落ちていた肉を食べた
「お兄ちゃん、あたしを守ってよ!」
勘弁してくれよ。
「お兄ちゃん、あたしのモノになって。あたし、お兄ちゃんがほしい」
またずいぶんな発言だな、親の教育がなっちゃいない。
「待っててよ、すぐに戻るから。そうだ、食べもののついでに好きなお菓子も買ってきてあげる。なにがいい?」
「なんで? ママ言ってたよ! ご主人さまはカッコいいひとだからモノにできて嬉しかったって! あなたもご主人さまの娘なのを誇りに思いなさいって!
……お兄ちゃんもさあ……あたしのこと助けてくれて……」
「……」
「……カッコいいじゃん……」
正直、内心うれしくはあった。でも、「モノにする」、その言葉だけが引っかかった。
「きみのお母さんは、ご主人さまに対して『モノにする』なんて言葉使ったかな? きみに対してこっそり言ったことはあったかもしれないけど、ご主人さまに対して直接は言わなかったと思う」
「……むぅ~……」
「きみがそれがなんでかわかるレディになったら、もしかしたら僕はきみの虜に、『モノ』になるかもね。
さて、お菓子はなにがいい?お姫さま」
「……ミルフィーユ」
ふてくされるお姫さまを背に僕はナイフと食糧の買い出しへと向かった。
女の子が行き倒れてたところから森を出てしばらく歩いたさきの街。街といっても城壁はなく出入りは自由にできる。
……はずなのに、足がまえに進まない。どうしても忌まわしき記憶が蘇ってしまう。痛めつけられた記憶が蘇る。辱められた記憶が蘇る。
違う街なのに。誰も僕のことなんて知らないはずなのに。
他人と目が合うたびに蘇る、侮蔑の眼差しの記憶。
他人の話し声が聞こえるたびに蘇る嘲笑する笑い声の記憶。
僕はまたうなだれながら嗚咽した。あの日と同じように。
踵を返し、うつむいたまま街を出た。あの日と同じように。
僕はあの日からなにも変わってはいなかった。ただ森に逃げただけだった。僕はなにも変わらず弱い生き物のままだった。
日が傾きかけるなか、僕は森へと戻った。森に入るまえにすることがあった。
「おまえが強ければ僕は逃げずにすんだんだ!」
僕は木の幹に思いきり拳を叩きつけた。左右交互に絶え間なく。いつもより力がはいった、いつもより豪快な音がした、ばきりばきりと自らの拳の皮とともに木の皮がはげていった。
「お兄ちゃん……、なにしてるの……?」
見られた。女の子に。見られたくなかった。僕は助けて脚を治したお兄ちゃんだよ。カッコいいお兄ちゃんだよ。自分の拳に八つ当たりなんかしないお兄ちゃんだよ。
「お兄ちゃんやめて……、お手てから、血がでてるよ……」
「ん? ミルフィーユならないよ」
「いらないからやめて……、お兄ちゃんはやくその手を治してよ……」
やめてほしいのか。ならこの鬱憤をどこにぶつけたらいいっていうんだ。
「お兄ちゃん、落ち着こ……、川まで戻ろ……」
言葉が震えていた。身体じゅうが震えていた。瞳孔が開ききっていた。
そういえば、パンひとつ買ってないんだった。お腹が空いたな。いまのきみは、実にそそるよ。
僕は女の子をその場に組み敷いた。それは神秘的な光景だった。
木もれ陽の差す深緑の森のなか、彫刻のような白い肢体が僕の下で足掻いていた。金色の髪が無造作に乱れ、怯えの色に上塗られたエメラルドグリーンの瞳はまるで森を棲み家とする妖精のようにその風景に馴染みきっていた。
夕暮れ時の黄昏に彩られたその高価な絵画の具現化のような視覚情報に、僕の食欲はとどまるところを忘れ果てた。
「お兄ちゃん……やめて……、こわい……よぉ……」
口からだらりと涎が垂れる。おっと、さすがにこれは意地汚いな。
「カッコいいお兄ちゃんは、きみを食べたくてしかたないよ? 僕の食欲はきみのモノだよ?」
僕は女の子の耳にかぶりついた。柔らかな肉の味が口内にひろがる。
「お兄ちゃん……、戻ってよ……。あたしにやさしく手を差しのべてくれて、あたしを治してくれて、あたしを諭してくれたお兄ちゃんに……」
恐怖の色に懇願の色が上塗られていくコケティッシュな眼差しが、食欲をさらに掻き立てる。僕は肩の肉をかじり取った。
「お兄ちゃんは優しいの! 冷静なの! こんなことするひとじゃないの!」
さらに失望の色がそこに加わる。もう誰も僕を止められない。僕は今度は腕をかじった。
「やめて! お兄ちゃん! やめて! やめてよ!」
僕の腰を小さな足が全力で弱々しく蹴りつける。僕の心を盛り上げる。きみの鼻を食べてみたいな。
「いやだ! いやだよ! お兄ちゃん! お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
「ありがとう、悦んでくれてお兄ちゃんとってもうれしいよ」
「いやいやいやいやお兄ちゃん! ……お兄ちゃん……」
こんなにも君が美味しいなんて。どこの肉も美味しいよ。
「お兄ちゃん……、ひどいよ……。おねがいだから……、返して……、あたしの……、お兄ちゃん……」
ああ、僕はきみに感謝の言葉を述べるにはあまりにも言葉が不自由すぎる。きみは僕に侮蔑以外の眼差しを向けてくれた。
敬意、好意、恐怖、失望……。ひとの目は、こんなにも表情豊かなのだときみは僕に教えてくれた。
きみへの感謝はそれだけじゃない。きみは僕に嘲笑以外の言葉をくれた。
警戒、感謝、安堵、懇願、憤怒、悲哀……。ひとの言葉は、こんなにも表情豊かなのだときみは僕に教えてくれた。
「残念ながら僕は僕だよ。弱いんだけど、きみよりかは弱くない生き物、それが僕。さて寝るまえに締めてしまうね。残りは明日、食べてあげるよ」
僕は首筋に手をかけた。
―― 第一章:自由への旅路 the end ――
第一章完結です。このあともまだまだ続きますので引き続きよろしくお願い致します。