葉尻と引き起こされる現象についてはロマンを感じなくもないが、あくまでも先輩のような特殊な能力の発露という感じではなかった。私が彼の累積錬金術を噛み砕いて本質を言い当てるとするなら「タダより高いものはない」或いはちょっと違うけれど「心のわらしべ長者」とでも表現すべきか。

「例えば、僕が落ちてた財布を交番に届ける。そうしてもし落とし主が見つかったら、僕は謝礼として、財布の中身の5%程度を落とし主に請求できるよね。落とした人がその財布に愛着もあれば、簡単にこの取引は成立。ほら、取るに足らない親切が、千信冊に化けた――これが普通の『錬金術』。この善意と善意の取り替えっこが凄いのは、双方が全く同価値のものを差し出してる訳じゃないところにある。『累積』のほうは、もっとミクロにこの考え方を適用するんだ」

 一親切と千信は、どうやら彼の中では等価ではない、らしい。視点を変えれば、これはれっきとした「稼ぐ」という行為と捉えることも出来る。

 彼の掲げる基準によれば、人は親切にされたら恩返しする生き物なのである。泣いている誰かを慰めれば交友関係が芽生え、いずれ仕事を紹介してもらえるかも。嫌な役目を進んで引き受けたら、今度はそれより遥かに美味しい役目を進んで与えられて当然。お好み焼きパンを地区外の腹減り人間に分け与えれば、必ず五倍にして返してくれる。そうやって日々計算づくで善行を積み重ね、繰り返していけば、親切は更に大きなものになって返ってきて、最初の親切なんて思い出せなくなるくらい巨大な幸運がいつかは出現し、クソのような人生は逆転可能なのだ――累積していくのは、徳と人望。

 奇妙なことに、これは人間の善性を信じていなければ成立しない錬金術である。準の場合は報酬の取り立て方が乱暴すぎるだけで、本来なら親切を差し出す側と見返りを用意する側、両者がハッピーになって終わりの筈なのだ。

「普通なら二個でも倍だよ倍。準くんは欲深すぎ」

「『持ってる人間』の尺度で測らないでよ。スラムのみんなを馬鹿にしてるの?」

「す、すまん! 以後気をつけるな」

「また言いくるめられてる……いえ、今回に限っては多分先輩が正しいですよ。こんな乱暴なやり方じゃいくら善行を積んだところで、ふいにしてしまいかねないです。準くんきっかけに、スケアスラム地区の悪評が立っても不思議じゃないです」

 準に「なごぺぱ」という変な名前のレトロ喫茶に連れてこられた私たちは横並びのカウンター席で、注文した珈琲の肴にコンビニのお好み焼きパンを等分して頬張っていた。コッペパンに縦一文字に切れ込みを入れ、そこにお好み焼き風の生地を挟んでマヨネーズとソースを被せ、最後に青海苔を散らした、麻露先輩の好物の一つでもある。先輩は海苔と名のつくものが入っていれば大抵の料理は美味いと言ってくれるから私も日頃助かっていた。

 ところで、店の向かいの空き地に見えた仰向け女の銅像は一体なんだったのだろう……いや本当に仰向けになって目を閉じてるだけの銅像なのです。マジで誰やねん。

「あれはここら一帯の守護神。忍耐と安寧の象徴だ。まぁ、守り神みたいなものと捉えてくれて大丈夫です」

 既に二杯目をおかわりした準に新しいカップを持ってきた、私とそう変わらないくらいの歳の、エプロンを付けた可憐な女の子(店長さんなんだって)が奇妙な銅像の正体について教えてくれた。正体は分かったけれど由来も意図も不明である。私は構わないけれど、あんなのあったら客足も遠のくのではと失礼ながら心配をしてしまう。

「神さま、ね。本当にいるんなら、奇跡を起こしてみんなのことを救ってくれればいいのに」

「ジュンジュンまたそんなこと言ってる。あの銅像はそんなのじゃないっていつも言ってるだろ」

「耳にタコできるほど聞いたよ。だから、僕が頑張るしかない……何もしてくれない神さまより、魔法を使える僕が、みんなを助けてあげられる。どんなに時間がかかっても、最短経路で必ず助ける」

 準は、椅子の脇に置いてある洗濯籠にぎっしりと詰め込まれた服に目線を落としていた。

 店長と顔馴染みということは、準は今までにも私たちと同じように余所者の財布を頼りにここへ珈琲を飲みに来たことが何度もあるのだ。それは準の遂行している「累積錬金術」の効果の表れなのかもしれない――無論、私と先輩もその輪の中に組み込まれている。準はきっと、累積錬金術でいずれはあの広大なスケアスラム地区全域を救済するつもりなのだとと私は察するところがあった。

「麻露お姉ちゃん。ダラーク金融って、知ってる?」

「え。ダラーク金融って……」

「スケアスラム地区の一角にある闇金業者。僕には親友がいるんだけどね、そいつ今、そこからたんまり借りて借金地獄に嵌ってる。僕と同じスラム出身でさ、母親の病気の治療費のために危険を承知で……近い内に身柄を売り飛ばされる、かも」

「……!」

「多分、間に合わない。だから、神さまなんかいないよ。いるんならとっくにあいつのことを助けてくれてる筈でしょ。それくらい僕、頑張ってる。コツコツ頑張って人に優しくしてきた。ポイントごっそり貯まってるはずなのに。なのに、どうしてだろーね。本物の魔法でもなきゃ、もうどうしようもないとこまできてる」

