我(エゴ)について
「自分自身であること」
そのことを「考え」れば「考え」るほど、ソラはそれがどういうことかわからなくなってきた。
何か、「自分」というものにとらわれてがんじらめにされているみたいだ。
「自分のことばかり気にしとっても、自分のことはわからへんで。永遠に。」
「でも、、、マスター、あなたは、〈本当の自分自身〉であることが大切って。」
「そんなふうに、鏡で自分のことばっかり見つめとっても〈本当の自分自身〉なんて見つからへんがな。
多くの人がたいがい『自分』というたら〈我〉のことばかり気にする。」
「〈我〉?」
「そう。
俺が、俺が。
私が、私が、
の〈が〉。
自分さえよければ、あとはどうでもいいや、
それが〈我〉、エゴや。」
鶏が鳴き、太陽が地の向こうから顔を出す。
いや、正確には、太陽自体は動くことはない。
動いているのは実は、ぼくたちが立っている大地の方だ。
そのことをソラは知っていた。
だけど、ぼくたちの目にはやはり動いているのは、天体の方であり、
この大地が星の海の中をクルクルと航海している船なのだとは思えない。
そして、それは〈我(エゴ〉の視点だ。
「本当の世界は、ぼくたちに見えているとおりではない。
何事も、今自分たちが常識と思い込んでいる見方をひっくり返してみることだ。
案外そちらの方がつじつまのあった真実であるなんてこともあるかもしれない。」
マスターは続けた。
「人生の問題、、、苦しみや不幸、、、
それらは〈我〉を中心にして生きることから生じる。
さて・・・あの夜、あんたは見たな。
出会ったはずや。
宇宙を虚無と混沌におとしいれようとするゴルゴン・ゾーラっつうやつに。」
「今、やっと聞くことができました。そもそも、〈あれ〉は一体何だったのでしょう?」
「ああ・・・憎しみを抱いとる奴や。人間にな。そして世界にな。」
「憎しみって・・・なにかひどい仕打ちでもされたのですか?人間に。」
「違う。〈やっかみ〉や。
そして、〈むさぼり〉。」
「やっかみ・・・なぜ?
あのゾーラという者は、人間よりはるかに大きく、力もあって、賢いじゃないですか。」
「奴は、傲慢なのだ。
世界のすべてが、自分のために存在すると考えている。
宇宙の中心に自分が存在し、すべてのものが自分の言うとおりにならないと我慢ならない。
そういう奴だ。
だから、決して満足することがない。
それも永遠に。
奴はあらゆる手段を使って、自分のために世界のすべてを思い通りにしようとする。
力を使って。知恵を使って。まやかしの術を使って。
だけど、どんなに力を得ても、仲間のように思われるものを得ても、
そして、仮に世界の全てをその手中におさめることに成功したとしても、
決して満足することはないんや。」
「なぜ?
なぜそんな愚かなことを?
幸せになりたいのはゾーラも同じなのでは?」
「すべての生きとし生けるものは、目に見える存在も、目に見えない存在も、幸せを目指して生きている。
やけど、ゾーラはすべてを〈我〉によって。
つまり、自分のためだけに考えて。
そして、
〈黒い炎〉の尽きることのない場所に住んでいるんや。」
「黒い炎・・・?」
はるか遠く。
大空というキャンバスに一本突き出た針のような塔。
そこにコールタールのようなどす黒い雲が立ち込めてきた。
「あれは・・・塔、でしょうか。
それに不思議な雲ですね。雨でも降るのでしょうか。」
黒い雲が裂けた。
その裂け目から出てきたのは、太陽の光ではなかった。
真っ黒な闇が墨汁を垂らすように流れてきて、その塔の針の先のような突端に吸い込まれていく。
「同じだ・・・。あの夜目の前で天球を引き裂いて流れ込んできた闇と。」
その闇の中には何やら無数のうごめく生命体が飛び交っている。
そして黒い閃光が光った。
「あれは・・・ブラック・サンダー・・・!」
「ブラック・サンダー?」
「ゾーラの身体を包む〈黒い炎〉。
それが、地上に召喚された時、それは黒い雷として現れる。」
「なぜ・・・なぜ、そんなことが起こり得るのですか?」
「人間たちが求めとるんや。ゾーラの力を。
あの塔は、ゾーラの炎を召喚するためのひとつの縁。
人間たちがゾーラの力を利用して、ゾーラと取り引きをして、この世を暴力と恐れで支配するための装置として機能しとるんやないやろか。
