太古の芸術
「できる限り、この街のことを知りたい」
宿から出て人通りのある往来を歩きながら、ジオラスが手短ながらきっぱりとした語気でそう告げた。
足が向かう先は壁画だが、歩みはややゆっくりとしていて、周囲の様子を窺いながら進んでいる。色とりどりの布を天井にした出店、崩れた石柱、走り回る子供や物珍しげに店先を冷やかす旅人……。
シラルクは並んで歩きつつ、「何を知りたいんだ」と横顔を見上げて尋ねた。ジオラスは遠くを見るまなざしで、目を細めた。
「朝、壁画を見てきたが、何箇所か気になるところがあった。あの絵、今は野ざらしだが少し前まではきちんと室内に設置されていたものではないかと考えている」
「周辺の建物が壊れたりして露出し、急激に劣化したってことか? 壁画の移動なんてそうそうあるものじゃないからな」
ハハッと乾いた笑い声を上げながらシラルクが言ったそのとき、ジオラスは「ぶつかる」と低い声で忠告。シラルクの剥き出しの肩に腕を回して、自分の方へと寄せた。
すれすれで通り過ぎて行った大柄な男が、ちらりと視線をくれたのがわかった。
ジオラスの腕にとらわれた形になったシラルクは、触れ合った肌や背からじんわりと伝わるぬくもりに妙に焦りながら、慌てて抗議する。
「私を、女として庇う必要は無いぞ。あのくらい、べつに平気だ」
「ぶつからないで済むなら、その方が良い。君が女でも男でも俺のすることは変わらない」
ジオラスは、同行者として極めて当たり前のことしか言っていない。それなのに、妙に負けた感覚になるのはなぜなのか。
するりと腕が外れ、ぬくもりが離れて行くとシラルクは無意識にほっと息を吐き出した。
ふと、胸の鼓動が早さを増していることに気づく。
急な動きのせいでそこまで動揺したのか? と自分に呆れつつ、何事もなかったふりをして威勢よく話しだした。
「だいたいにして、壁画というのは人類の生み出した現存する最古の芸術の形だ。詩歌や舞踏、それにまつわる魔法といったものも、遙か昔から存在していただろうが、何しろそれそのままの形では残らない。ひきかえ、『壁画』に関しては、年代すら特定できない古代の作品が発見されている。『福音の壁画群』がそれだ。実物を見たことはないけれど。旅人のジオラスは見たことがあるかい?」
「無い」
返事は一言。
(無駄の無い男だ。べつに、良いけど。会話が弾もうが弾むまいが、知ったことではない)
二人でいることが気詰まりになりたくないだけなのだと、シラルクはさらに長広舌をふるう。
「原始、彫刻と絵画は区別されるものではなかった。壁画群は、光の届かぬ洞窟の奥深く、しかも天井に彫刻と彩色によって描かれているという。岩肌の形状を生かして、牛のような出っ張りには牛を描き、彫って形を整え、顔料を流し込み、実物と錯覚させるほどに描いていたのだとか。文字ももたぬ古代人たちが。その絵が現代に至るまで残った理由ははっきりしている。雨風・温度変化といった、絵を劣化させる原因から直接大きな影響を受けなかった。つまり何を言いたいかと言うと……、この場合は洞窟だけど、広義の意味で『建物』として考えるとして。『彫刻』にしろ『絵画』にしろ、建築物と強く結びついたものはあらゆる意味で強度を増す。その保存性においても、魔法の持続可能性においても」
そこまで言って、ジオラスの様子を窺う。表情は特に動いておらず、遠くで青空に突き刺さる尖塔でも見ているようだった。
苛立つのは自己中心的であると重々承知の上で、シラルクは眉をひくつかせ、ジオラスの腕に腕を絡めて自分の方へとぎゅっと引き寄せた。
「お兄ちゃん、聞いていたのかな、ひとの話を」
「うん」
「返事がそれじゃ足りないんだけど? もう少しなにか言ってみても良いと思わない?」
「興味深い」
(圧倒的不足。会話量の圧倒的不足……!! こっちが話した内容に全然見合わないんだよ。もっと何か言えよ……)
力付くで腕を引き寄せても、よろめくことすらない抜群の体幹。シラルクが男のままだったとしても、素直に感心したであろう男ぶりなのであるが。
つまらない。
話す気力を削がれつつ、小声でぼそぼそと続ける。
「だからさ、『建築物』と一体になっているときの『壁画』っていうのはまずだいたい強いんだけど、切り離されると一気に弱くなるんだよね。昨日のあの壁画が、わりと最近この空の下に露出したとなれば……。覆いとなっていた建築物が壊れたと考えるのが妥当で、そのせいで急速に劣化し、場合によっては魔法を失ったことも考えられる。いやどうなんだろう、あの絵に魔法はあったんだろうか……?」
「危ない」
ひとり思案にふけりはじめていたシラルクの腕から、掴まれたままだったジオラスの腕が抜かれる。流れのままその手は腰に回され、再び引き寄せられた。
その足元を、わーっと歓声をあげながら子供たちが走り抜けて行った。
「ま……、前を見ていなかったわけじゃ」
「うん。子供の動きが早かった」
言い訳をしながらジオラスを見上げると、何ほども動じていない黒い瞳に見下されて、ごく平淡な調子で同意を示される。
やや性急な動きだったせいか、指が衣越しの柔肌に食い込むほどに強く力を込められているというのに、ジオラスはまったく無関心といった風情。
自分ばかりが子供っぽく、焦ったり赤くなったりしていると気づいて、シラルクはバタバタと暴れながら距離を取る。
いまや完全に男女の違いのようなものを意識させられているのが無性に悔しくて、「歩くの遅すぎ、もっと早く!」と声を張りながら背を向け、早足に進もうとした。
その瞬間、まったく前を見ておらず、シラルクは踏み出した先で勢いよく誰かにぶつかってしまった。