 件のダラーク金融がスケアスラムが地区にあるということは、私も先輩も全く把握していないことだった。もしスケアスラムの方が本拠地とするならば、先輩がお金を借りたのは支部ということになる――準の話が真なら、これはいよいよ不味いことになってきた。

「そんなの、許せない……社会のゴミがよ」

 午前中ぶりに燃え上がるのは私の怒りだった。罪もない弱い立場の子供に借金を負わせ、あまつさえ人身売買に及ぶだと。私の家を督促状まみれにしやがった事実、忘れた訳では無い。むしろそっちの怒りも呼び起こされて再び着火され、相乗効果で激怒は三倍以上にもなる気がした。私の中の正義が、ダラーク金融だけは許してはいけないと叫んでいる。もし先輩の賭けに介入してイカサマを仕掛け、彼女の誇りにつけ込んで金を巻き上げていたのだとすれば、尚更この手でブチ掃除したくなってきた。

 汚れは、汚れているほどやる気に直結するタイプなのだ私は。

「もう堪忍なりません! 私っ、私がダラーク金融をお掃除するッ! 案内して! どこにあるの、その本拠地は! 洗剤と箒と綿棒で徹底的にイジめてあげるんだからぁ!」

「落ち着けってじめかちゃん。そういう人のために怒れる優しいところマジで好きだけど、流石に今回はお前一人でどうこうできる手合いじゃない」

「ふふふ。じめかさんって、意外と熱い人なんだね。ちょっとだけ気が楽になった。ありがとう」

「でも、でもっ! 気が楽になるだけじゃ、準くんの友達は……!」

 焦りで気持ちが収まらない私を宥めるように、隣に座っている麻露先輩が背中を擦ってくれた。スケアスラムに行くまでに叩かれたところと全く同じ部分を触られているのに、どうしてこんな時だけ受け取る感情が違うのか、分からない。私は急に歳上らしくなる先輩も、さっきまで生意気だったのに急に素直に感謝してきた準も、全然分からない。もしかしたら、この場の三人で、唯一人間を信じられないから分からないのかもしれなかった。人間の一つのマイナスな部分が知れたからって残り全部がその側面な訳もないのに、人を信じないから私はそうだと決めつけた。今でも信じきれていないのが、如何にも悲しい奴だなと自分で自分に思う。

 私って、やっぱり悪い人間だ。

「じめかちゃん、ちょっとちょっと」

 麻露先輩が徐に立ち上がって私を手招きするものだから、私も席を立って店内の端まで彼女に着いていった。先輩はニヤニヤ、ニマニマと随分と悪い顔をしている。いつも通りな先輩を見ていると張り詰めていた気持ちが少しだけ抜けてほぐれていくようで、彼女のブレなさが今はありがたかった。

「やっぱ今日、ダラーク金融潰しに行くぞ。ウチとじめかちゃんで、準くんに気づかれないようこっそりやるんだ」

「それは、いいんですけど。どうしてそんなに不敵な笑みを浮かべているんですか?」

「ダラーク金融倒したら、これウチら神ってことにならん? 準くんの中で神格化しようぜ」

「……ぷっ」

 どんなに私が一人で突き進んでいこうとしても、先輩の言葉一つで待ったがかかり、隣に彼女が並んでくるまで一歩も進めない。まるで、魔法の呪文だった。先輩が魔法使いだからそう考えるのではなくて、こんなにも不思議で素敵なことはないと思うから「魔法」と言いたくなるのだ。

 準が人間の持つ善性を信じるのと同じように、先輩は人間の辿る運命を信じる。もしかしたら――と考えることが、私にも出来た気がする。

 私は、全ての人間が何らかの魔法使いだと信じることにする。先輩みたいに、どこか特定の場面でしか役立たない不便で使い勝手の悪い素敵な魔法を、誰も彼も、普段は明かさないけれど、実は持っている。そう考えると、よく分からないものの正体に説明がつきますので。

「じめかお姉ちゃーん。これ、どっちが砂糖入りだっけ? わかんなくなっちゃったー」

「え? あー、えっとねー……どっちだ?」

「右だよ――あれ飲んだら、行くか」

「み、右だってー!」

 私に『伏せられた二択を完璧に看過』する魔法はないけれど、自分でも気づいていないだけで、きっと天地を揺るがすほど面白い才能が眠っている。それが判明した暁には、先輩に私から出題し、二択を答えてもらうのだ。

 私こんな魔法使えちゃいますけど、まだ好きなんですか、と。

 それはきっと、あと四年も経たずに訪れる出来事。

 ■■■

 私と麻露先輩がこの後如何にダラーク金融を壊滅させ、如何に細立準の中で神になったかはいずれ別の機会に語ろう。今長々と話し続けても、これより先は「魔法」とはあまり関係のない血みどろの賭けバトルが繰り広げられるから、それは本誌の趣旨とはズレて異なるのだ。

 それでは、拝電町一番の綺麗好きから、カスの先輩に代わって謝罪申し上げます――汚い言葉ばかり使って、お目汚し、大変失礼致しました。後できっちり清掃しておきます。

 またいつかお目見えするその時まで、あなたは、あなただけの魔法の鍛錬を怠らないようにしてください。

 的本湿香でした。


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