影
「ハッキリ言うよ。」
ハルが口を開いた。
「考え方や、発想だけで言うなら、ザッハ・トルテの宇宙の方がはるかにスケールが大きく、体系づけられていた。
だけど、マスターの教えは、時に〈認識〉をぼやかす。
ときに、おそろしくシンプルで、驚くべきことが何もないことだってある。
それでいいのか、と正直思うことがある。
トルテの法が太陽の規模であるとするならば、オレたちはせいぜい蛍の光程度だ。
これで、世界を変革することが出来るのか?
世界は平和になるのか?
たしかに、みんな・・・大切な仲間だ。
だけど、こんなことで、あの王国に〈勝つ〉ことができるのかって・・・そう思う。」
ソラとウミは、ハルの言っていることが分からないというような顔をしていた。
レイも腕を組みながら聞いている。
ハルはまずいことを言ったのではないかと思って、口を閉ざした。
夜中になると、ハルは再び独りたき火をじっと見つめながら動かずに座り込んで考え込むようになった。
「ああ、オレがやはりおかしかったのだ。
でも、たしかに、オレの心は深いところで、それを求めている。
深い喜びを感じ、涙することもある。
それでも・・・それでも、オレは深い憂鬱に繰り返し襲われて仕方がないのだ。
オレは、受け入れられていないし、この場に馴染むことが出来ぬ。
いや、この場だけでない。
世界中のどこに行ったとしても、オレは人間を恐れるだろう。
暖かく迎え入れようとしてくれた人でさえも。
誰にも心を開くことはできぬだろう。
疑いや恐れが、それこそほっといたら雑草が生えてくるように次々と出てくる。
このようなことは、ずっと続くのか?
オレは、本当に純粋なもの、あたたかなもの、優しきものを、自ら自身のうちでいつも損ねてしまうのだ。
素直に、愛を受け取ることができない。
ああ・・・チクショウ、チクショウめ。
今、さっき、あんなに喜びに満たされていたのに。
もう、悲しみなど存在しない・・・そう心から確信できたはずなのに。
あの喜びが大きければ大きいほど、喜びが去った瞬間、言い知れぬ悲しみや孤独は影のように付きまとう。
なぜ、こんな気持ちが次々と湧き上がって仕方がないのだろう?」
ソラが目を輝かせながら元気な様子で話しかける。
「ハル、もっと元気出せよ!
もっと、自分のことを信じるんだよ。
元気がないのは、信じる力が弱いからだよ。
辛い時こそ、笑顔をつくるんだ。
ほら、幸せだから笑顔になるんじゃなくて、笑顔だから幸せになるっていうだろ?
ぼくはマスターと〈永遠の君〉に出会えて、心から嬉しい。
喜びに満たされたら、ハル、君の哀しみなんて吹っ飛ぶさ。
だから、もっともっと、真剣に求めるんだ。
明るい心でいる所に、明るい出来事が訪れる!
全てはみんな心が作り出しているんだよ。
君の心ひとつで世界は変わるさ。」
ソラの言うことに間違いはなかった。
ハルは、はにかみながら、頷いてソラの話を聞いていた。
ソラの瞳も声もまるで太陽のようだった。
ハルは、その光がしんどくて仕方がなかった。
ハルの背中の影はますます濃くなっていった。
「お前も、ザッハ・トルテ国に居そうなタイプの純真で疑うことを知らぬタイプのオメデタ野郎だな。」
「ほら、言ってることが、トルテの法に似たようなことではないか。」
誰かが、ハルの心の中でそうささやいた。
「誰だ・・・」
ハルが心の中で返す。
その黒い声は続ける。
「この三人も・・・今は・・・今だけは・・・いい奴だよ。
だけど、この世界には完全なる善人などいやしない。
いつか、世界はお前という存在に愛想をつかして見捨て、裏切り、侮辱さえし始めるよ。
お前は、それを恐れている。
それが現実にならないように。
だけど、哀しいかな、それが現実にならないようにと恐れて押し込めれば押し込めるほど、
その恐れは、現実となって、お前自身に降りかかるのだよ。」
「そんなことは、ない。
あるわけがない・・・。」
「いや、そうなるね。
その前に、お前自身が、愛する彼らを見捨て、裏切り、侮辱さえするようになる。」
「やめろ。やめてくれ。
そんなことしたくはない。するわけがない。」
「本当はどうかな?
人の心の深淵には、自分でも気が付かない物の怪が眠っているのだ。
存在が欲望によって生じるように、愛の奥には、憎しみの根っこがある。
人が人を殺さぬのは、自分で殺さぬように意志しているからではない。
たまたま、そういう平和な状況に多くの人が置かれているだけなのだ。
誰の中にも、人を殺す要素はある。
たまたま、それが発現すれば、誰だって人を殺せる。
お前にそのクジが回ってくることだってあろう。」
夜の闇はますます濃くなっていき、周りは何も見えなくなった。
ハルは息を殺して、その「内なる声」に引きずりまわされるだけだった。