ゾーラ自身は直接この世界に手を出したり危害を加えることはでけへん。
だからこそ、ゾーラは人間の〈こころ〉を奪おうとして、語りかけ、乗っ取ろうとして、常に虎視眈々と狙っとるわけや。」
「そうなのですか・・・。とんでもない奴らがいるものですね。
ぼくたちもそうならないよう気をつけないといけないですね。」
「良い心がけやな。
やけど、、、少し注意して欲しい。
ソラ、こんなことを言って怖がらせようとしているわけやないからな。
もし、目に見えない世界の話を持ち出し、そして――時に憧れや魅力を利用して――やたらとあんたに善悪の価値観を植え付けようとする傾向のある奴に出会ったらよくよく注意してくれ。
なぜなら、その者はあなたに恐れを吹き込もうとしているから。」
「はい。分かりました。」
ソラにとってはわかった「つもり」だった。
「ゾーラは私たちの〈我〉に働きかける。
我とは、つまりやな、私たちが〈自分〉と思いこんどる存在のことや。」
ソラは、うなづく。
「我は、私たちの体験したことや思い出、それに思いこみからつくられとる。
それは本当にいろんなあらわれかたをする。
自分自身のためになるかどうかなんてことは気にもかけへんのや。
我は思いこみが増えていくにしたがって肥大してゆく。
それらの思いこみはあんたをコントロールしようとする。
そして、あんたの人生を自分の思い通りにしようとして引き廻すんや。
そう。
我はあたかも、君の王様、君の神であるかのようにふるまう。
我は『あなたのためを思って』それを行う。
あんたを守り、あんたに最も良い選択をさせているのだと信じ込んではいるんやけどなあ。」
「そう言われると・・・。
あれこれ思い当たることがあります。」
「我は、思い込みによって作られとるけれど、この思いこみっつーのも、君の嫌な経験の記憶から成り立っとるんや。
我は、〈たいせつ〉から判断するのではない。
むしろ、恐れによって判断する。
そして、この我による判断があんたの問題を解決することは決してない。
なぜなら、我こそが、君の問題そのものやからな。」
「自分と思っているものそのものが・・・問題そのものなのですか?」
「そう。
我が、あんたの人生の主導権を握るとする。
するともはやあんたは、〈自分自身〉ではいられなくなってしまう。
今、この瞬間を生きることができなくなってしまう。
過去のことを後悔し続けるか、未来のことを心配して生きるかということしか出来なくなるんや。」
「っ!」
ソラは、すっかり気が付かないうちに自分が我の罠のうちに巻き込まれて生きていることに気がついた。
心臓が鈍く打ち、息を吸い込んでも十分に入ってこない。
頭の中では重い綿が詰まっているようだ。
背中をしぼめ、下をうつむき、自分の中に黒いもやがかかっているのを感じる。
「あはは・・・そうか。
自分は、他人よりもそこそこうまくやっていたと思ったのだけれども。」
「大切なことは人と比較することやない。
だけど、自覚できたということは素晴らしいことやで。
そこから変容が始まっていく。
いいかい。
私の目的は君を落ち込ませることやない。
もっと意識的になってもらうことや。
もし、自分の我に気がついたとすれば、私たちは素晴らしいチャンスを手にしたことになるんやで。」
ソラはそれを聞いて、心の深いところにあかりが灯ったような気がした。
そして、ふっと顔を上げ、微笑んだ。
「こころが飢えて、自分の弱さや限界を知っている人ほど幸いな人はおらんで。
ソラ、君はきっとこれから驚くべきことを経験していくやろう。
君が当たり前のように感じているすべての土台が崩れていくように感じることもあるやろう。
だけど、心配すな。
それは、新しい君が誕生していくということやから。
種が芽吹く時のように、
芽が光に向かって成長していく時のように、
蛹が蝶になり、天空を舞うようになるように、
君の生命も、これから、それがいつになるかはわからへんけど、
然るべきタイミングでそんな次元に生まれ変わっていくやろう。
種や蛹の状態にとどまっている人らにはそれはようわからん。
やから、君に対してあれこれ言ってくるやろう。
そんなものはありえない、
あるわけない、と。
そしてそれは当然のことだ。
だけど、君の深くに眠っている本当のこころは、知っとる。
君が何をすべきかということを。」