隠された肖像画
その筆を折ってあげよう。
君はもう苦しまなくて済む。叫ばなくて済む。
呼吸すらしなくて良くなる。
君はいまよりもずっと楽になれるよ。
* * *
絵から現れた乙女は、宿屋のベッドに横たわったまま、目を覚ます気配は一向になかった。
ジオラスは木椅子に座ったまま少しでも眠ろうとしていたが、やがて諦めて朝方に部屋を出た。
明けきらぬ薄明の中、前夜にシラルクに連れられて行った壁画の元へと舞い戻り、風雨にさらされてボロボロとなった壁を見る。
(これが探していた七百年前の絵……か? 壁画の代表的な技法はフレスコ画。漆喰を塗り、生乾きの間に絵を刻みつけ顔料を塗布。それが壁の中に染み込み、乾いた漆喰から滲み出てくる石灰分が表面を覆うことにより、耐水性を獲得。長期の保存に適した画法といえるが、さすがに野ざらしでは雨風、太陽光と劣化の原因が多すぎる……。年代の特定すら難しい)
そこに絵があると言われなければ、気づかなかったかもしれない。
激しい損傷。
見始めてすぐに、ジオラスは違和感を覚えた。
絵を引きずり出してしまったので、空白になっているはずなのだが、そこにはまだ絵がある。魔法には頼らず、目を凝らして丹念に見ているうちに、昨日見たのとはまったく違う戦士の姿が描かれていると推測ができた。シラルクとは似ても似つかぬ、壮年の男性。
「二重に描かれていた……?」
思わず声に出してから手で口元をおさえ、黙考する。
(俺の「在りし日を見る」魔法が強すぎて、一層目に描かれたシラルクの顔をした「戦乙女」を見つけて引きずり出してしまったとして、その上には別の絵が描かれていた……。絵を重ねる理由は、画材の節約でない限り、「最初の絵を隠す目的」と考えるのが妥当だ。理由があって、シラルクの肖像画は隠されていたんだ)
そこまで考えて、ジオラスはさっと壁画に背を向ける。
そのまま、脇目も振らずに宿へと帰った。
足を踏み入れた食堂では良い匂いが漂い、すでに食事をしている者がいたが、ジオラスは立ち寄ることなく廊下に出る。階段をのぼり、前夜にとった部屋へと向かった。
木戸を開ける寸前、迷ってから拳でノック。返事はなく、鍵を回して戸を押し開ける。
何があっても対応できるようにと神経を張り巡らせていたが、襲いかかってくる人影はない。
そのまま視線をめぐらせると、ベッドの上に憮然とした表情であぐらをかいて座る乙女の姿があった。
どこをとっても不機嫌な様子。
ジオラスは小首を傾げて、乙女に呼びかけた。
「昨日は記憶が混乱していたようだが。シラルクだな?」
ひくっと乙女は頬をひきつらせる。目を細め、投げやりな調子で答えた。
「そうかもね」
「元気そうだ」
「どうかな。あのさ、嬉しそうな顔やめてくれる? いま笑ったよな!?」
「君がいなくなったのかと、心配していたから。無事で何より」
「無事なのかこれは……! 私の体は一体どうなっていると思う?」
袖のない白の装束から、丸くのぞく白い肩にかかる銀の髪。手で後ろに払い除けながら、乙女は床に素足をおろして立ち上がった。
「お兄ちゃんは修復士だと言っていたけど、絵に描かれたものを引きずり出すのはいったいどういう能力なんだ? しかもその絵に、私の意識が入っているときた。そもそもあの絵は、探していた壁画とは違う。あの壁画の絵には、魔法なんてなかっただろ? ただの絵で、誰にも顧みられることなんてなかった」
詰問口調で歩み寄ってきた乙女は、ジオラスの胸までの背で、シラルクにも身長が及ばない。顔こそよく似ているが、骨格や体格に男女の違いが明確にある。
胸元にぶつかるほどに近づかれ、ジオラスは黒い瞳でまっすぐに乙女を見下ろした。
「絵の声を聞いた。君が聞けと」
「へえ、本当に聞こえるの?」
「正確には、見える。そういう、魔法が使える。劣化した絵の往時の姿が短時間だけ見える。修復の方針を決めるときに使う……、使うこと自体は師匠に禁じられていない。今までその魔法単独では、絵に深く干渉したことはなかった。昨日は、違った。表層に描かれた絵ではなく、一層目に描かれていた絵を見つけてしまった」
魔法が、直に、とジオラスはなるべく状況を正確に説明しようとした。
そのジオラスの胸ぐらに掴みかかり、自分の方に引き寄せながら乙女は大きく口を開いた。
「一層目に描かれていた絵ってどういうことだ? あそこに描かれていたのはおっさんの絵だ。それも、たいして見どころのない」
きらきらと光りながら透き通る瞳に見つめられて、ジオラスは目をそらせなくなりながら律儀に答えた。
「たしかに、壁画の表層の絵は、あまり優れた絵とは思わなかった。君の『黒き守護者の魔法』と良い勝負だ」
「余計な評は結構だ。私のあの絵は魔法を発現させるために描いているのであって、うまい下手なんか関係ない」
言われた瞬間、脳裏にひらめくものがあって、ジオラスは「そうか」と呟いた。
「あの壁画の絵は、下に描かれた君の肖像画を隠すのが目的だったのか。だから可もなく不可もなく、魔法もなく」
ばしっと、乙女はジオラスの腕を叩いてから、悔しそうに唇を震わせた。
「壁画の絵を描いた絵描きに厳重抗議をしたいものだ。どこかで私を見かけてモデルにしたのかもしれないが、背格好も性別も間違えるとは」
許さん、と呟く横顔に目を落としながら、ジオラスは落ち着いた声で答えた。
「それもわざとかもしれないな。つまり、それだけ君の肖像画は念入りに隠し、見つかっても別人だと言い逃れできるように配慮されていた。そうまでして隠された君はいったい、何者なんだ?」